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ryuichi sakamoto


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  rs's chronological biography
(プロデビューまで; 97/12/31)
    1952
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東京都中野区に生まれる。一人っ子。
    1955

東京友の会幼児生活団に入園。
自由学園系の幼稚園だった。 ここで、譜面の読み書きやピアノを習い始める。初めて作曲をする。
ウサギを飼っていたので、 「ウサギの目は赤い」という題名の曲をつくったりした。詞もついていた。

    1957

はしかにかかる。中野から広尾に引っ越す、さらに広尾から世田谷に引っ越す。

    1958 世田谷区立祖師谷小学校に入学。
    1962

小学5年生の時、ピアノの先生に薦められて、芸大教授の松本民之助氏に作曲を 習うようになる。

坂本龍一自身もやる気はなく、両親も反対していたにもかかわらず 、この英才教育は続けられる。普通、音楽の英才教育というと、我が子を、例えば バイオリニストに育てて、国際チャイコフスキーコンクールで優勝させるべく、両親 が一身を投げ打ってバックアップし、子どもも両親の期待に応えて、猛練習に励む という光景を思い描きがちだが、坂本龍一の場合そうしたところが微塵もない。その 癖、膨大な作曲の技法の知識は次々と吸収していくし、音楽的才能も豊かに開花 させていくのだ。

但し音楽表現への確固たる動機が不在であるという感覚は、現在に至るまで坂本龍 一に常につきまとっている感覚であろうと思う。それは、坂本龍一をめぐる大きな謎の ひとつである。どう考えても、この人は音楽をやる以外にないのだが。

目の茶色い女の子に初恋。

    1963

小学6年生。五味川純平の「人間の条件」を読むなど、早熟ぶりをみせる。 一方ピアノの方は、やる気のないだけあって同僚と比べて、うまい方ではなかった。

    1964

世田谷区立千歳中学校に入学。
中学一年生の時、ベートーベンのピアノ協奏曲第3番に感動し、「好きという以上に 好き」になる。初めて「自分から音楽が面白い」と思えるようになり、自発的に、なお かつ専ら自分のために作曲の勉強をする。そして、クラッシックにのとったあらゆる 形式の曲をつくるようになる。当時は、一日6時間ぐらい音楽の勉強をしたという。う ーむ、やる気になった時の坂本龍一の集中力はやはりスゴイ。

中学時代、流行音楽としては、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、デイブ・クラーク・ ファイブ、キンクス、アニマルズなどをよく聴くが、影響を受けるほどではなかった。 興味深いのは、チェックしているミュージシャンといえば、ほとんどが欧米のミュージ シャンであることだ。ちなみ演歌は、原則として嫌いなようである。

    1965

中学二年生。
音楽の嗜好は、ベートーベンのような古典主義から、ロマン派を飛び 越して、ドビュッシーやラベルなどのフランスの近代音楽に移る。どうやら中学時代 に現代音楽を除くクラッシック音楽の作曲技法は一通りマスターしたようだ。

    1966

中学三年生。
哲学書にも興味をもつようになり、デカルトの「情念論」や「方法序説」 、サルトル「存在と無」などを読む。多くの青年がこの時期「人はどこから来て、どこ へ行くのか?」という大問題を抱くように、坂本龍一もその答えを求めて、哲学書を 読みふけったのだろう。

    1967

都立新宿高校入学。
時代は、学生運動の季節。坂本龍一も学生運動に明け暮れる。 中学三年の時すでに心情的には反日共系だったというのだから、かなり気合が入っ ている。なんでも新宿高校というのは、中核派の高校生部隊の拠点校だったという。( だから坂本は新宿高校を選んだんだろうか?そんなわけないか。)上部組織とどの程 度連絡をとったうえで組織的に活動したのかわからないが、鉄パイプを振り回してかな り派手に暴れ回わったらしい。深夜の帰宅や外泊は当たり前の入れ込みよう。

ある時は、高校の定期試験の当日学校中を回って、試験用紙を破棄し、試験の実施 をボイコットしたりした。三年時には、特に親しかった活動仲間共々学校側から”頼む から出ていってくれ”という感じで 、厄介払い的に卒業させられる有り様だった。


ところで、当時の坂本龍一がマルクス主義的な「革命」を目指して活動していたか?と 問われれば、答えは「NO」だろう。当時坂本龍一にもっとも思想的な影響を与えたのは 吉本隆明であったと思われる。マルクスにしても吉本というフィルターを通して理解して たのだろうと思う。マルクスよりも一層吉本をよく読むタイプの学生運動家に属していた のだろうと思う。

一途にマルクス主義的な「革命」を目指すタイプの学生運動家がいれ ば、一方では、内心そんなことは全然信じてないで、吉本の本を小脇に抱えて、欺瞞に 満ちた擬制の解体への試み自体を目的に活動していた学生運動家というのは意外に 多かった。(後年、吉本隆明と坂本龍一の対談「音楽機械論」が発刊された。)

学生運動にのめり込んではいたが、作曲は作曲で続けていた。高校一年生の時、高 校の先輩にあたる池辺晋一郎に曲を見てもらうと、既に芸大にはいれる水準であると 評価される。((この人の青年期って割と身近に池辺晋一郎のような大家いるんだよね ぇ〜。青年には実に刺激的な環境だよねぇ〜。人生出会いで決まるもんなぁ〜。)

