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ryuichi sakamoto
  who's Sakamoto ?
(97/12/30)
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今読み返すと内容が古いですね。
筆者、目下違う認識をもっています。
(1/1/00)
 

「坂本龍一は、どんなタイプの音楽家か。」
坂本龍一は、僕が本格的に音楽に出会って、最初に確認した「天才」である。 喩えを含めて言えば、坂本龍一を通して「天才」というのも少しばかり了解した時以来、 僕はプロの作曲家になろうなどとは露ほども思わなかった。 そこに凡百とはあまりに隔絶した能力の差を見せつけられたからだ。 なるほど「天才」というものは、かくまで圧倒的なものか、とつくづく実感したものだ。

この差は古今東西の音楽の知識をいくら蓄積しても埋まらない。 そんじょそこらの流行歌なら、たくさんのその種の曲聴き、厳密にアナリーゼすれば、 自分でも真似できるような気がしてきて、 作曲家もいいな、などと妄想したかもしれない。(あとは運だ。) しかし、坂本龍一のような「天才」のひらめきはついに僕には訪れまい。 それは、まるで天空を覆う鉛色の雲をやにわに切り裂いて閃光を放つ稲妻のようなものだ。 恐らく彼は世界中のどんなミュージックシーンに対面しても、 根本的には「気後れ」みたいなものを感じることがないのではないだろうか。

僕は、労せずして名作をものにするという通俗的な天才論を信じない。 むしろ、彼は「努力家」であるとすら思っている。 ただちょっと普通と事情が違うのは、端からみると「努力」と見える作業が、 坂本の場合は、もって生まれた習性になっているところだ。 だから本人としては「努力」をしているという自覚が稀薄なのではないかと思う。これは「天才」に共通な現象だ。 僕の如き凡才のように、いちいちこれはこうしていかなきゃいけないんだ、 というような類の自己反省の必要が、「正しく努力」を詰み重ねる「天才」には非常少ないようなのだ。

自ら興のおもむくままに作業に没頭していること自体、 いよいよ能力を磨く最適な方法を巧まずして選択していることになるのであるから、 我々凡人にはたまったものではない。 まさに今現在も、リラックスして、面白がって、 シンセやピアノをいろいろいじったりしているうちに坂本の頭脳には新たな音楽の原子が凄まじい勢いで増殖し続けているのかもしれない。

音楽的天才のタイプとしては、坂本龍一は、シューベルトやドボルジャークのような系譜に属するのではないかと思う。 ショスタコービッチかプロコフィエフかといえば、間違いなくプロコフィエフに近い。 つまり、単純にいえば、楽想が絶え間なく湧いてくるのにまかせて、 音楽をどんどん量産していくというタイプということになる。 例えば、坂本が映画音楽のために用意する曲の膨大さ!平均70から80曲もあるのだ。 実際にサントラとして使用されるのは、そのうちのわずか十数曲に過ぎない。 また、彼はとりもなおさず卓越した和声家だ。坂本自身は、ドビュッシーが好きなようだ。

「多面体としての坂本龍一」
坂本龍一が、まだYMO時代、お気に入りの遊牧民族の写真について発言している言葉で、 非常に印象に残っているものがある。 それは、次のようなものだ。

「軽み。思想の身軽さ。腰の入った身軽さというか。 戦争の巧妙さ。逃げ足は早いし、攻撃も早い。きっと頭がよいのだ。 目印のないところを縦横無尽に駆け回れるわけだから、視界がよくなるのだろう。スゴイ。」

あるいは、また次のように発言している。

「遊牧民と闇市の少年とは類似性があるように思う。 都会に暮らしていると、そういう面が欠落しがち。闇市の少年っぽい頭の使い方を、 これから学習していきたい。(中略)その辺を自覚的に考え、音楽も含めて設定していきたい。」

坂本龍一は、なぜ次々に作風を変えるのだろう。 楽想が絶え間なく湧いてくるタイプの天才特有の移り気や意識的にスキゾフレニックに振舞ってきたとも言えるが、それだけでは説明がつかない。 より根本的な理由としては、 坂本龍一独特の自意識が、ひとつの音楽のスタイルに心酔し、固執することを拒絶、あるいは困難にしてきたからだろうと思う。常にある種の懐疑を拭い去ることができないのだ。 これは、かなり苦しいことではないか。

