壁に耳あり障子に目あり テレビドラマの中で会社のトイレで上司の悪口を言っていると、その上司が個室の中にいて、それを聞いてしまう、といったシーンがよくあるが、僕も現実にそれと似たような体験をしたことがある。僕が工場で働いていた頃の事だ。僕の職場は、すべて男ばかりだったのだが、その隣にリーダー以外はすべて女性という非常に羨ましい職場があった。この職場との間は壁で仕切られていたので、仕事中はほとんど接触はないのだが、組織上は同じ係りだったので、たまに合同の飲み会で一緒になることがあった。その職場に「かおりちゃん」という女の子がいた。彼女は地元の子で少しぽっちゃりした可愛い子であった。当時、僕は付き合っていた子がいたので、たいして興味はなかったのだが、「可愛いなぁ」くらいには思っていた。また、僕は似顔絵を描くのが得意だったので、仕事が暇な時に同じ職場の人の似顔絵を描いたりしてたのだが、O田さんという人をかなりデフォルメして描いた似顔絵を彼女に見せたところ「わぁ!可愛いい。これ、私に下さい。」と持って行ってしまった。そして、そのなんでもない似顔絵を大事そうに自分の机に飾っていたので「もしかしたら、僕に気があるのかなあ。」と思ったこともあった。その「かおりちゃん」を気に入ってる独身男性がいた。僕の似顔絵のモデルになったO田さんである。仕事中に彼女のそばへ行って「ねえ。デートしようよ。」とか「ご飯食べに行かない?」と誘っている姿を何度も目撃した。しかし、「かおりちゃん」はその気がないようで、いつも「また、今度ね。」と軽くあしらわれていた。それでいながら「彼氏いるの?」と聞かれると「ううん。いないの。誰かいい人いないかな?」みたいな事も言っていた。僕はその2人の姿を目撃する度に「たまには食事くらい付き合ってあげればいいのに。」とO田さんに同情していた。そんなある日曜日の事だ。僕は渋谷まで買い物に行くために江田の駅のホームで電車を待っていた。そこへ反対方向へ向かう電車が入ってきたので、それをぼんやりと眺めていた。するとその電車の中に「かおりちゃん」の姿を発見した。更に数秒後、その隣に同じ職場のS谷さんがいることも発見した。2人の雰囲気からしてデートのようである。その後は何だか見てはいけないものを見てしまったような気がして一日落着かなかった。翌日、出勤した僕は昨日見たことをO田さんに話すべきか話さぬべきか迷った。しかし、何も知らないでO田さんがまた「かおりちゃん」にあしらわれるのは可哀相だと思い、推測は入れずに昨日見た事実だけをO田さんに話した。その後、O田さんはS谷さんに事実を確認したようだった。すべては僕が推測した通り「かおりちゃん」とS谷さんは付き合っていたのである。僕は落ち込んだO田さんの姿を見て「話さなきゃよかったかな?」と少し後悔した。そして休憩時間になり僕はトイレへ行った。個室に入り考え事をしながら用を足しているとS谷さんと別の人の声が聞こえてきた。S谷さんはO田さんの事をボロクソに話していた。「そこまで言うかあ?」という内容だったので僕は腹が立ってきた。やがてS谷さんらは僕が個室で話しを聞いていたことを気付かずにトイレから去って行った。僕はそれまでS谷さんとも仲がよかったのだが、その日以来、S谷さんの事が嫌いになっていた。「S谷さんがあんな人じゃ、かおりちゃんも可哀相だな。」とも思ったが、人の恋路の邪魔をする気は毛頭なかったので何も言わなかった。それにしても世の中、誰が何処で見てるかわからないし、聞いているかわからないものだ。この場合は僕が見て聞いたわけだが、僕もいつ誰かに見られるかも知れないし、聞かれるかもしれない。だから人に見られてまずい事はしないように、聞かれてまずい事は言わないようにしようと思った。「壁に耳あり、障子に目あり」とは、昔の人はよく言ったものだと改めて思った。