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絵と詩のギャラリー
「れんぎょう」

 
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ギャラリー「れんぎょう」にようこそ!
 ご来場ありがとうございます。ここは、「絵一枚、詩文一編」のとても小さな私的なギャラリーで、その他のものは何もありません。今回はその45回展です。(会期は、10月1日〜12月31日の予定です。)
 今年は、サミュエル・ベケットの生誕100年(1906年・明治39年生まれ)なので、何年か前に「ゴドーを待ちながら」を渋谷で観た折、自分用に書き留めた感想を載せました。(2006年10月1日)

れんぎょう

(藤川久代 / 昭和62年4月)

 

   画の廊下


新宿御苑  (藤川久代 / 2006年5月)


      詩の部屋

「ゴドーを待ちながら」を観た

 「ゴドーを待ちながら」の公演を観た。(緒形拳、串田和美等;東京(Bunkamura・シアター・ピューパ);2002.1.24)
 緒形拳が、始めから終りまで、ひとりで何か「不条理哲学」みたいなことをしゃべり続けるだけのように漠然と思っていたら、そうではなくて、幕が開くと二人の男の対話で、「そうか」と思っていると、しばらくして、変なのがもう二人出てきて、結局は総勢五人の、けっこう賑やかな芝居だった。
 喜劇風なところもあり、大笑いが止まらない観客も中にはいる。ぼくも笑う。ひどく寂しい終りの場面では、ちょっとホロリとする。(それもだまされたようなイヤな涙でもないのが、やや意外。お話でホロリとさせられるのは、嫌いなのだ。)
 ずっと、白けた気分。大半の観客も同じ気分だったようだ。登場人物の言うこと為すことが全部、支離滅裂で、筋はもちろんない。これでは感情移入はどだい無理で、見せられている方は途惑いっぱなしで、そして結局は考えこむことになる。たぶん、そういう芝居の作りで、その場で「盛り上がれ」という風にはなっていないのだ。
 翌日になっても頭の中がモヤモヤしていて、気分がスッキリしない。
 以下はそのせいのメモ。

 どことも知れない空虚な場所で、「ゴドー」とやらいう人物を、なぜかひたすら待ち続けている、ホームレス風の古馴染みの初老の二人の男。その二人の待ちぼうけの二日間の、とりとめないおしゃべりと僅かな所作(靴を脱ぐとか)。芝居の中味はただそれだけ。その会話と所作の特徴。
 1.ボケ…… 記憶のひどいあやふやさ。(これが一番耳につく。)今言ったことも分らなくなる。まさにボケ。
 2.ブンレツ…… 始終でたらめなことを言い、するばかり。妄想漫才。(一例[と言うのもおかしな話だが]、なんで二人はゴドーとかいう正体不明の人物を待たなければならないのだ?)当然、お互い分り合うのもむずかしい。だが、つながりが無いわけではない。しゃべりがギクシャクしながらダラダラ続くなかに、親愛の底流がはっきりある。
 3.ソーウツ…… 感情のいわれのない上下。急に怒ったり、しおれきったり、悲しがったり、またもや興奮したり。
 精神病棟とか痴呆老人施設とかの情景は、これと似ているのかしら。だが、そんなことは、これっぽっちも頭に浮かんでこないように、芝居はできている。もしかすると、この、透明な、抽象的な時空のあざやかな出現が、この芝居の一番良いところで、影響もまた大きかったのかもしれない。生き生きした奇異な連続、人生の尖った破片の象嵌、シュールな人物の闖入なんかがあって、現実へのレファレンスが断ち切られる。

 じゃ、この混乱したしゃべりは何なのだ?答は分っているようなものだ。「汝自身を知れ」という、きわめてポピュラーな、何にでも応用がきく、変な標語が昔からあるじゃないか。

 理性なんか、会社の事務とか兵器の製造とか、要するに、産業社会の業界語、もしくは大学語、いわば方言じゃないか。(山カンで言えば、ほんとは数学なんでしょ?) 我々は、ふだん、そんなコトバは使っていない。
 記憶だって、あやしいものだ。ホームレスの一方が、よりにもよって、四つの福音書の間で、イエスと一緒に十字架に架けられた罪人の記録が、人数とかなんとか、絵に描いたように喰い違っていると言う。(ベケットの「してやったり」が透けて見えて、あまり気分がよくない。知的で軽薄。)
 大はマスコミから、夫婦喧嘩や日記まで、嘘や隠しだて、思い込みや見落としなど、記憶のぼかし、ねじ曲げ、蔽い隠し、消し去り等、広い意味での記憶喪失にはきりがないだろう。自分の中を覗いてみれば、心は壊れたモザイク画…と気取って言えば、これは完ぺき軽薄。
 感情の躁鬱やパラノイアは、もういいでしょう。
 人間の内面を透視する「精神撮影機」というものがあって、それで撮れば、立ったり喋ったりの青白い群像の画面は、かなり誇張はあるにしても、案外こんな風かもしれない。