例えば、ボブ・マリーにとってのレゲエやミック・ジャガーにとってのロックのようなスタイルに相当するような行き着くべき定住の場を彼は決してもつことができない。 そうした宿命の暗さを引きずりつつも確固としたスタイルというものは、坂本龍一には無縁だった。 しかも,なおかつありあふれるような音楽的才能に恵まれているとしたら,,,,,,,,,,,,。 このあたりに、多様性や変幻自在の軽快さとは表裏一体の、 坂本龍一の作曲家としての存立の根本にもかかわる悲劇や危機ともいうべきものがないとは言えないと思う。

坂本龍一は、プロとして活躍する以前の、英才教育時代及び芸大時代にも驚くほど様々の作曲技法を体得していった。 純粋なクラッシックのそれや現代音楽、クセナキス等の電子音楽やジャズ、果てはガムラン音楽やインドやチベットの民族音楽まで,,,,,,。 そして一カ所に留まることはできなかった。プロになってからは言うまでもない。 彼は、どこにいても最後の部分である種の懐疑から解放されることができない。 そのように特異に宿命づけられた音楽的天才が、 どのような覚悟にたって創作をしていかねばならいかを想像してみなければならない。 さて、以上は、坂本龍一という音楽家個人の内部に、 目を向けた上での可能性と危機について述べたわけだが、さらに、 こうしたタイプの音楽的天才の今日的な存在意義について考えてみよう。

「解体と再統合。未来の音楽のために。」
僕は、この企画を通して、坂本龍一のsolo workやsoundtrack等の各曲について、僕自身の愛着や思い入れ、 特筆すべき事柄その他について記述してきた。しかし、一方で、作業中、常にある種の空しさを自覚しないではいられなかった。 それは、音楽を言葉を通して語る際の避けようのない空しさのことではない。 (音楽を「言葉」で語るというハナから不可能なことに取り組むこと自体は、 むしろかなりスリリングで楽しい知的作業でもあるのだ。)

どういうことかというと、坂本龍一の曲について語る際、リズムはボサノバだとか、 メロディーはジャズ風とかいった具合に、 「既成のジャンル」を持ち出すことによって説明することの不可能性さ加減にやりきれない思いをしばしばしたということだ。 なぜなら、あらゆるジャンルは、坂本龍一の音楽のなかでは、すっかり解体されて、 坂本龍一スタイルとしかいいようのないものに変容してしまっている。 この既存の音楽ジャンルを援用しつつ解体していくというやり方は、坂本龍一の才能の本質的な部分であり、 デビュー・アルバム「千のナイフ」の時、既に始まっていたものだ。

このことは、何も坂本龍一個人のなかでのみ起こっているわけではない。現在のミュージック・シーン全体について言えることだ。 クラッシック、ロック、ポップス、ジャズ、タンゴ、ボサノバ、リズム&ブルース、レゲエ、テクノ、 ヒップホップ、などなど西洋とアジアとアフリカのほとんどすべての既存音楽のジャンルなり、 スタイルは解体され、お互いに取り込みあっている。

全世界を網の目のように繋ぐ高度情報化社会は、その傾向をいっそう加速させるだろう。 実は、音楽自体の生命力に自ら解体へと方向づけられた力というものがあるのだと思う。 現在は、まさにあらゆる既存のジャンルの音楽が解体へと否応なく移行している時期といえる。 振り子のように、時折一時的な揺り戻し現象を繰り返しつつも、 この滔々たる解体への流れを止めることはついにできないと僕は断言できる。

