コジェーヴの注

(「ヘーゲル読解入門」(アレクサンドル・コジェーヴ著 上妻精・今野雅方訳 国文社 1987)245〜247頁所載の注(6))

 (6)したがって、歴史の終末における人間の消滅は宇宙の破局ではない。すなわち、自然的世界は永遠に在るがままに存続する.したがって、これはまた生物的破局でもない。人間自然或いは所与の存在調和した動物として生存し続ける。消減するもの、これは本来の人間である、すなわち所与を否定する行動誤謬であり、或いはまた一般には対象対立した主観である。実際、人間的時間或いは歴史の終末、すなわち本来の人間或いは自由かつ歴史的な個体の決定的な無化とは、ただ単に用語の強い意味での行動の停止を意味するだけである。これが実際に意味するものは、――血塗られた戦争と革命の消滅であり、さらには哲学の消滅である。なぜならば、人間はもはや自己自身を本質的には変化せしめず、人間が有する世界と自己との認識の基礎である(真なる)原理を変化させる理由もまたないからである。他の一切のものは際限なく保持される。芸術や愛や遊び等々…要するに人間を幸福にするものはすべて保持される。――ここで、へーゲルの多くの主題の中でもとくにこの主題がマルクスにより再び取り上げられたということを想い起こそう。人間(「階級」)が承認のために相互に闘争し、労働により自然に対して闘争する場である本来の歴史はマルクスにおいて「必然性の国」(Reich der Notwendigkeit)と呼ばれる。そして人間が(心から相互に承認しあうことにより)もはや闘争せず可能な限り労働しないで済み(自然が決定的に制御されている、すなわち人間と調和させられている)「自由の国」(Reich der Freiheit)が彼岸(jenseits)に位置づけられる。(『資本論』第三巻第四八章、第三節、第二段落の最後を参照のこと)。
 (第二版の注) この注(前注6)の本文は矛盾しているとは言わぬまでも曖昧である。もしも「歴史の終末における人間消滅」を認めるならば、もしも「人聞動物として生存し続ける」と主張し、「消滅するもの、それは本来の人間である」とこれを確定するならば、「芸術や愛や遊び等々……のほかの一切は無際限に保持されうる」と述べることはできなくなる。人間が再び動物になるならば、そのもろもろの芸術や愛や遊びそれ自体が再び純粋に「自然的」にならねばならない。そうすると、歴史の終末の後、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう。そうなった場合、これらすべてが「人間幸福にする」と述べることはできなくなる。むしろ、ポスト歴史の動物であるホモ・サピエンスという種(これは豊かできわめて安全な暮らしを過ごすことになろうが)は、みずからの芸術や愛や遊びに関わる振舞いに基づき満足することになるであろうと言わねばなるまい。それは、定義上、彼らがそれで満足するだろうからである。だが、それだけではない。「本来の人間決定的な無化」はまた本来の意味での人間の言説(ロゴス)の決定的な消滅をも意味する。ホモ・サピエンスという種である動物は音声上の或いは手振りでの記号に条件反射的に反応し、彼らが「言説」と自称するものはかくして蜂のいわゆる「言語活動」と似たようなものになるであろう。そうすると、消滅するもの、これは単に哲学或いは言説による知恵の探究だけではなく、この知恵自体でもあることになろう。なぜならば、ポスト歴史の動物には、もはや「世界や自己の(言説による)認識」はなくなるであろうからである。
 前記の注を記していた頃(一九四六年)、人間が動物性に戻ることは将来の見通し(それもそれほど遠くない)としては考えられないことではないように私には思われていた。だが、その後間もなく(一九四八年)、へーゲルやマルクスの語る歴史の終末は来たるべき将来のことではなく、すでに現在となっていることを把握した。私の周囲に起こっていることを眺め、イエナの戦いの後に世界に起きたことを熟考すると、イエナの戦いの中に本来の歴史の終末を見ていた点でへーゲルは正しかったことを私は把握したのである。この戦いにおいて、そしてそれにより人類の前衛は表面的にはともかく、実質的には人間の歴史的発展の終局にして目的、つまりは終末に達していたのであった。それ以後に生じたことは、ロベスピエールーナポレォンによりフランスにおいて具体化された普遍的な革命の威力が空間において拡大したものでしかなかった。