マルチ商法 マルチ商法というのをご存知だろうか。所謂、ネズミ講みたいなもので、自分が会員になり、他に会員を獲得するとお金が貰え、さらにその会員が別の会員を獲得すると、そこからもお金が貰えるというやつである。無限に会員が増えていけば大もうけできるというわけだが、当然そんな事はなく、いずれは必ず破綻するものである。僕は一度だけ、そのマルチ商法のセミナーに参加したことがある。それはもう10年ほど前の事であるが、当時、僕には付き合い出して間もない彼女がいた。彼女の生い立ちは決して幸福なものではなく、明るい表情の片隅に暗い影がある女の子だった。そして、その彼女がそのマルチ商法の会社の会員になっていたのである。おおまかにシステムを説明すると、まず健康マットのセット(約40万円)を購入することで会員の資格を得る事ができる。会員になると健康マットのセットを販売する権利を得ることができ、売り上げの数パーセントが自分のものになる。そして子会員、孫会員が増えていけばいくほどたくさんの利益を得ることができる、という典型的なマルチ商法であった。僕はマルチ商法については知識があったので、彼女からその話しを聞いた時に「これはマルチ商法だから、辞めたほうがいい。」と説得したのだが、彼女はすでに洗脳されていたようで、この事だけは譲れないと言い張った。そして僕にも「是非、ためになるからセミナーに参加しよう。」と言った。僕は自分はマルチ商法なんぞには騙されないという自信があったので、彼女と一緒にセミナーに参加し、この目でインチキを見破って彼女を説得しようと思った。そこでセミナーに参加することにした。数日後、彼女の車で代官山にあったセミナー会場へと向かった。会場はそのマルチ商法の会社の支部で、小さなビルのワンフロアであった。セミナー開始時刻になり、30人ほどの人が集まって来た。僕は真ん中へんの席に彼女と並んで座った。支部長と呼ばれる人(年齢20代後半、見た目は普通のサラリーマン)が前で話しを始めた。いかにその健康マットが素晴らしい商品であるかを一通り説明したあとで、別の人(少し怪しそう)が、自分のこれまでの体験を話し始めた。最初は家族や親類から白い目で見られていたが、その健康マットを使ってもらったら、みんなに喜ばれ、たくさん買ってもらったこと、それから友達や知人にもたくさん買ってもらいみんな大満足していること、そしてみんなに喜んでもらったうえに、こんなに儲かりました、と彼は終始笑顔で話した。再び支部長が前に立ち、「それではここで恒例の100円じゃんけんを始めます。」と言った。セミナーに参加している人全員が100円ずつ出し合い、じゃんけんを行い、最終的に勝った人が全額貰えるというやつである。これで会場は大いに盛り上がってきた。僕も参加することは参加したが、支部長らの嘘を見破ってやろうと覚めた目で見ていた。それから最後に支部長が「みなさんは素晴らしい同士です。」みたいな事を言いはじめてみんなを洗脳し始めた。僕は「出た。洗脳の手口だ。」と思いながら、その話しを聞いていた。そこでふと隣に座っている彼女を見た。すると彼女は何たることか、支部長の話しを聞いて涙を流しているではないか。「あらら・・・。なんで?」と思うと同時に彼女がすごく可哀相になっていた。支部長の話しが終わると幹部らは、今回始めてセミナーに参加した人の席をまわって、会員になる契約を始めていた。僕の席にも来たのだが、「少し考えさせて下さい。」と言い契約しなかった。幹部らは「せっかく来たのに、もったいない。」と繰り返していた。セミナーを終えて帰りの車の中で、彼女を説得しようと試みたのだが、もはや彼女は完全に洗脳されていて僕の言葉に耳を貸してはくれなかった。そのセミナーから、しばらくたった頃に、彼女が僕に「お願い。会員になって。」と言ってきた。どうやら月々のノルマがあるらしく、それを達成できないと幹部へ昇格できないというのである。僕は「自分がマルチ商法の会員になることなど、絶対嫌である」と断ろうと思ったのだが、彼女の純粋に信じている姿が、とても可哀相になったので、健康マットを買って会員になるけど、僕は誰にも薦めないし、何も活動しないという条件をつけて契約書にサインした。そのから半年ほどたって彼女とは別れてしまった。その間、僕は何とか彼女を救おうとしたのだが実現できなかった。彼女のために40万円もの健康マットを買った僕は世間から見れば大馬鹿者かもしれないが、後悔はしていない。ただ、彼女を救えなかった事だけは、ずっと悔やんでいる。この時買った健康マットは、いまでも僕の部屋にあるが使ってはいない。彼女はいまも元気でいるだろうか。