今さら何々一筋とかいったこだわりは、時代の底流にある胎動対して鈍感で、 頑迷なもののなせるわざというほかない。 ノスタルジックな趣味としてアマチュア的にやる分には、人畜無害だが、現在の音楽的不毛を根本的に終結させ、 未来への音楽の扉を開くことの役には立たないだろう。 だいたい、一切の異物を取り込まないで音楽のひとつのジャンルの中に閉じこもるなどということは、現代に生きる限り、 不可能なことだ。より音楽的な人であれなあるほど、ジャンルやスタイルの解体への動きを無視することはできないはずだ。 現代において、ことさらに何々一筋といった具合にこだわるというのは、 その内実はイデオロギーや党派性の問題であって、「音楽」とは無関係である。 (但し、才能の育成という観点では、音楽人生のなかで、ひとつの優れた「型」を徹底的に習熟する一時期をもつことは、 無駄なことではないどころか、不可欠だともいえる。それは別次元、つまりは音楽教育上の実際の話。)

ハウスミュージックなどは、既存の音楽の解体情況をより鮮明に反映した音楽だ。 ハウスミュージックでは、DJが既製曲をサンプラーなどで断片化し、 再構成することがクリエイトの主な場面である。また、 オムニバス形式のアルバムに収録された正統的な(?)ハウスミュージックは別として、 どのジャンルにも収まりようがない音楽は、評論家やレコード店によって、 なんでもかんでも便宜上無理矢理、ハウスミュージックに組み込まれることがしばしばである。

こうした解体への動きは、音楽の世界に固有の現象ではない。あらゆる次元でみらている。 音楽のジャンルの解体は、新時代の流れに適用不可能な老朽化した枠組みの、地球規模の, むしろ解体現象の一部にすぎまいと思う。 国家論的な次元でのうねりとしては、経済行為の影響を中心とした国家間の境界線の希薄化、 社会主義の崩壊と資本主義化、高度資本主義の必然的な社会主義化等が挙げられる。 左右の対立という枠組みで、国内の動きも、国際社会の動向も読み解くことができる時代は去った。

既存音楽の解体への動きは、よく吹聴されるように価値観や嗜好の多様性のみに終わるのろうか。 過渡的情況の辛いところで、マトモな神経の持ち主なら、 現在のミュージックシーンのやりきれない不毛さを実感しつつその場限りの代替物で我慢しているのだ、 という人も多いのではないか。 そうして今後永久にこうした絶望的状態が続くのかといえば、少なくとも音楽については、 僕はその心配はないと楽観的に構えている。 なぜなら、音楽には、解体へと向かう力と同時に自ら「再統合」へと向かう力があるからだ。

既存音楽ジャンルやスタイルの解体と再統合は、今に始まったことではない。 端的な例として、モーツァルトの場合を思い出してみよう。モーツァルトの一生は、周知の如く旅行につぐ旅行の連続だった。 現代でこそ古典様式の権化の如く思われているが、 彼は旅先の流行や新しい様式をなんのくったくもなく次々と自身の音楽に取り入れていった。 それでいながら、揺るがぬ正統性と独立性をもった音楽を確立している。 これは、まさに、ひとりの天才の内部における、音楽の解体と再統合のドラマではないか。 (もっとも、モーツァルトは、あまりといえば、あまりに天才中の大天才だけれど。) もうひとつ例を挙げれば、ラベルやサティーなどフランス印象派音楽家による黒人音楽の摂取だってそうだ。そいった姿勢こそ西洋の古典音楽が他に類を見ないほどのヴァリエーションを生み出し、常に新鮮さを保ち続けた秘訣だろう。(最近は?)

坂本龍一は、西洋音楽とアジアやアフリカの民族音楽の作曲技法に通じ、さらに現在の新しい音楽をも取り込みながら、 次々とスタイルを変えていく形で作曲活動を続けている。 そうした坂本龍一の作曲姿勢を、節操がないだとか、コピーだとかいうのは、あまりに浅薄な感じ方であり、 明らかな誤解である。 彼こそは、まさに、現代における既存音楽の解体への不可避的な流れを、誰よりもよく見極めている稀有な音楽家のひとりなのだ。 そうした坂本龍一の音楽のなかに、「再統合」への萌芽なりとも発見することができるならば、 それは「未来の音楽」へ導くものであり、 それこそは、坂本龍一の現代における音楽家としての最大の存在意義だろうと思う