真に歴史的な観点から見ると、二つの世界大戦はそれに至る大小の革命をも含め、結果としては、(現実的に或いは実質的に)最も進んだヨーロッパの歴史的位置に周辺地域の遅れた文明を並ばせただけであった。もしもロシアのソピエト化と中国の共産化とが(ヒットラー体制の代弁を介した)帝国ドイツの民主化やトーゴの独立への接近、さらにはパプア人の民族自決よりより以上のものであり、これらとは異なったものであるとすれば、それは中国とソ連とにおけるロベスピエール‐ボナパルティズムの具体化により、ナポレオン以後のヨーロッパが、なお残る革命以前の程度の差はあれ時代錯誤的な多数の遺物を除去するよう急き立てられるに至ったということでしかない。加えて、今やすでにこの除去の過程はヨーロッパそれ自体におけるよりもその延長である北アメリカにおいてより進んでいる。「階級なき社会」のすべての成員が今後彼らに良いと思われるものをすべて我が物とすることができ、だからといって望む以上に働く必要もないとき、或る観点から見ると、合衆国はすでにマルクス主義的「共産主義」の最終段階に到達しているとすら述べることができる。
 ところで、(一九四八年から一九五八年までの問に)合衆国とソ連とを数回旅行し比較してみた結果、私はアメリカ人が豊かになった中国人やソビエト人のような印象を得たのだが、それはソビエト人や中国人がまだ貧乏な、だが急速に豊かになりつつあるアメリカ人でしかないからである。アメリカ的生活様式(American way of life)はポスト歴史の時代に固有の生活様式であり、合衆国が現実に世界に現前していることは、人類全体の「永遠に現在する」未来を予示するものであるとの結論に導かれていった。このようなわけで、人間が動物性に戻ることはもはや来たるべき将来の可能性ではなく、すでに現前する確実性として現われたのだった。
 私がこの点での意見を根本的に変えたのは、最近日本に旅行した(一九五九年)後である。そこで私はその種において唯一の社会を見ることができた。その種において唯一のというのは、これが(農民であった秀吉により「封建制」が清算され、元々武士であったその後継者の家康により鎖国が構想され実現された後)ほとんど三百年の長きにわたって「歴史の終末」の期間の生活を、すなわちどのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会だからである。ところで、日本人の武士の現存在は、彼らが自己の生命を危険に晒すことを(決闘においてすら)やめながら、だからといって労働を始めたわけでもない、それでいてまったく動物的ではなかった。  「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教道徳政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動から生まれたそれ、すなわち戦争と革命の闘争強制労働から生まれた規律を遙かに凌駕していた。なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。最近日本西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。  ところで、どのような動物もスノッブではありえない以上、「日本化された」ポスト歴史の後の時代はどれも特有な仕方で人間的であろう。したがって、人間における入間的なものの「自然的」な支えとして役立つホモ・サピエンスという種である動物が存在する限り、「本来の人間の決定的な無化」はないであろう。だが、前記の注において述べたように、「自然或いは所与存在との調和にある動物」は人間的なものを何ももたぬ生ける存在者である。人間的であり続けるためには、「所与を否定する行動誤謬」が消滅するとしても、人間は「対象対立した主観」であり続けねばならない。これはつまり、ポスト歴史の人間は以後自己にとっての所与をすべて充全な仕方で語りながら、〔これにより〕「形式」をその「内容」から切り離し続けねばならないという意味となる。がそれはもはや内容を行動において変-貌せしめるためではなく、純粋な「形式」としての自己自身を任意の「内容」として捉えられた自己自身及び他者に対立させるためであるという意味である。