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『拡大版』(・・・・ものは言いようです。)

■ソーカル事件/『「知」の欺瞞』(Fashionable Nonsense)

仏無敵艦隊、米ハイテク・ジェット機のピンポイント攻撃にあっけなく撃沈?

いささか不謹慎かつ興味本位な副題だが、つまりその程度のことだという含意もある。ソーカル事件の詳細については、リンク先を参照されたい。さて、いわゆるソーカル事件(1996)に端を発し、フランスの代表的な現代思想、社会科学の巨匠らの科学・数学の専門用語及び概念の濫用に対する、専門科学者の容赦のないつっこみが、英米仏、そして我が国(の極一部)で、大きな波紋をなげかけている。他分野の知識人による、多少の(?)「創造的な」誤用に対して、大槻教授のような融通の効かない理系の専門バカがケチをつけただけではないのか?しかし、ことはそれだけに留まらなかったのである。

なぜか?他国の事情については、見当のつけようもないが、日本の情況の特殊性についてなら、おフランスな面々の言説に触れてきた一般読者のひとりとして、ジャーナリスティックなレベルでなら、いくらか想像がつく。ポスト構造主義のジャーナリズムでの最初の紹介者である蓮實重彦にせよ、ゲーデル定理の柄谷行人にせよ、ニューアカの仕掛け人浅田彰にせよ、ソーカルの規定するポストモダニズムに相当する知識人が登場する時は、日本に関する限り、いつも"なんとなく科学的厳密"という相貌をもって現れ、ことあるごとに世俗的ないし伝統的、古典主義的な人文科学者や文学者の方法上の非科学性をあざ笑ってきた。もし彼らが、今更、それをたわいもないメタファーやらアナロジーだと言い逃れるとしたら、それは虫がよすぎるというものだ。それは決して『隠喩としての建築』(柄谷)ではなく、紛れもないサイエンスであるという点にこそ彼らの議論の自負があったのだ。

これら理数系のセンスをもった知識人は、日本の旧タイプの文学者を相手にした時は、滅法強かった、いや少なくとも、どっちが勝ったのかわからないところへ読者を引っ張って、煙に巻くことに関しては、驚くほど巧みであった。しかし、今回の論敵は、自然科学の「専門家」である。徹頭徹尾、1+1=2で押し切る連中ある。おフランスなテクストのお戯れの忍術戦には一切応じない、頭の堅い白衣組である。喩えれば、桜庭和志がグレイシー一族のマウントを受けつけないようなものだ。(・・・・違う、違う。)

『特に、ある種のテクストが難解なのはきわめて深遠な内容を扱っているからだという評判を「脱構築」したいのである。多くの例において、テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだということを見ていきたい。』(『「知」の欺瞞』1はじめに)

そして、英米仏、日本で巻き起こった論議のプロセスで暴露されたのは、ポストモダニズムって、専門科学者を相手に戦うと、打たれ弱いじゃん、ということだ。死角といえば死角であったかもしれぬ。大学のいち物理学教授のつっこみに、ほとんどまともな反論ができていないのだ。この劣勢を挽回するには、自力では不可能かもしれぬ。このうえは、ソーカルもびびる、彼より出来のいい物理学者を味方つける他ないかもしれない。

簡単にいっちゃえば、(いっちゃだめだが(^^;)ポストモダニズムの盟友にして恋人だと思い込んでいた<科学>によって、あんた科学的じゃないよ、と通告されたわけだ。彼らの古典的な人文系への優越感の根拠は揺らいだ。これでは、あからさまには言わなかったとはいえ、それとなく日本のポスト構造主義者が臭わせてきた、直覚やら感傷やら物語を排した「科学的なクールなボク(アタシ)」というイメージが台無しである。生兵法は怪我のもと?個人的には、論理の支柱が<自己>以外への依存から成り立っており、依存の対象にそっぽを向かれたとたんにだらしなく瓦解する、その学としてのヘタレぶりを情けなく思う。正面から<自己>で敗れるなら、まだ本望というものじゃないだろうか?ソーカルは、次のごとく身もふたもないことを言う。

『彼らは、自然科学の名声を利用することで、自分の言説を厳密なものに見せることができると思っているのかもしれない。そして、彼らが科学の概念をまちがって用いていることを誰も気づかないと信じているようでもある。王様は裸だと叫ぶ者は一人もいないだろうと。』(『「知」の欺瞞』 1はじめに)

