絵 と 詩 の ギ ャ ラ リ ー
「れんぎょう」

 
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ギャラリー 「れんぎょう」にようこそ!
 ご来場ありがとうございます。ここは、「絵一枚、詩文一編」のとても小さな私的なギャラリーで、その他のものは何もありません。今回はその42回展です。(会期は、1月8日〜3月31日の予定です。)
 絵は、毎年のことですが、佐々木洋子さんの年賀状から出させていただきました。
 詩のほうは、一周忌が済んだばかりの兄の文章を載せました。昨年は敗戦60周年で、関連の文章や映像等の記録がメディアに流れました。この小文にも、後の世代に何かを考えさせるものがあるようにも思うのですが、いかがでしょうか。  (2006.1.8 / 藤川昶)

れんぎょう

(藤川 久代 / 昭和62年4月)

 

   画の廊下


オーロラ  (佐々木洋子 /2006.1.1)


 

       詩 の 階 段

                               戦が終わった日
                                              
藤 川 徹 郎      

 終戦の大詔は、動員先の海軍技術研究所分室があった東京工業大学の大広場で聞いた。「戦争が終わった」と言う喜びと安堵で思わず声をあげたので周囲の人々から睨まれ、ある先輩学生も「不謹慎だ」と小声で僕を叱った。放送が終わり部屋に帰るとみんな無言だった。年長の先輩が「酒、酒!」と沈黙を破ったので、皆が動き出した。その時部屋を脱け出した。廊下に出ると、彼方此方からドラ声を張りあげて歌う、昭和維新、黒田節、同期の桜などが聞こえた。異様な雰囲気だった。僕は分室を退散し、朝鮮人の友人、金田の下宿に向かった。金田はニ日前「日本が手を上げた時、俺達朝鮮人は危ないから街には出ない」と言っていた。それが気になったからだ。
 彼は、煎り豆を食べながら力学の本を開いていた。僕の顔を見ると、豆を勧めながら街の様子を聞いた。技研分室に異常な空気はあったが、街も電車の中も極めて穏やかだと話した。彼は「ちょっと意外だ」という表情をした。それから二人は、寝そべり、くすんだ天井を見ながら語り合った。いや、僕が彼の独り言を黙って聞いている感じだった。「俺も日本が負けて朝鮮解放が実現したことは大変嬉しい。俺の故郷は、朝鮮半島南端の小さな村なので、戦争が終わっても静かだと思う。京城の人々は、朝鮮語で自由に語り合える喜び、先祖からの名前でお互いに呼び合える感激、威張り散らしていた日本人を追い出すことが出来る痛快事などで、京城は興奮の坩堝になっているだろうな。‥‥去る三月B29の空襲で東京が焼け野原になったとき、心配した親父が大金〔六〇〇円〕を送ってくれたから、俺の当面の生活は大丈夫だ。しかし前大戦の敗戦国ドイツは、戦後、天文学的数字とも言える激しい物価上昇に見舞われ、国民は塗炭の苦しみを味わった。日本も同じ道を歩み混乱するに違いない。そんな時に、外国人になってしまった俺達朝鮮人の生活はどうなるのか? 朝鮮は解放されたが戦勝国ではないのだ。学校は卒業までまだ1年半ある。学校は止めたくないが、卒業はちょっと無理だと思う。」‥‥
  金田の話はなかなか終わらなかった。僕には「他の友人達に声をかけて、お前が日本にいる間は生活費や学費は稼ぐから頑張れよ」と言うのが精一杯だった。
  何時の問にか部屋は暗くなっていた。金田は立ち上がって電気をつけた。
  「おお明るい!今日から灯火管制なしだ!」弾んだ声だった。光は部屋の中を隈なく照らし、外まで溢れた。金田東沃から金東沃に変わった彼の顔が眩しかった。
 翌46年2月、金東沃君は卒業まで1年を残し、父母や弟妹が待つ祖国へ帰った。  (04.8.29記)

(後記) この話には、長い後日談があります。朝鮮戦争をはさみ、いくら試みても音信不通だった金さんに、兄は、約40年後にほとんど奇跡的な再会を果たします。以後二人は旧交を暖め、まるで親族のように互いに何度も日本、韓国を行き来していましたが、悲しいことに、今は金さんも兄もともに世にありません。
 兄は、金さんのことがあって、晩年、韓国語の学習サークルに入って勉強していました。この文章は、韓国語で作文する課題を出されて、その原文として書かれたものです。ほとんど文章を残さなかった兄の珍しいかたみとなりました。(藤川昶)


藤川 昶 (Fujikawa Hisashi)