絵 と 詩 の ギ ャ ラ リ ー
「れんぎょう」


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 ご来場ありがとうございます。ここは、「絵一枚、詩文一編」のとても小さな私的なギャラリーで、その他のものは何もありません。今回は、2012年の年賀のページを修正、加筆し、65回展としました。。  (2012年1月8日)

 画 の 部 屋


     「義人たちのメシア的な宴」(ヘブライ語聖書〈13世紀〉(ミラノ、アンブロージアナ図書館蔵)
   「開かれ 人間と動物」〈ジョルジョ・アガンベン著 岡田温司・多賀健太郎訳 平凡社ライブラリー 2011年7月)から

 詩 の 廊 下

1.この絵に関連して、アガンベンのことば(上掲書からの引用)

 「第1章 動物人」から
  …とりわけわれわれの興味を惹くのは、写本を閉じるという意味でも、人類の歴史を締めくくるという意味でも、最後のものとなる情景である。そこには、最後の審判の日における義人たちのメシア的な宴が描かれているのである。二人の楽人の音楽に活気づいた楽園の木陰で、冠をつけた義人たちは、豪華な御馳走を並べた食卓についている。…(略)…
 驚くべきは、今日にいたるまで言及されることがなかった部分にある。細密画家は義人たちを、冠の下に人間の姿としてではなく、見紛いようもない動物の頭部をもった姿で描いていたのである。この絵の右手にいる三人の義人たちには、終末論的な動物たちのなかでも、鷲の檸猛な嘴、牛の赤茶けた顔、獅子の頭部が認められるだけでなく、図中のそれ以外の二人の義人も、一人は驢馬のグロテスクな特徴を、もう一人は、豹のような横顔を見せている。さらに、二人の楽人もまた動物の頭を戴いている――とくに右側の人物がいっそうわかりやすいだろうが、彼は猿のような神妙な面持ちでヴィオールとおぼしき弦楽器を奏でている。…(略)…
 …当該の義人たちはけっして死んではいない。むしろ彼らは、イスラエルの生存者を代表する人々、すなわち、メシアの到来のときにはまだ生きていた義人なのである。…(略)…
 …イスラエルの生存者に動物の頭部をあてがうことによって、アンブロジアーナ写本の細密画家が意味しようとしたことが、最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を遂げるだろう、いうことだったというのは、あながちありえない話ではないのである。

「第20章 存在の外で」〈最終章の最終節)
 …ここで問題となるのは、もはや人間でも動物でもないような新たな創造の輪郭を跡づけようとすることではない。それではまた、これまで同様、神話的なものになりかねない。われわれの文化において、人間とは――すでに見てきたように――たえず動物と人間の分離と分節化の帰結であり、そこでもまた、この操作の二項のうちの一方のほうが賭けられている。われわれの人閻概念を左右する機械を機能させないようにするということは、それゆえ、もはや新たな――いっそう有効で偽りのない――分節化を模索することを意味しないだろう。むしろそれは、中心に空虚を見せてやること、すなわち、人間と動物を――人間のうちで――分割する断絶(イアト)を見せてやることなのであり、この空虚に身を曝すこと、つまり、宙づりの宙づり、人間と動物の無為(シャバト)に身を曝すことにほかならない。
 いまやすでに古典的ともなったイメージにしたがって、いつか人間の諸科学がわれわれの歴史の波打ち際でかたちづくってきた「砂の顔」を決定的に抹消しなければならないとするならば、その代わりに姿を現わすのは、ふたたび見出された人間性や動物性の新たな聖顔布(マンディリオン)でも「聖骸布」(ヴェロニカ)でもおそらくはないだろう。アンブロジアーナ図書館の細密画に描かれた、動物の頭部をもつ義人たちが呈していたのは、人間と動物の関係の新たな傾向ではない。むしろそれは、人間と動物のいずれをも存在外へと存在せしめ、本来的に救うことのできない存在のうちで救済を果たす「大いなる無知」の形象なのである。歴史的な使命を想定することもなく、人類学機械を起動させることもなく、生者が義人たちのメシア的な宴に腰を下ろすことのできる方法がおそらくまだあるだろう。人間を産出してきた接合の秘儀(ミステリウム・コニユンクテイオニス)をもういちど解くには、分割をめぐる実践的かつ政治的な神秘の未曾有の深化を経なければならないのである。