ソーカル自身が『「知」の欺瞞』でやっていることを見る限り、彼は、天才でもなんでもない。しかし、だから怖いともいえる。ソーカルの戦術は、露骨なまでに科学者らしい正攻法である。まず、彼は、批判対象を、ポストモダニズムの巨匠のテクストに援用されている自然科学の用語や概念、科学哲学の一部、つまり、あくまで彼の守備範囲に限定するという基本姿勢を貫徹する。こうした喩えは、誤解を招きやすいが(笑)、それは、ステルス戦闘機のピンポイント攻撃を想起させる。さらにソーカル事件以後に彼に向けられた反論を弁別、分類し、『「知」の欺瞞』執筆の段階では、予測し得る反論を列記し、あらかじめそれぞれを論破してから、本編を始めている。NASAの科学者がロケットを打ち上げるにあたって、予測し得る、あらゆるアクシデントに備えてシミュレーション訓練を行うように。こうしたやり方は、誰の頭にも浮かぶだろうが、ブンカ的な人々ならなんとなく躊躇する気持ちが湧くものである。ソーカルの戦術やメンタリティにアメリカ的なものを感じているフランス人の気持ちもわからないではない。

本来ならば、『「知」の欺瞞』の<正しい>感想は、次のようにありふれたものに終始すると思う。すなわち、『文系とか理系とか、めいめいの領分に閉じこもってないで、さかんに相互が対話すべきだよな〜。』どこまでいっても、それだけのことだ。それがかくも大きな論議を巻き起こしたのは、何も著者ソーカルの兆発的な態度だけが原因ではないだろう。ソーカルはいち大学教師に過ぎなかったが、計らずもフランス現代思想の巨匠と、なによりその見栄っ張りなエピゴーネン達の、まさしく逆鱗そのものに触れたのだ。彼らは、ご自慢の科学的知識の誤りを暴露されて周章狼狽し、専門科学者への劣等感コンプレックスをあらわにして過剰反応し、その軽薄な<科学主義>への依存ぶりを見透すかされたのだ。結果として、人文科学総体の地位を貶め、いよいよ自然科学者を増長させてしまった。フランス現代思想の研究者や追従者は、被害を少なめに見積もっているが、その実、撃沈ではないまでも、大破に近いと思う。ソーカル事件について知るものは、一般読者の中では、論壇誌などに目を通すような読者層に限られるが、知識人の関心はつとに高い。今後ある傾向の言説が説得力を失うのは必至だろう。

ソーカルらの「快挙」に対して、喝采を送っているのは、なにもポストモダニズムの認識論上の相対主義を苦々しく思っていた保守的な科学者ばかりではない。そもそも大半の科学者にとっては、ポストモダニズムの行く末など、無知を含めて興味はないそうだ。むしろ、ソーカルらは人文科学者の中に多くの賛同者を得ている。無論その中には、つまらぬ私怨によるものが相当あると思われるが、ポストモダニズム思潮の共同体の権威主義的な硬直、馴れ合いの構造に、内心不満をかこっていた知識人がたくさん存在したということではないだろうか。東浩紀は『ここ5、6年は、ポストモダニズムへは一貫して逆風が吹いていた。』(『ポストモダン再考』2000年9月)と述べて、ソーカル事件を相対化しているが、それらの『逆風』がポストモダニズムへの致命的な災厄ならば、蓮實重彦が東大の学長に推挙されることもなかっただろう。

『人文科学と社会科学
者の多くの研究者が感謝の手紙をソーカルに寄せ、彼らの分野の大きな部分を支配しているポストモダン的な潮流や相対主義的な傾向は受け入れられないと書いてきた。』(『「知」の欺瞞 1はじめに』*なおこの見解がそのまま客観情勢と一致しうるかについては、引用者はこれを留保する。)

柄にもなく「おフランス」へのシンパシーを寄せてみると、フランス現代思想、社会科学における自然科学、数学の用語や概念の導入には、学問の細分化の隔たりを突破して、総合的な世界把握を企図しようという側面もあったと思うのだ。今回その不手際が暴露されてしまったが、ドゥルーズ=ガタリが驚くほど広範な分野を渉猟することで、表象している世界は、さながらルネサンス的巨人・ゲーテが夢見たすべての学問の統合という憧憬を継承する観がある。そのような総合性、統合性への憧憬というベクトル自体は誤りではないと思う。しかし、今や専門科学者によって、それらは学生に有害な擬似科学の刻印を押され、廃棄処分の憂き目にあいかねない事態に直面している。

