絵と詩のギャラリー
「れんぎょう」


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ギャラリー「れんぎょう」にようこそ!

 

 ご来場ありがとうございます。ここは、「絵一枚、詩文一編」のとても小さな私的なギャラリーで、その他のものは何もありません。今回は、更新までだいぶ間があいてしまいましたが、その63回展です。
 なお、絵の題材の「蓮夢」は、レンブというようで、台湾など南方の果物です。 (2011年8月1日)

れんぎょう

(藤川久代/昭和62年4月)

 

     画の部屋



蓮 霧
 (藤川暢子/2010年12月18日)


        詩の廊下                  


       
    八月の林
                北村太郎

 うらみごとを、いわせぬ速さで
 風は来たり、風は去り
 林は、もとのままに静まって
 大いなる感情を、しっかり守っている
 下生えは、倒れ伏し
 みどり色を、みずからの乱れに逆らって
 整えなおそうとし、しかし
 ホタルブクロなどは、かしいだまま
 花を垂らして、揺れに耐えている
 あまりの暑さに、物のにおいも
 においのなかに、こもってしまい
 ヘビやチョウのたぐいが、林の
 神経のように、かろうじて
 働いているようだけれど、見えない

 麦藁帽子を、ひざに置き
 下の、池のほとりのベンチに坐る男を
 林ぜんたいが、気づいていて
 知らぬふりのまま、遠ざけており
 男は、うなだれて動こうとしない
 足もとにミョウガが、踏まれてあり
 池はアオミドロの顔で、男を
 しげしげと見つめながら、泡ひとつ
 立てるでもなく、重さを保っている
 ひどい暑さが、水面を緊張させて
 虫いっぴきの飛び出しをも、けっして
 許そうとはせず、男の
 眠りを、眠りの手でゆっくりかきまわし
 ずれているひざの帽子、落とさせない

 けさ、ヒグラシが鳴いていて
 夜なかの風は林の追憶を、いっそう
 ゆたかにし、いじわるにもした
 真昼、おびただしい葉は力いぱい広がり
 真上の日輪よりつよく、影を消している
  (『すてきな人生』 一九九三年思潮社刊)

   〔『続・北村太郎詩集』思潮社刊による〕


 今回の詩は、御覧のとおり、北村太郎の「八月の林」。(ぼくの作品ではなく)
 何年前だったか、この詩を始めて読んだとき、驚嘆した。そして今度、ちょっと目論見があって、この詩をもう一度見たいと思ったら、意外にてこずった。死後刊行された北村太郎の最後の詩集「すてきな人生」が初出なのだが、この詩集も、思潮社の現代詩文庫の「北村太郎詩集」、「続北村太郎詩集」も、どれもこれも絶版で、アマゾンで見てみると、古本でえっというような値段になっていたりする。図書館で大部の「北村太郎の仕事」全3冊を借りて、これでOKと思ったら、これは生前の刊行で、お目当ての詩は出てこない。結局、今この詩を読もうと思ったら、「続・北村太郎詩集」を図書館で借りるか、文春文庫の「荒地の恋」(ねじめ正一著)を買うか(最後のところにこの詩が載っている)、そのどちらかに行き着く。
 八月の今、この詩をまだ知らない人たちに読んでもらえさえすれば、それで十分と思うのだが、ホームページの管理人としては、それだけではちょっとまずい気もするので、なくもがなの思い付きを少し言ってみる。



