印鑑屋の女 彼女は突然、僕の前に現れた。僕は寮の部屋の中でコタツに入ってTVを見ていた。「コンコン」とドアをノックされたので「どうぞ。」と返事をした。するとドアが開き、そこには一人の女性が立っていた。「?」と思っていると、彼女は「おじゃましてよろしいですか?」と言った。女子禁制の男子寮である。こんな場面を人に見られたらまずいと思ったが、僕は思わず「いいですよ。」と答えてしまった。それは、彼女が僕のタイプであったからである。僕は他の人に見つからぬように、ドアの鍵をかけて彼女をコタツへと座らせた。「何でしょう?」と尋ねると「営業で廻ってるんですけど。」と彼女は答えた。「ここ、男子寮なんですけど、よく、ここまで来ましたね。」と聞くと、「誰もいなかったんで階段上ってきたんです。それで最初の部屋を尋ねたんです。」との事であった。この時ほど、僕の部屋が階段のすぐ前であったことを感謝したことはなかった。この頃、僕は彼女ができないことを、真剣に悩んでいた時期であったので、「これはもしかしたら、神様が僕に与えてくれた贈り物かも知れない。」と思った。(お馬鹿さん)彼女からはとてもいい香りが漂っていた。「それで、何を営業してるんですか?」と尋ねると「印鑑です。」との事だった。それからしばらく彼女のセールストークを聞かされたのだが、僕は彼女のいい香りを嗅ぐことに没頭していたので、ほとんど話しを聞いていなかった。印鑑など買う気は毛頭なかったのだが、何とか彼女の気を引こうと興味があるふりをしていた。しばらく話していたのだが、僕が「印鑑なんて要らない。」と断ると、彼女は甘えた声で「ねえ、買ってよぉ。お願い。」と言い、僕のほうへ体を近づけてきた。僕は女の子とそんなに近くで話しをするのは本当に久しぶりだったので、それだけでもうクラクラしてしまった。そして彼女は微笑みながら、こう言った。「私、あなたが気に入ったから、電話番号教えたげるね。今度一緒に遊ぼうよ。」それはまさに”とどめの一撃”であった。僕はその場で契約してしまっていた。翌日から何度も彼女へ電話したが、いつも留守番電話であった。しつこいくらいに何度も何度も電話したのだが、「はい。ただいま外出しております。」と機械が答えるだけであった。それでもやっとの事、彼女が出たと思ったら「いま、友達がきてるから。ごめんね。」と電話を切られてしまった。それ以来、僕は二度と電話を掛けることはなかった。「女の色気に負けると、ろくな事はない。」ということを、僕は学んだのである。印鑑代25万円を支払って。