小林光衛

17期・東京支部

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西穂高岳第一キャンプにて(昭和33年1月)

 鵬翔創立二十周年記念冬季合宿(西穂高岳より奥穂高岳往復)の西穂高岳第一キャンプにて撮影したもの。

 前列左より、青木宏之(16期)、小川洋(17期)、安久一成(19期)、後列左より高島誠(18期)、岡部勇(18期)の各会員と私。

 写真の6人のうち、青木会員と私のほかは故人となってしまった。


随想

   より高くより困難なものを求めた頃

 私の本格的な登山の出発は、鵬翔山岳会であり、師は鵬翔の中野満さんである。

 昭和30年4月23日土曜日、鵬翔山岳会に入会した。いや、入会ではなく、入会希望者として登録されたという方が正しい。

 というのは、当時の鵬翔山岳会は、4月当初に入会希望者を登録したのち、4月下旬に新人歓迎山行、5月の連休は谷川岳で雪上合宿6月三ッ峠岩登り基礎合宿、そして7・8月の夏期合宿を終えると、委員会で4月以降の合宿について新人を1人一人審議する。

 審議内容は、体力・意欲・研究心等は勿論、将来山の仲間として適格かどうか等である。体力は、夏の合宿で35キロから40キロを背に、ゆとりを持って歩けたかが主要な観点である。根拠は、これだけの体力そしてゆとりがないと、厳冬期風雪の北アルプスの山々を歩くことは到底できないからである。

 審議をパスした者は、9月の定例集会で準会員として推挙される。ついで、9月の谷川岳集中登山。10月は山行がなくザイル祭、11月初冬の富士合宿、そして12月から正月にかけての冬期合宿を経て、準会員の中から正会員が推挙され、2月の定例集会で発表される。

 そして、会の代表から会員ナンバー入りの会員章が手渡される。だから、正会員になるのに1年かかったのである。ちなみに私の17期では30数名の入会希望者のうち1年で正会員になれたのは僅か6名であった。

 では、なぜ鵬翔山岳会に足が向いたのかというと、一寸複雑である。

 話はさかのぼって昭和28年11月3日、妙高山に登った。新潟高校山岳部が翌春3月の積雪期妙高登山を目指しており、その予備山行で、パートナーは同級生の本田允君であった。積雪は中腹で30センチ、山頂付近の吹き溜まりは1メートルを超え胸までのラッセル。快晴だったから山頂までの往復はできたものの、帰宅後不安になる。3月の妙高山、海抜2454mに登れるかというわけだ。装備、食糧、その他解らぬことだらけ。そこで、登山の専門雑誌「岳人」を見て、良さそうな山岳会を幾つか候補にあげ、その中から本田君と選んだのが鵬翔山岳会だったのである。

 そして、山岳会の事務所宛に、私たち高校生が3月の妙高山を目指す場合の食糧や装備の準備、登山全般の様々な質問を並べて手紙を出した。その質問に丁寧に答えてくれたのが中野満さんだったのである。

 そんなに研究をし、準備を重ねた積雪期妙高登山であったが、学校側の要望で中止になったのは残念だった。

 昭和30年4月、東京での学生生活が始まった。

 4月23日土曜日、大学から下宿に帰ると、中野さんから「夕刻6時、新宿小田急ホームに来るように」という文面の速達が届いている。用件も解らぬまま、小田急ホームに赴き、中野さんに会う。初対面である。

(後日本田君から、彼が、大学に合格し下宿も決まったことを中野さんに連絡したところ、下宿に見え、鵬翔山岳会への入会を勧められ、ついで小生への連絡になったということを聞かされた。)

「これから丹沢へ行くから一緒に来い」というのである。ワイシャツの上にジャンパーを引っ掛け、運動靴を履いた私が戸惑っていると「装備も金も用意してあるから心配するな」ということで、そのまま丹沢へ連れてゆかれてしまった。