 まず、この詩はとびぬけていい。こんないい詩は、ほかになかなか思い当たらない。日本でも、海外でも。誇張でなく。
 すげえ面白い北村太郎・後半生の伝記「荒地の恋」を書いたねじめ正一も「北村太郎も、結局あれだけいろいろあったけど、最後に一番いい詩を書いた。人生は暴走したけど、最後に「八月の林」という詩を書いてしまった。死ぬ前の本当に最後の作品ですね。これが最高、私は一番いい作品だと思っているんですよ。…」などと言っている。(「有隣」第490号 平成20年9月10日、「座談会:これからの老後」より)
 (なお、ねじめが「最後の作品」と言っているのは、この詩が初めて発表されたのが、1992年8月14日の読売(夕刊)紙上で、同年10月の北村太郎の死の約2か月前だったあたりのことを指しているのだろう。)
 どこがいいのかって?言いたいことが一つあるようなのだが、なんか漠然…。
 イメージや意味がはっきりつかめないところもある。だがあまり気にならない。詩の各行が圧倒的な真実感で重たいから。
 全体の意味も、これというようなものはそこには何もない。平凡なことばを連ねて、ひとけない、風にざわめく、透きとおった風景がが描かれていく。のびやかな音楽が低く聞こえている。ひとけない、と言ったが、池のほとりのベンチに坐って眠る、なんとも不思議な人物がひとり。軽いスケッチ風なのに、男をとりまく林や池などの全景は潜勢力に満ち、風をはらんだ On Your Mark の帆のよう。情景の幻想や突然の擬人などは、なにかの神話の一場面のよう。どうやってか、とても高いところに達した者のことばを聞いているような気がする… それだけで十分何もいらない。



 「とても高いところ」とは?
 以下、長い引用になってしまうが、まるでこの詩の解説のために書かれたような文章があるので、それを引く。守中高明「ドゥルーズと文学の問い」(『批評と臨床』[ドゥルーズ著、河出文庫]の「訳者あとがき」)からの抄出。

 『死の直前にジル・ドゥルーズは、短いテクストを書き残している。「内在|―ひとつの生……」(Philosophie, no47,1995 小沢秋広訳、『狂人の二つの体制 1983-1995』、河出書房新社、2004年、所収) ――簡潔だが、決定的に重要な、そして美しいテクストだ。呼吸器の重篤な病いに冒され、すでに補助装置なしには生きられなくなっていた哲学者は、しかし、内在とはどのようなことか、一つの生とは何かについて、ここでおよそ最も厳密な思考を差し出している。饒舌とは無縁のその透明で厳密な言葉は、まるで、まもなくみずからの意志によって現実化させることになる一つの死[=自死]が、どんな出来事であるかを告げるために書きつけられたかのようだ。書かれているのは、たった一つのことである。すなわち、一つの生とは一つの特異性であり出来事であるということ、そして、その特異性‐出来事は一つの純粋な内在面においてのみ、それとしてみずからを指し示すということ――これである。だが、この単純な事態を、なんと多くの概念が、なんと多くの思考の習慣が見えなくさせていることか。ここに提示されている「超越論的経験論」という概念が人をとまどわせるとしたら、それは、この概念が、私たちを「主体」や「客体」の一般性から引き剥がすから、また、それが「内在」を何かのや何かへの内在としては語らず、どんな依存や帰属をも排して「もはや自分以外のなにかの内在ではなくな」るような「内在」だけを扱うからである――「純粋な内在は生への内在ではなく、なにものにおいてあるものでもない内在的なものが、それ自体ひとつの生となる」。
 この「内在」である「ひとつの生」がそれとして現れる場面を、ドゥルーズは、死に瀕した病人のうちに見ている。人間の個体は、死にゆくとき、その個体性を死の一般性に回収されてしまうのだと人は多くの場合考えがちだ。なるほど死は人間の類としての条件であり、死を免れるものは誰もいはしない。しかし、人が死にゆくとき、そこで起きているのは、はたして生一般から死一般への移行なのか。否、「内在」は、生一般に回収されないのと同様に、死一般にも回収されはしない。ドゥルーズは書いている――「個人の生は、非人称とはいえ特異なひとつの生を前に身を引き、ひとつの生はそこに、内的かつ外的な生における諸々の偶発事から、つまり、到来するものの主体性と客体性から自由になった、純粋な出来事を開示する」。死のプロセスにおいて、私たちは、みずからの個体化から離れる。だが、そのとき現れるものは「もはや個体化ではなく特異化からなる此性。純粋な内在の生」なのだ。死のプロセスにおいて人が出会うこの「特異化からなる此性。純粋な内在の生」こそは、実のところ、人がつねにすでにそれであるものにほかならない。なるほど、私たちは個体性であり、「主体化」されているだろう。そして、そこには一般性の数々がともなってもいるだろう。だが、それとまったく同時に、私たちは一つの「此性」でもある。たとえば、乳児たち――彼ら/彼女らは個体性をほとんど持たない。しかし、そのしぐさや、その微笑やそのしかめっ面の一つひとつは、一つの特異性であり、したがって純粋な力である。乳児たちを横断しているのはただ内在的な生のみであり、そのようなものとしてそれぞれが「ひとつ」なのだ。そして、一つの生であること、不定冠詞のもとに呼ばれることは、それが非決定であることをまったく意味しない。そうではなく「不定としての不定詞は、経験的な非決定を記すのではなく、内在の決定もしくは超越論的な決定可能性を記している」のである。
 このような「ひとつ」であること、「此性」であることは、ドゥルーズにおいて、私たちが「主体」や「客体」の一般性を溢れ出し、その閉域をあらかじめ打ち破るような力そのものであり、多様性そのものであることを意味している。「ひとつの生はいたるところ、かくかくの生きる主体が横切っていくすべての瞬聞、かくかくの生きられた客体によって測られるすべての瞬間にある。内在する生は諸主体や諸客体において現勢化〔現働化〕されるだけの出来事たち、特異性たちを引きさらっていく」――こう書くとき、ドゥルーズは、「主体」や「客体」のうちにのみ「現勢化」されるのではない別の多様性の次元、別の潜在的=潜勢的なるものの次元を明確に想定しており、その力をどんな一般性のうちにも抽象化することのない思考こそを呼び求めているのである。「ひとつの生は潜勢力、特異性、出来事からなる」とドゥルーズは断言する。そして、生前発表された最後のこのテクストにおいて、この「現勢化」の場は「ひとつの傷」とも呼ばれている――「この傷そのものは、私たちをひとつの生の中に引きさらっていく内在面のうえにあって、純粋にしてひとつの潜勢的なものである。〔…〕高次の現実性としての、傷というもののひとつの超越なのではなく、つねにひとつの中間(場または平面)にある潜勢力としての内在。超越論的場の内在を決定する潜勢的なものたちと、それを現勢化し、超越するものに変えてしまう可能的諸形態の間には、ひとつの大きな差異がある」。
 潜勢的なものの現働化のプロセスの中間につねに開かれている傷=特異性としての一つの生の思考、そしてそれに対するに、潜勢的なものを――たとえば「主体」という――超越性のうちに固定し閉ざしてしまう生一般の思考。両者を隔てるこの「大きな差異」…