2.要約や感想

 最後の節は、ぼくにはチンプンカンプン、それなのに、さも分かってるように引用したりして、すみません。なにしろ最初の引用からここまで、150ページぐらいありますから―といっても、ここまでずっと読んできても、よく分からないのは同じ。
 蛮勇をふるって、我流の要約?ただのデタラメ?
 「どんなに動物の至純を、ああいいなと思っても、人間は動物にはなれない。(動物も人間になれないが。)人間と動物の間には「断絶」がある。
 「人間と動物を――人間のうちで――分割する断絶(イアト)」を見、「この空虚に身を曝すこと、つまり、宙づりの宙づり、人間と動物の無為(シャバト)に身を曝すこと」。これがキーワードだ。
 これは、まさに反ヘーゲル(反理性)、反近代、ポストモダン、ポスト・ヒストリー、そして、反人間(反ヒューマニズム)だ。
 それはいい。だが、このキーワードの中身はなんだ?何も書いてない。そして、「未曾有の深化」などと言って、前途遼遠をにおわしてるだけだ。
(1)人間の根底
 上の引用のように、アガンベンは「人間のうちの人間・動物の断絶、感得」を言うが、人間の根底をなす一対があるということには、他にも種々の著述がある。
 カスタネダのドンファン・シリーズでは、「トナール」と「ナワール」、ジル・ボルト・テイラーでは、「左脳」と「右脳」。
 このようなことは、ロマン主義を根拠づける。空想的社会主義/科学的社会主義という、昔誰でも知っていたことばがあった。それにならえば、空想的(感傷的)ロマン主義に対する科学的(哲学的)ロマン主義とでも言えそうだ。
 (「トナール・ナワール」については「気流の鳴る音」(真木悠介著、ちくま文庫)、「左脳・右脳」については「奇跡の脳」(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)、が、アガンベンと違って、分かりやすく、おもしろい。)
(2)人の一生
人間は、ことば(トナール、左脳/言語・社会系)の庇護と支配の下に生きるほか、術がない。だが、人間のなかの動物(ナワール、右脳/自然・宇宙系)は、いつもことばを超えた幸福に飢えている。これが人の一生だ。苦労、嫌悪、邪念、悪行、退屈、無為、その他、その他――不毛の永い年月……稀な星の時。(集団主義の喧騒に堪えられない。「幸福至上」。おれの人生は、大筋まちがってなかった。) 
(3)ドゥルーズ「内在――ひとつの生……」となんか似てる…
 この論文によると、人間には意識(主体や客体など)とは別次元に、「内在」という潜勢力、特異性、出来事からなる ひとつの生がある。具体的には、瀕死の病人や乳児にその現われを見ることができる。
 そして、この潜勢力の「現勢化」の場は「ひとつの傷」と呼ばれている――「この傷そのものは、私たちをひとつの生の中に引きさらっていく内在面のうえにあって、純粋にしてひとつの潜勢的なものである。〔…〕高次の現実性としての、傷というもののひとつの超越なのではなく、つねにひとつの中間(場または平面)にある潜勢力としての内在。超越論的場の内在を決定する潜勢的なものたちと、それを現勢化し、超越するものに変えてしまう可能的諸形態の間には、ひとつの大きな差異がある」。
 アガンベンよりもっと分かりにくいかもしれないが、生の根元的な状態である「内在」と、現実化された諸形態のあいだには大きな差異があり、「そして、この潜勢力の「現勢化」の場は「ひとつの傷」とも呼ばれている」とあり、「傷」の一語が強い。
 さて、ぼくの俗解―「内在」は、人間の手つかずの命、授かったままの命、動植物の命と同じ命現象のように思える。その「現勢化」がひとつの「傷」なのは、根元の命が狭く限定され、汚れた実態となる過程だからか。
 だが、これでは、人間はずっと傷を負い続けることになる。ちょっとひどくない?
 こんなイメージはどうだろう。「内在」の現勢化の一例は乳児の笑いだ。むしろ、オーロラ、流星雨のような―衝突の一続きの祝祭、人間の至福の実現、楽園の実在…(跳び上がりすぎかな?)
 それはともかく、きわめて大雑把な話だが、「内在」が、動物性/ナワール/右脳とつながり、「現勢化」、「意識」がことば/トナール/左脳とつながるのでは?と思う。
 (なお、この論文は、「狂人の二つの体制 1983-1995」(ドゥルーズ著 小沢秋広他訳 河出書房新社 2004年)に載っている。このサイトの63回展にもわりあい詳しい紹介文〔守中高明「ドゥルーズと文学の問い」の抄録〕を載せてある。) (2012.1.8)