総数60名近かったろうか、鵬翔山岳会の新人歓迎山行であった。山麓の秦野の宿で、夕食後ザイルの結び方を教わり、翌日は丹沢の沢登りであった。私と鵬翔山岳会、そして中野さんとの出会いであった。

 4月30日から5月3日までの4日間、谷川岳マチガ沢の合宿。各リーダーの統率力に目を見はり、雪上技術の厳しい訓練に緊張し、炊事担当の腕前に魅入られるなど、驚きの連続であった。

 また、一つの山行は、計画に入った時がスタート、そして計画に沿って実施、反省会が終り、報告書が出来あがった時に終了というのが基本であること。行動中の休憩時の運用、即ちザック・靴ひもの点検、行動記録の記載、観天望気、地形・地物の観察等をすませたのちに休むこと、ザックの上に腰を下ろさぬこと、合宿等山行時は駅等に集合の時点から帰京して解散するまでアルコールは厳禁等、いわゆる登山全般の基本を丁寧に指導を受けたのである。

 6月の月例合宿は山梨県三ツ峠。富士の眺めの素晴らしいところで、河口湖の奥に聳え立つ垂直高度差150メートルの岩壁。富士を背に、始めて本格的な岩登りに取り組んだ二日間であった。中野さんの見事なテクニックと華麗なフォームが脳裏に焼きついている。夕食後、四季楽園山荘で天気図の作図と読図の講習を受けたこと。帰途、河口湖で全員フリチンで泳いだこと。湖畔の茶店の婆ちゃんが我々の隊伍を見て、帝国陸軍華やかなりし頃の軍隊に思いを馳せ、店の奥から飛び出し話し掛けて来たことなど忘れ難い。

 7月下旬から8月にかけての2週間の夏期合宿は、私の長い登山生活の中でも最も心に残る日々であった。

 いわゆる新人対象の夏期合宿は白馬から後立山連峰の縦走であったが、新人の中で私を含めて4名が抜擢され、いきなりの登攀合宿であった。山は北アルプス剣岳。私と本田君と青木宏之氏(16期)の3名は先発隊として入山、剣沢に荷揚げをし、天幕2張を設営したのち本隊7名を迎えに下山、弘法小屋(現在はない)で合流。そして弥陀ケ原を35キロのザックで黙々と歩く。

 剣沢に着いた翌日、全員で長次郎谷から山頂へ、そして平蔵谷を下降し、三田平へと周遊。この日の行動のねらいは剣岳の概念を把握し、岩の感触を楽しむことにあったようだ。3日目は東大谷及びその上部の岩場の登攀だ。2名ずつの5パーティ。夕刻、4パーティは帰幕したが1パーティは帰って来ない。駒草ルンゼのパーティだ。東大谷は別山尾根の西側にあり、各ルートとも初登はされているものの殆ど手つかずといっていい壁やルンゼだ。困難さとともに、落石や雪渓の崩壊といった危険を伴う岩場であった。中野さんのいらいらが募る。夕闇が覆い出すと、「ライトは見えぬか」という中野さんの声が1分刻みに響く。

 翌日は捜索と決まった。駒草ルンゼを中心に2名ずつ4パーティに別れて捜索。先輩の中村博通氏(16期)と私に指定されたポイントまでの捜索の間も落石の音が響き渡り、スノーブリッジ、クレバス、シュルントと、冷や汗の連続の中での行動であった。幸い、不明であったパーティも無事発見された。残雪の状況が危険極まりなく、大事をとって高みでビバークしたとのこと。「リーダー」のあり方を垣間見せてくれた事件であった。

 合宿の後半は三ノ窓に移った。登攀対象はチンネ、八ツ峰、池ノ谷の各岩場である。東大谷と違って、困難ではあっても危険度の少ない快適な岩場である。何日目か、登攀を終えて天幕に帰ったところ、登山者が2名、道を迷い救助を求めて来た。中野さんの指示で、三ノ窓雪渓の半ばまでザイルを使って降ろしてやる。後日、山岳会宛に丁重な礼状が送られてきた。

