ただ悲しく
もう十年以上前のことである。
当時、僕が勤めていた会社で忘年会を兼ねた職場の旅行があった。
旅行といっても数台の車に分乗し、箱根の芦ノ湖近くの温泉に一泊というものだった。
どうやって温泉旅館までたどり着いたのか、まるで覚えていないので多分ほとんど寝ていたのだろう。
とにかく旅館について、別れて部屋に荷物を置き、まずは温泉につかった。
それから午後7時を廻ったころから宴会が始った。
あまり飲めない僕は部屋の隅っこのほうで、ちびちびと料理を食べていた。
そのうちカラオケが始まり、おじさん達が演歌を歌いだした。
若い先輩達は当時流行していたチェッカーズやサザンを歌った。
そして新人の僕にも当然、マイクがまわってきた。
「ああ、いやだなあ。」と思ったが新人が歌わないわけにはいかない。
諦めて差し出された歌集をパラパラとめくってみたが、
流行歌に弱い私には知らない曲がほとんどだった。
そこで私は、「アカペラですけど・・・」と言ってある曲を歌い始めた。
その曲は「アースシェイカー」の「ただ悲しく」という曲であった。
「消えて行く。受話器の向こうに。君の声もこの愛も。・・・」
静かにそして沈んだ声で歌った。
数ヶ月前にその頃付き合っていた女の子に「お友達に戻りましょう。」
と電話で一方的にふられた事を思い出しながら。
当然、周りはシンと静まり返ってしまった。
少し酔っていたせいもあるのだが、僕はその事に気付かず歌い続けた。
そのうち誰かが「やめろよ。暗いね。君は。」という言葉を発するまでは。
歌を止めた僕はふらふらと立ち上がると、そのまま部屋へと戻った。
ベッドのわきにこしかけてぼぉっとしていた。
ふとポケットに使い捨てライターがあることに気付いた。
僕はそれを取り出し、火をつけて青白い炎を見つめていた。
人の気配に気づき入り口のほうへ目を向けると、ひとりの女の子が戸惑った顔で立っていた。
彼女は私と目が会ったあと、何か見てはいけないものを見てしまったというような表情をして立ち去った。
僕は小さな声で呟くように歌った。
「ただ、悲しく」。