 今「人間の内面」と言ったが、二人のホームレス(エストラゴンとウラヂミール)は、れっきとした内面屋で、「生きがい」にとっつかれて人生をはぐってしまった気配だ。乱入してきた二人(通りかかったというのが実態)。一人は弱いものいじめの残酷な迫害者ポッツオ。この男は、キレイに内面を欠いていて、つまり外面屋だ。ただし、訳のわからない記憶喪失、理性欠如は、内面屋とまったく同じ。そして、もう一度「ただし」、罪の意識がキレイにない。ざらにいるタイプ。(とはいっても、わが身に照らしても、他人様でも、これはどうも程度の差に過ぎないようで、とすれば、「原罪」? では、正反対から見れば、「健康」?)
 もう一人、最初から最後まで、ひたすらポッツオに苛められながら、反抗の一片の素振りもない白塗り男(この公演では全身をお白粉で塗ってある)のラッキーは、「戦争と平和」のプラトン・カラターエフで、今ならさしずめ、先進国・途上国の別ない世界の被抑圧大衆か。(とすれば、ポッツオは、グローバル・スタンダードの大ものの漫画で、なすところなくそれを見ているだけのホームレス二人は、欧米や日本のインテリといったところか。こんな当て推量は、出来過ぎのバカ話にすぎないだろうが、…そう言い切ってしまうと少しだがひっかかる。《エストラゴンは、ポッツオが食後に捨てた骨を拾って食べる。》この劇が基本的な「構造」を意識して写しとっているからなのかもしれない。)

 (今、インテリと言ったが、悪い意味でインテリっぽいセリフが少しだけ出てくる。
 「女は墓石に跨って子どもを産む。死人の骨が鉗子」
 「世界は叫びでいっぱい、習慣は一番有効な弱音器」
 「人間は生まれた時から気ちがい」
 いわゆる青臭いコトバで、いいとは思えない。どこまでいっても平凡で支離滅裂なセリフだけで、これでもかとうるさいばかりの方がよかったと思う。)

 ぼくは、途中から、なんとなく、この白塗り男こそ、ホームレスたちが待っているゴドー(救済者)に変身するのでは、という気がしていたのだが、そうはならなかった。ベケットもそう思っていて、だが、ホームレスと白塗りの間に、どうしようもない溝があり、すれ違ってしまう、時代の状況をこそ、指差したかったのかもしれない。「思ってくれ」と、かれは、書割の後ろで呟いているのかもしれない。

 翌日、迫害者と白塗りの奴隷がまた通りかかる。エネルギッシュで、金持で、残酷で、陽気で、どこか憎めない迫害者ポッツオ。かれが盲目になって現われる。哀れなラッキーの方は唖。「不条理」な災厄は、主人・奴隷、勝者・敗者、内面・外面、関係なし。(それにしても、盲と唖の区別は、いかにも意味ありげだ。)

 二日目も日が暮れる。二人のホームレスにこの日もゴドーは来ない。(“GOD+O”って何なんでしょうね?)夜。ただ一つの大道具、柳の木(この公演ではそれも出さない)を眺め、明日はもっと丈夫な首吊りの紐を持ってこようね、と話しながら二人が別れる幕切れに、さっき言ったように、ちょっとホロリとした。(♪リンゴノ―キノ―シタデ― ♪アシタ―マタア―イマショ―)人間の希求と挫折の、それとない「見得」。この悲しみには、伝染性があった。見当はずれの思い入れだったかもしれない。

 最後に、もしかすると余計な一言。「古い。」
 当夜のチラシに「1953年のパリでの初演以来…」とあるが、1953年にはピカピカに新しかったのだろうか。1953年。大戦の惨禍と廃墟の記憶はまだ消えてはいないのに、冷戦が始まり、パリは実存主義と共産主義が高いテンションで渦巻いていたのだろうか。日本なら、椎名麟三の気分といったところ?芝居は時代の気分の核心を衝いたのかもしれない。
 だが今は、「絶望」も「神の不在」も「シジフォスの神話」も、忘れられたコトバで誰も口にしない。感情自体の流路が変わった。(もっとも、神様のことは、我々日本人にはどだい分りはしないのだろうが。)理性の強化ガラスに罅が入り、意識の陰の形や声が流れ出すスタイルも、今では、そんなに珍しくないのかもしれない。ちょうどキュビスムにもう誰も驚かないように。(ところが、理性の過重は、科学技術の恐竜みたいな巨大化の迂回路を通って、環境破壊という思いがけない「ダモクレスの剣」を21世紀の上に吊るした…)
 観客の方も一変した。深刻や教養が大好きな学生も青春も、さっぱり見なくなったが、こちらの老眼鏡の度が合っていないだけなのか。 今日、世界はもっと無機質・無慈悲になり、もっと陰険・猥雑になり、流れは目が廻るほど急になったが、腐った澱みも広がった。(世界のあちこちでは、お話にならない悲惨が積重なって、手がつけられないマニラのゴミの山みたいな一方で、新しいゴドーを見かけたとかいう噂もある。NewGodO
 一人一人の寄る辺なさに変りはないのに、この絶望の劇は、何かチグハグでノンキに見え、暮しは高く思いは低い自分の衰弱が浮き上がるばかりだった。
 (「古典」なんですね!)
 観客席に火がつく気配は一向になく、型どおりのカーテンコールとご同様の一座の返礼が三度あって、芝居はハネた。

 追記:
 翌々日、ふと点けたテレビで、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」の終りの方をほんの少し見た。(終幕近くのドンナ・アンナのアリアなど)
 なんという美しさ!真率と優雅の精粋の歌。
 どうして「ゴドー」まで、芸術は、時代は、落ちぶれてしまったのか、不思議なほどだった。  (藤川 昶/2002年1月27日)                        


藤川昶(FujikawaHisashi)