 三ノ窓では炊事用の水汲みを懸命にやった。中野さんいわく「水汲みの良さが解るまで水汲みをやれ」というのだ。寝るのが10時、起床は3時半という日々の繰り返しの中での水汲みだ。やってみると水汲みの良さがだんだん解ってくる。まず、一人の時間を持てる。次に、朝夕の山々の変化の様を細かく観察できる。夜明けの荘厳さは想像を絶し、まさにこれ以上はない贅沢極まりない一刻だ。

 合宿前半の剣沢は周囲に人影があったが、三ノ窓で生活しているのは我々だけだ。天幕場から少し下った雪渓の割れ目で、滴り落ちる雪解けの水を鍋に受ける。人の気配は全くない。でも孤独ではない。一人でも孤独とは違う。大きな自然の中に、ポツンといる。周りで動いているのは鳥と虫。虫に話しかけたりする。「お前何考えてるんだい」とか、「何食っているの」などとつぶやいたりする奇妙な心理状態になる。鍋に水が一杯になるまで山々と対峙し、たった一人の充実した時間、それが水汲みであった。

 下山の日がやって来た。池ノ平山から黒部渓谷に降りると阿曽原という温泉がある。ここで這い松と汗の臭いに被われた身体を洗い、衣服を改めて娑婆に出ようというのである。「装備リストに化粧石鹸があったな、出せ」という中野さん。ところが係が忘れて来た。ないことが判った途端全員正座させられお説教。「たかが石鹸一つと思うな。ある筈のものがないために、長年の苦労と努力が水泡に帰してしまうこともある。一人の不注意がパーティの命取りになりかねない」と。お説教ではない、来るべきヒマラヤ登山を見据えての中野さんの言であった。

 9月は谷川岳の集中登山。いわゆる南面の岩場である。夏期合宿を終えて己の進歩の跡を味わいながらの山行であった。

 10月、ザイル祭。普段は、アルコールは厳禁、徹底した長幼の序ありの山岳会で、年に1回、酒を酌み交わし、新人を主賓にすえ心ゆくまで語り合う、これがザイル祭である。この年の会場は小田急沿線向ケ丘遊園の山荘。大先輩難波柳策さん(2期)の祝詞に始まり、普段飲みつけない日本酒をコップでグイグイ。気がついたら寝袋に入れられ、山荘前のベンチに転がっている。見ると先輩たちが竹箒を手に清掃をしているではないか。あわてて起きようと体を動かしたら頭が割れる程痛い。胃袋もすっかりやられた。脱水状態なのに湯も飲めない。宿酔を通りこして三日酔いの初体験であった。

 11月下旬、富士合宿。新宿発の夜行列車で富士吉田へ。深夜、寝鎮まった街を歩き出す。浅間神社にお参りをして登山道へ。月明に淡く富士が浮かんでいる。1合目、2合目、そして樹海の中をひたすら登る。6合目に天幕を設営。設営後、氷雪技術の基礎訓練。夕食後、一部のメンバーは二人ずつ組んでビバーク訓練。

 2日目、吉田大沢と屏風尾根の2隊に別れ山頂を目指す。高い。雲海は遥か下だ。山頂の火ロの大きさに驚く。山頂から幕営地を経由、再び樹海へ。長い長い道。富士吉田浅間神社に詣でて帰京。

 12月下旬から1月にかけての冬期合宿。1隊は鹿島槍、もう1隊は穂高連峰。鹿島槍隊は新人主体、穂高隊はおよそ10名のメンバーが、槍ケ岳・西穂高岳・前穂高北尾根3の隊に別れ、それぞれが奥穂高を目指す合宿であった。私は中野さんの前穂高北尾根隊の予定であったが、体調を崩し参加できず、挫折感を味わう羽目となってしまった。