しかし、無論、数学的な明晰ささえあれば、人は生きていけるというものじゃない。(もちろん、ソーカルだってね。)再び「哲学」が復興する機運だろうか。哲学らしい哲学といえば、サルトルらの実存主義が最後だが、そもそも哲学というのは反専門性の思考であったと思う。もちろん最低限の哲学史の流れと用語法をあらかじめ了解しておかなければ深く読解できないことはいうまでもない。しかし、とにかく、なんの予備知識もないまま格闘しても、すぐれた哲学書なら、<読書百遍、義おのずからあらわる>の原則がなんとか当てはまるものだと思う。哲学は、ふだん誰もが生きていくうえでおこなっている思考を、命題を整理して、より自覚的に、より厳密にやっていくことだ。バイオテクノロジーの発達や脳死問題をめぐる生命倫理的な命題など、広義の哲学的思考の必要性はいや増しているといっていいだろう。

実のところ、ニューアカがまだ元気だった80年代、同じジャーナリズムの舞台で竹田青嗣など、既に本来の哲学の思考へ立ちかえろうという動きはあったのだ。しかも、今改めてその著作を読み返してみると、ニューアカを中心とするポストモダニズムへの竹田青嗣の苦言と、ソーカルやその支持者の主張の間には、一部とはいえ重要な一致がみられる。無論、フッサール現象学に傾倒する竹田青嗣は、認識論上の相対主義を否定する立場ではない。のみならず、ソーカルのような専門知の特権的な振る舞いを一貫して批判する立場にある。従って主義主張の骨格に関する限り、両者は決して合い入れない。にもかかわらず、両者ともポストモダニズムのいたずらに晦渋としか思えない記述に衒学趣味のうさんくささを嗅ぎつけている。それは非常に健全な感性だと思う。

『ポストモダニズムと呼ばれたこの思想は恐ろしく難解で複雑なものであり、思想というものがこれほど取り扱いにくいものになったことは、おそらくなかったろう。マルクス主義にもむずかしいところがあったが、それは根本では人間の生活実感に訴える力があった。ポストモダニズムはそうではない。それは基本的に論理や認識の問題にかかわっており、ある問題領域内での専門的な<知>にすぎなかった。しかし、それは、その複雑さ、難解さで、奇妙な思想上の幻惑を人々に与えた。』(竹田青嗣、『現代思想の冒険』文庫版あとがき)

『思想を、複雑精緻な世界像を作りあげるための道具として利用するのではなく、すでに打ちたてられた「社会」という巨大な<知>の建築物を解読し、それを人間の生活の場所から疑い、批判し、判断するための技術として用いること。つまり、権力としての<知>という「裸の王様」を見破る力として、思想をあつかうこと。このことによってはじめて「思想」は、本質的な意味を取り戻すことができるだろう。』
(同上)

それにしても、われわれは、いつになったら"科学的"という悪魔的な説得力から自由になれるのだろう。思想、社会科学的な言説だけではない。映画、アニメーション、マンガ、ビデオゲーム、ポップミュージックの歌詞、果てはカルト教団の教義などなど、ありとあらゆる表現が、相手をいくらかでも説得したいという欲求を感じた時、"科学的"という相貌を装わずにはいられない。それはもはや現代人の習性の主要な部分を占めている。これってやっぱり現代の「神学」でしょう。現代人が無宗教だなんて嘘っぱちだ。『「知」の欺瞞』を読んでいて、僕がずっと考えていたのはそういうレベルの問題だ。


『「知」の欺瞞』 アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン著/岩波書店/\2800
(ISBN4-00-005678-6 C0010) 2000年5月24日 発行。
*賛否両論あるけど、とりあえず読んどいた方がいいと思う。かなりむごたらしい光景が展開されるので、シンパの人には心臓に悪いかも。



ソーカル事件、『「知」の欺瞞』関連リンク
*日本でも、こういう局面にありがちだけれど、いろいろな人のいろいろな思惑が入り乱れてるみたい・・・・。その辺に警戒心を働かせつつ巡回すべし。