ピンク・フロイドやクリームなどのサイケデリックのロックをチェックしていた。また、 高校が新宿であったこともあって、近くにジャズ喫茶があり、よく通う。コルトレーンなど を聴く。 友人とフリー・ジャズのバンドを組んでセッションをしたりする。 教授の曲に時折覗かせるジャズ的要素は、この時養われたものに多くを負うているの かも。

読書。多読乱読。当時のノンセクトな学生運動家の必読書ともいうべき吉本隆明や埴 谷雄高。ボードレールやランボーなどのフランスの詩人。シュールレアリズムのジャン =ジュネやバタイユ。マルクス、エンゲルス、フロイトなどの社会科学関連。現象学の フッサール。とここまでは、通常の秀才学生運動家の読書傾向といったところだが、 変わっているのは、同時にこの時期コンピュータや情報科学への興味を示して、しきり にその種の書物を読んでいる点だ。

新宿の昭和館でヤクザ映画をしきりに観る。またゴダールやパゾリーニといった映画監 督を好んで観る。

坂本龍一と父。
父は編集者ということだけれども、「神経質でコワイところがあり」、高 校生ぐらいまでは、面と向かって顔を見ることができなかった。これは、かなり異常で ある。精神科医なら坂本龍一の性格形成を分析する上で、生育史上の重要なファク ターに数えるだろう。実際、青年期になんらかの精神疾患が現れても少しもおかしくな いような父子関係だ。それが決定的な自我の障害として表面に現れないのは、やはり 坂本龍一が人並外れた精神力の持ち主だからだろう。 (97年には、ご尊父は病気で入院されたようで、sitesakamotoの日記には、病床にある 老いた父親を護らんとする心やさしい気遣いにあふれた記述が散見される。)

紀伊国屋書店で万引きしてつかまり、親を呼び出されて、えらく恥ずかしい思 いをする。(なにやってんだか(^^;;)

    1968

高校二年生。
高橋悠治の演奏を初めて聴き、芸大志望に大きな影響を受ける。 (高橋悠治。作曲家。ピアニスト。クセナキスに師事し作曲を学ぶ。電子楽器や電子計 算機を用いて、独自の音楽言語を追求した異色の現代音楽家。後に電子音楽と決別。)
*僕は、メシアン=武満徹が好き。え?聞いてないって?ハイハイ.....

ちなみに、教授は、芸大時代、既に内外で高い名声を得ていた武満徹を体制擁護の芸術家として、 糾弾するビラをコンサート会場の前で配ったりしたそうである。後年、再開した時、武満 は、そのことを覚えていて、また、教授に「いい耳をしてるね」と言葉をかけた。 教授はといえば、すっかり舞い上がってしまった模様(^^;;

    1970

東京芸術大学作曲科入学。
クセナキスや高橋悠治の影響で、コンピュータを使って、音楽を作る。 数学理論(クセナキスといえば、「確率」)にのとってならべられた音階を電子楽器が演奏するというもの。 コンピュータは、自動演奏を行うために使うわけだが、高度な数学理論を適用する上 での複雑で膨大な計算を人間の代わりに行うというウェイトが大きかった。ここで坂本龍 一が試作していたコンピュータ音楽というものは、「千のナイフ」以後のリリカルな 音楽とは随分と毛色の違うものだった。思いっきり前衛的な現代音楽だった。

坂本龍一は、その無機性や理詰めで割り切れるところにひかれたという。 優れた作曲家が皆そうであるように、坂本は、パッショネイトな一方で非常に数学的に明晰な頭脳 の持ち主である。作曲家を文系か理系かでわけるとしたら、理系人間である。作曲家という のは、英語でComposerともいうように優れた「構成者」に他ならない。 モーツァルトが数学が得意であったことは有名だ。 (もっともクセナキスの影響下で数学理論を適用して音楽をつくるということは、また次元を 異にする事情があるわけだけれど。)

しかし、次第に、極一部の前衛音楽家のみによる実験的な音楽の閉鎖性に違和感を感じたり、 現代音楽的なコンピュータ音楽に可能性を見出すことができず、関心を失っていく。 ただ、目立ちたがりやで、人なつっこいパーソナリティーの他方に、冷徹な離人性の理論家 が常に同居している点は今でも基本的に変わっていないように思う。

    1972

大学三年生。
バイトのつもりでぼちぼちスタジオミュージシャンを始める。 本人いわく「嫌だったけど、お金になるからやった」 当時優秀な音大生というのは、正規の音楽教育を受けていないミュージシャンにとっては 非常に便利な存在だった。ピアノ演奏はもとより、1、2度レコードを聴けば、総譜(全ての パートの譜面)を書いてくれるからだ。そんな具合であるから、大学院卒ということもあって 後に「教授」というニックネームで呼ばれるようになる。

    1973 大学四年生。結婚(一回目.....)。長女誕生。
    1974

東京芸術大学大学院音響科入学。
この時代は退屈でたまらなかった。時間を潰すために行き付けの喫茶店を何軒もまわったり、 時には野音で行われるコンサートに行って、女の子を物色してはお酒をのませたりしていた。 退屈さを感ずるというのは、とりもなおさず、内部にエネルギーが鬱積している証拠でもあったろう。

友部正人のレコーディングに参加する。初めてプロのミュージシャンのレコーディングに参加(ピアノ)。 音楽家になることへの必然性を確信できぬまま、音楽関係の仕事が増えていき、「なんとなく」 ミュージシャンへの道を歩み始める。

    1975 高橋幸宏とラジのレコーディングで出会う。

細野晴臣と大滝詠一のレコーディングで出会う。
    1976 大学院卒業。
    1978

YMO結成。
初のソロアルバム「千のナイフ」発表。