 さて、中野隊3名は上高地を経て穂高涸沢小屋まで順調。涸沢小屋から北尾根を登り出す。そして前穂高3峰のピークに立った時天候は急変、行程半ばにしてビバークを強いられる結果となってしまった。移動性高気圧の圏内にある時間を、読み誤ってしまったのである。

 3日経っても回復の気配はない。食糧もなくなり、メンバーの青木氏は足が、そして井上氏は手が凍傷に侵され次第に悪化している。中野さんは意を決して、雪崩の巣といってもいい状況の涸沢を下り、二人を休ませ自分は小屋を探すが見つからない。3名は再び沢の真ん中で雪穴を掘って一晩を明かす。

 翌日、中野さんはようやく小屋を発見、凍傷の重い青木氏を小屋に収容し終えた時には精も根も尽き果て、動く気力はなくなってしまった。しかし、吹雪の合い間にもう一人井上氏の救助を求める声が聞こえてくる。井上氏を助けに行かなければならない。しかし、小屋を出たら二度と戻れないかも知れない。そこで、遭難の前後の事情、それに事後処理などを書き留めて青木氏に渡し、小屋を出る。

 幸い天候も回復し、井上氏をようやく小屋に収容。休養もそこそこに単身スキーで救援を求めに下山したのであった。槍ケ岳・西穂高の2隊とも引き返して無事、救援活動に従事。凍傷の2名のうち青木氏は松本の信州大学外科に入院、破傷風菌にやられ生死の境をさまよわれたが、治癒した後は第一線に復帰、目覚ましい活躍を見せるが、井上氏は会から次第に遠ざかっていった。

 2月は山行がない。定例集会で新人が正会員に推挙され、会員ナンバーの入った正会員章が山岳会代表から手渡される。冬期合宿に参加できなかった私も推挙され、嬉しく有り難かった。中旬には懇親スキー、年度末考査に集中せんが為不参加。

 3月、通常の月例合宿と異なり、幾つかのパーティに別れての比較的自由な合宿である。私は3月17日からの1週間、郷里越後の只見川源流荒沢岳のパーティに加えてもらった。

 リーダーは森田達雄さん。昭和14年、鵬翔山岳会創設以来の会員。戦前・戦中・戦後を通じ、上越・越後の山々で活躍、中野さんの師匠格。長越茂雄氏の名著『谷川岳研究』に再三登場する名クライマーだ。

 メンバーは他に、石井章雄、熊本敏之(共に15期)の両先輩と花井正子(17期)、私の計5名。

 3月17日上野発22時05分の長岡行で出発。翌朝4時、小出着。地元の登山家伊倉剛三さん宅に立ち寄り、ご厚意の熱い味噌汁で朝食。5時出発、郊外は一面の白い雪原。陽が昇ると暑い。細々とした踏み跡の雪道が続く。ザックが肩に食いこむ。枝折峠下で幕営。

 3月19日、早めに出発。天候は次第に悪化、雨になる。全身完ビショ。右下に見える骨投沢の名が不気味だ。石抱橋のたもとにある猟師の小屋に泊めてもらう。

 3月20日、天候も回復。荒沢岳蛇子沢右俣、森田・熊本・小林。左俣の石井・花井パーティと別れ、9時登攀開始。森田さんの指示で小林トップ。本番でのザイルのトップは始めて。部分的には垂直に近い感じで60度近い傾斜。氷・雪のカッティング。稜線近くは深い雪でラッセル。13時30分、山頂直下で左俣班と合流。小雪。森田さんを始め全員と握手。荒沢岳積雪期初登頂の由。暮の合宿に参加できなかった私は思わず頬がゆるむ。左俣パーティのトレースを辿っての下山はピッチがあがる。充実した感動的な1日であった。