 ところで、ドゥルーズにとって文学が、書くことが重要なのは、この言語の作業が、まさしくこの二つの思考のあいだにあって、つねに前者のための場所を開き、拡大し、反復するかぎりにおいてである。書くこと=エクリチュールの実践は、ドゥルーズにとって、それが内在面における一つの生を肯定し、その純粋な力を解放するかぎりにおいて意味を持つのである。しかし、エクリチュールをそのようなものとして実践し続けることもまた、私たちの思考の他の場面におけるのと同じく、多くの困難をともなう。私たちの思考は、つねに反動的な諸力に取り巻かれ、それらが生み出す「可能的諸形態」に捕らえられており、それどころか、時としてその最も深い否定性を最も強い肯定性と誤認することすらある。……』



 池のほとりで眠っている麦藁帽子の男は、きっとこれから死に入っていく北村太郎だろう。そうすると、この男を見ているのは?これも北村太郎? 北村太郎が北村太郎を見ているんだ。見ながらスケッチしている北村太郎には、死んでゆく自分がありありと見えてしまった。まるであの世からのように?死の直前に「内在―ひとつの生……」を書いていたときのドゥルーズと同じように)
 林、池、水面、風、日… 自然は生? 死? その両方? じゃ神か。かろうじて麦藁帽子(ひとつの生―内在)をまだひざから落とさないで眠る末期の男を見守っているのも、やはり神?

 自然の寵児として死んでゆくひとりの男。最後に詩神はやんちゃだった詩人に贈物を授けた。奇跡の詩一編。

 けさ、ヒグラシが鳴いていて、涼しさが、目覚めを、目覚めの手でゆっくりかきまわし、しこっている死の疑念を、浮き上がらせる。

    今生の八月
    蝉時雨盛り
    浸す死の歌
    傾いて蠍座
                                                              (2011年8月1日)



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藤川昶(Fujikawa Hisashi)