アラン・ソーカル
・アラン・ソーカル・ニューヨーク大学のオフィシャル・ページ(英文)
『ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと』

『「知」の欺瞞』翻訳者のページ。
・「知」の欺瞞 について(田崎 晴明 物理学者) 
・きみはソーカル事件を知っているか? (堀 茂樹 仏文学者)

アンチ・ソーカル
ソーカルらへの反論は、ソーカルらの各論への種種雑多な批判に加えて、これらを保守的科学者による名誉回復と公的予算奪回をめあてにした、サイエンス・スタディーズ、カルスタなどの新思潮を標的にした一連の論争=サイエンス・ウォーズのひとつと見なす議論がある。少なくとも現在の日本に関する限り、個々のポストモダニストによる反論よりも、ソーカルの批判活動をサイエンス・ウォーズといた政治的な現象にすぎないという問題へスライドさせることで、片づける運動が最も目立った反ソーカルの動きのようである。すると衆人の視線は、フランスの巨匠達の記述そのものからそれて、政治的背景への穿鑿へ向かう。

ソーカルの批判活動をサイエンス・ウォーズと見なす主張で最も有力なものとしては、『サイエンス・ウォーズ』(金森修 著/東京大学出版会/3800円 ISBN 4-13-010085-8)がある。これに対しては、『「知」の欺瞞』の翻訳者である物理学者・田崎 晴明、殊に数学者・黒木玄がweb上で周到な反論を展開している。なおこのリンク集は、専ら数学者・黒木玄のwebコンテンツ『「知」の欺瞞』厳選リンク集を、あくまで資料=判断材料として扱い、勝手に再編集させてもらった。ソーカルの批判活動が、サイエンス・ウォーズか、否かについては、なにぶん政治的な思惑が絡むややこしい問題へと発展してしまうので、今の時点では一般読者には推測以上の判断はできないものと思う。

まあ、いずれにせよ、われわれ一般読者にしてみれば、相互不信によって焚きつけられた科学者×サイエンス・スタディーズ、カルスタなどといった対立も、政治的な思惑の絡むソーカル派×サイエンス・ウォーズ説といった対立も、勝手にやりあがれ、といったところだ。要は、フランスの現代思想の巨匠達が誤った理解のもとに科学的な知識や概念を濫用してきたという物理学者ソーカルの批判が妥当であるか、どうかだけが問題だ。道場破りの剣士が泥棒でも、その道場の師範や師範代を打ち破ったならば、その後に泥棒剣士がお縄についても、その道場の流派が敗れたという事実は残る。その伝でいけば、ひとりの人間が、一個の思想書が向きあう位相においては、ソーカルの批判活動の政治的な背景がああだ、こうだというのは、どうでもいいことだ。ただその思想書の記述がどれだけ信用に足るものかだけが重要である。

その他
『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(山形浩生)
*浅田センセの若気のいたりといった感じ。『構造と力』の内容そのものへの打撃はない。

『ポストモダンの再考』(東浩紀)
*「公開原稿たち」に所収。ここで東浩紀は珍しく浅田彰をはじめとしたニューアカを弁護している。それは、ポストモダニズムが日本では学術的に充分に認められていないといった免罪符にもならない事情を述べることや日本型ポストモダニズムの特殊性を強調する等によってなされる。こうした英米のそれとの対比で形成される日本型ポストモダニズム概観の試みは、罪状認否自体には一切関係のない無意味な作業だ。つまるところ東自身が繰り返しているような、この種の意味ありげな整理など、人文科学における忍術使いが反感を買い、ソーカルのあけすけでクリアな正攻法が喝采を得ることになるのだ。

話は単純だ。(1)ニューアカの先頭を切って旗を振っていたのは他ならぬ浅田彰である。/(2)浅田彰の批判的思考のリソースがポスト構造主義であることは明らかである。/従って本人に常識的な責任概念があるなら、ドゥルーズ=ガタリがクロとわかっ時点で、転向するか、岩窟王となって擁護するか、はっきりと態度表明するのは当然と思われる。最初に「珍しく」と言ったのは、浅田彰らニューアカを弁護するようで、実は、暗に自分を弁護してるかのではないかと穿ってしまうからだ。そもそも東浩紀が、議論をニューアカに限定し、ほとんど一貫して他人事のように事態を論評していることには非常に違和感を感ずる。呑気だね。

01/03/25

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