Mの悲喜劇 以前、僕の同僚にM君なる人物がいた。過去形にしたのは、彼がすでに会社を辞めてしまったからである。これはそのM君の物語である。M君は僕達と休憩コーナーで一休みしていた。そこはエレベータホールの一角に区切られたコーナーで、自動販売機とテーブルに椅子がいくつか置いてあり、大きな窓の外にはベランダがあった。僕はコーヒーを飲みながら、ぼんやりと外を眺めていた。すると僕の前をM君が窓のほうへ歩いていくのが見えた。僕はM君は窓を開けてベランダへ出てたばこでも吸うのかと思ったが、彼は真っ直ぐベランダへ向かっていった。「あっ!」と思った瞬間「ゴン」という鈍い音がして、M君の体はまるで糸の切れた操り人形みたいに後ろへひっくり返った。「痛たたた・・・」とうめきがら彼は起き上がった。彼には窓が見えていなかったらしい。夜もかなり遅くなり、私達は仕事を終えて建物の外へ出た。門の所まで行くと、すでに門は閉じられており、横の守衛所を覗いてみたが人影はなかった。誰からともなく「乗り越えちゃおうか」ということになり、次々に門を乗り越えた。M君だけがどこから乗り越えたらいいのか躊躇していた。私達は終電の時間が気になったので「早くこいよ。」と声をかけた。彼はやっと片隅にあるブロックを踏み台にして門を乗り越えはじめた。とその時である。「こらーっ!」という大きな声がして振り返ると守衛さんが怒った顔で立っていた。ある日、仕事がひと区切りついたので中締めをしようということになり、早めに仕事を終わらせて駅へ向かった。改札をぬけてホームへの階段を降りていくと、すでに電車が止まっていた。私達はダッシュで電車に飛び乗った。M君を除いて・・・彼はホームに残されたが、辛うじて傘だけをドアに挟み込んでいた。そこで電車は傘が抜けるくらいにドアを開けてくれた。しかし彼はしぶとかった。今度は鞄まで挟んだのである。とうとう電車は根負けしてドアを全開にしてくれた。彼は平然と電車に乗り込んできた。ぶつぶつ文句をいいながら。朝の事である。私達は駅を出てバス乗り場へ向かった。すでにバスが止まっていたので次々とバスに乗り込んだ。しかし、M君だけが入り口を昇った所で立ち止まり、運転手と何やら話し込んでいた。2、3分もそういう状態が続き「何やってんのかなあ?」と思っていると、彼はバスを降りてしまった。「おいおい」という間もなくバスは発車してしまった。彼は10分ほど遅れて現れた。「どうしたの?」と訪ねると、トイレに行きたくなったから運転手に「あと何分で発車ですか?」と聞いていたのだという。M君が一冊の本を熱心に読んでいた。私は彼の後ろからそっと覗いてみた。「仙人になれる本」というタイトルであった。