 3月21日、降雪のため次の目標の猿ケ城ルンゼへの行動は中止。枝折峠までバック。辿る尾根はエビのシッポと霧氷の世界。枝折大明神の前で幕営。

 3月22日、5時出発。駒ケ岳への一本道の尾根を行く。駒の小屋まで4時間。ガスのため視界利かず、危険につき登頂は断念。小休止の後引き返す。帰幕12時30分。小休止ののち小林は下山。幕営地発13時15分。小出町の明かりの見える雪道で熟睡、通りかかった人に起こされ再び歩き出す。小出駅着22時30分。新潟行に乗車、帰宅。残る4名は3月23日下山。帰途伊倉剛三氏宅に立ち寄り報告ののち帰京。

 森田さんの温かで細やかな心遣いをしみじみと感じた印象に残る合宿であった。森田さんは平成10年8月に他界された。

 2年目の昭和31年度も、夏期・冬期・3月の合宿地は前年度とは異なるものの、ほぼ同じようなサイクルで合宿が行われている。この年では、夏期合宿の事前踏査で歩いた、初夏の島々谷−徳本峠−上高地−奥穂高−西穂高、8月の滝谷ドーム中央稜登攀(昭和22年、鵬翔のメンバー4名で初登)、そして9月の谷川岳一ノ倉の南稜と四ルンゼの登攀などが印象に残る。

 3年目。夏期合宿は南アルプス北岳。7月上旬、集中豪雨の後偵察行。韮崎−青木鉱泉−地蔵岳−白鳳峠−広河原−北岳の往復。合宿ではバットレス中央稜の登攀。そして、一ノ倉三ルンゼとDルンゼをトップで登ったこと。冬期合宿は極地法で西穂から奥穂と、念願の厳冬期の穂高生活を楽しめたことなど、充実した1年であった。

 4年目、5月連休明けから3週間の撮影で東京放送テレビ(現TBS)の登山教室に出演。夏、新潟高校の合宿、蓮華温泉−朝日岳−雪倉岳−白馬岳−唐松岳−八方尾根に参加。3日目の雪倉岳と三国境の北方にある長池は未だ心に刻まれている幕営地であった。雷鳥の親子、コマクサの群落、日本海に沈む夕陽、そして何よりも、我々以外は誰もいなかった。

 この年度末の3月に大学を卒業帰郷、4月から教員生活に入る。

 新潟中央高校在職中昭和45年春に、中野さんと高島誠君(18期・故人)の推薦で昭和42年に設立された富山県立山にある文部省登山研修所の講師に。再び登山の研修の機会に恵まれ、槙有恒さん、深田久弥さんといった方々、また沢入保忠氏、山田猛氏といった著名な高校山岳部顧問と研修をし、語り合い、膝を交えて一献傾けることのできたことは望外の喜びであった。昭和50年7月の研修会を最後に、後進に道を譲った。

 昨年(平成11年)5月、鵬翔山岳会創立60周年記念集会が開かれ、久しぶりに中野さんにお会いし、また旧友たちとも懐旧談に花を咲かせた。昨年4月、勤務校の山岳部顧問を離れ、昨今は昭和30年代に共に山を歩いた新潟高校山岳部のOB諸君と山を歩いている。気心を知り尽くした連中と山を歩き語り合う、至福の時である。

 先日、書類を整理していたら、昭和44年8月9日付の朝日新聞が出て来た。亡き母が、私に読めと切り抜いておいてくれたものだ。標題は「山の恐ろしさを知れ」で、内容は「中央アルプスを縦走中、鉄砲水に押し流された神戸御影工業高校7名の遭難」をめぐってである。昭和28年新潟高校山岳部に入部以来、口には出さぬもののいっも私の“登山”を心配してくれていた母であった。

 山に登れるということは幸せである。親と家族、そして多くの人々の配慮があって始めて登れるのだということを改めて肝に銘じて、これからの日々を送ってゆくつもりである。

(新潟中央高等学校創立百周年に際し編纂された、同校運動部顧問による小冊子より転載)


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