2月6日


2月6日、晴れ
「4時頃から陣痛が始まりました。まだまだ生まれませんが、奥さんが来て欲しいとのことなのでお願いします」。
 8時を過ぎたころだ。布団から半身を引きずり出してその電話を受けた。それを聞いた俺の感想は「腹が減った」だった。妻の顔を見てからでは飯を食いに抜ける気がしないだろう。先に実家へ寄り、飯を食ってから病院へ向かった。白バイを気にしながら原付を飛ばし、10時前に飯田橋の病院に着く。入り口のガラスに映った俺。寝癖も直さずヘルメットを被ったので、お笑いコントの狂った博士のような頭だ。今日父親になる男の姿は、なんだかやせていて情けなかった。
 妻は苦しんでいた。すでに6時間、孤独に陣痛と戦っていたのだ。のんびりと飯を食ってきたことを申し訳なく思う。「飯食った?」「痛い?」。食ってないに決まっている。痛いに決まっている。我ながらどうしようもない質問をしたものだ。かすかな声で返事をくれたが、余裕はないようだ。3分おきくらいに収縮と弛緩を繰り返す。収縮が来るたびに妻が苦しみの声をあげる。今までにないくらいの強い力で握られた手が、痛かった。俺が手伝ってやれることはない。ただ、手を握り返し、工夫のない励ましの言葉をかけるだけだ。そんなことでも少しは足しになるようで、時折微笑みを作ってくれた。1時間おきの診察を挟みながら、ひたすら同じ時間が流れる。
 妻が微笑む余裕すらなくなったのは、2時を過ぎたころだったろうか。痛みに耐えかねる声が悲鳴に近くなっている。子供を早く出すには前屈みの方が良いということで、ベッドを起こして座位を取る。寝ていると、妻は痛みにのけ反ってしまうのだ。顔が近くなって、脂汗が良く見えた。呼吸が激しいために喉が渇くという。唇は乾ききって、噛み締めたあとがついている。俺が差し出すお茶やオレンジジュースを、妻は喉をならして飲んだ。
 3時。こんな時でも俺の腹は減る。妻の世話をしてくれているのは、母親教室でもお世話になった看護婦(助産婦)である。彼女は、妻が手を付けなかった昼食を俺に持ってきてくれた。ベッドに腰掛けて、腰をさする右手と口を同時に動かす。BGMは悲鳴。こんな食事はおそらく最初で最後だろう。いかにも病院食らしい味付けのもやしの酢の物を口に入れたまま、俺は「がんばれ」と言った。食べ終わった頃に、俺の母が来たと看護婦に知らされる。俺が面会室に行っている間、妻は診察を受ける。陣痛室に戻ってくると妻がいなかった。もう分娩室に移っていた。4時。
 分娩室へ入ると、看護婦たちがあわただしく準備を進めていた。俺はここで初めて子の存在をはっきりと意識した。「俺と妻」という「2人」はこれで終わる。あとわずかで「3人」になるのか。
 いよいよとなり、妻がいきみ始める。俺はただ彼女の背中と首を支えるだけだ。息を止めていきむ妻の顔は、血管が浮いて真っ赤に染まっていた。必死の形相とはこういうものなのだろうか。満身の力。生命。母。神々しいとでも言うのか、とにかく妻が別人に見えた。
 午後4時36分、男児誕生。
 たった一度だけしか聞くことのできない産声は、とても元気だった。
 力が抜けきった妻は、生まれたばかりの息子を見て、小さく声を立てて笑った。満足そうで、安心しきった、優しい笑い声だった。身も心も母親になった瞬間だったのかもしれない。
 俺は足を震わせた。人間ひとりの人生をスタートさせてしまったという事の大きさ。期待と不安。俺は父親になった。この子が俺たちの子なのか。
 妻が後産の処置を受ける間、俺は息子を抱いた。血と命の重さが腕に伝わった。
 産湯につかる息子を見る。もう泣くことをやめ、おとなしく体を洗われている。いつのまにか目が開いている。よく見えてはいないのだろうが、お前が初めて見たものは何だったのだろうか。この先、その目で何を見ていくのだろうか。その手で何をつかむのだろうか。
 幸せな人生を願わずにはいられない。俺は父の心を知った。

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