隣人 これから書く話しは、僕が工場で働いていた頃に体験した事である。非常にショッキングな内容であるが、すべて事実である。それは、ある秋の日のことだった。僕は遅番の勤務を終えて、寮へ戻り交替勤務者用の風呂に入っていた。そこへ隣の部屋に住むSさんが入ってきた。彼とは時々、風呂で一緒になるが、これまで一度も話しをしたことはなかった。そんな彼が、突然話し掛けてきた。「O君、会社やめるの?」すぐには彼の言葉が理解できなかったが、どこかで僕が会社を辞めるという噂でも聞いたのかと思い「辞めませんよ。」と答えた。「そうか。それならいいんだ。」それきり彼は黙っていた。翌朝、ドアをノックする音で目が覚めた。ねぼけながらドアを開けると彼が立っていた。「これを、係長へ渡してくれ。」そういって白い封筒を僕へ手渡した。不思議に思ったが彼に言われた通り、出勤した際に係長のところへ行きその封筒を渡した。係長は不思議そうな顔でそれを受け取った。勤務が始って、しばらくしたころ、係長が慌てて僕のところへ来た。封筒には一通の手紙が入っており、内容は次のようなものだった。「O君を辞めさせることは、許さない。もし辞めさせたら会社に対して報復する。」係長も僕も意味がわからなかった。すぐに彼の職場へ行き彼の姿を探したが見つからなかった。同僚に尋ねると、一旦出社したが、その後姿が見えなくなったという。何が起こっているのかわからないまま、その日の勤務を終え寮へ戻った。同僚に彼の様子を見てくるよう頼まれていたので隣室を訪ねた。ノックをすると中から返事があったので「失礼します。」とドアを開けた。彼は部屋の中央でテーブルに向かっていた。手には何故か赤鉛筆が握りしめられており、顔は上気し、目が異様に輝いていた。僕は恐る恐る「具合はどうですか?」と尋ねた。彼は「おう!入れ。」と、僕に向かって中に入るように促した。部屋の中へ入ると異臭が漂っていた。畳の上には空き缶やごみが散乱し黄ばんだ布団と混在していた。わずかな空間を見つけ腰をおろし「Sさん、みんな心配してますよ。どうしたんですか?」と尋ねた。彼はそれには答えずに、上気した口調で「何が欲しい?」と僕に問いかけてきた。僕があっけにとられていると、「家か?車か?なんでも買ってやるぞ。おまえを世界で通用するようにしてやるからな。」と言うではないか。さすがに僕は恐ろしくなり「おやすみなさい。」とだけ言って、逃げるように自分の部屋へ戻った。その夜は何度も鍵を確認してから眠ったのはいうまでもない。翌日、彼は会社に出てこなかった。その夕方、食事のために食堂へ行こうと部屋のドアを開けた。廊下を見ると彼がいた。スリッパを片方にだけ履いて、もう片方は彼の手にあった。そして廊下の壁を何度も何度も叩いていた。さらに翌日も彼は会社に出勤しなかった。その夜、部屋で一人でテレビを見ていると、ドアをノックする音が聞こえた。まさか隣人では?と思い、恐る恐る「どなたですか?」と尋ねた。「Aです。」隣人ではなく隣室の反対側に住むAさんだった。ドアを開けるとAさんの表情が少しこわばっていたので「どうしたんですか?」と尋ねると「隣がドアを開けたり締めたりしながら大声で何か叫んでたよ。俺こわいよ。」と脅えた声で訴えた。Aさんは隣人と同僚だし、私より年上だったので寮長に事情を話してもらうようにお願いした。それから数日が過ぎ隣室から物音がしなくなったので心配して同僚に尋ねると、彼は小声で「実は昨日、寮の近所の家へ勝手に上がり込んで、家の人に「松田聖子を隠しているだろう。 出せ。」と言って殴ったらしいんだ。それで警察沙汰になって強制入院させられたらしいよ。」と教えてくれた。警察に取り押さえられる際には、顔面蒼白で口からよだれを流しながら暴れたということだった。僕はその話しを聞いて正直ほっとした。もう、彼に脅える必要がなくなったからだ。しかし、冷静に考えてみると、僕もいつ、彼のようになるかも知れないと思い、彼が可哀相に思えてきた。一年後、彼は病院を退院し、田舎へ帰るということで会社へ親御さんに伴なわれ現れたが、ぶくぶくと太っていてまるで別人のようであった。それにしても彼は何故、僕に対してあのような態度をとったのであろうか?永遠の謎である。