【新世紀エヴァンゲリオン・オリジナル・ストーリー】
『囁きがわかる距離』
  第20話 「ほんとの気持ち」

 時は12月20日。長門タクミが松前ミサコを追って、北陸のとある温泉街
の静かな旅館『仙水館』に足を運んだ朝の事である。

○8時10分 第3新東京市立新東京第5高校 正門前の坂道
「今日も寒いわね〜」
 吐いた息が白く染まり、冷たい冬の風に溶け込んでゆくのを見ながら言った
アスカの言葉を聞いて、彼女の隣を歩いていたヒカリはおだやかな微笑みを見
せてそれに応える。
「そうね……でも、寒くなるのはまだまだこれからじゃない?」
 学校の正門へと続く長く緩やかな坂道を登っていたアスカは50メートルく
らい前方に、見覚えのある、忘れようもない小さな背中を見つけて、一瞬嬉し
そうな表情を見せた。
「あら、綾波さんじゃない?」
 同じようにその背中に気付いたヒカリがつぶやくように言うと、アスカはひ
とり突然駆け出して、その背中に追いつくと、その背中をトンッと鞄の角でつ
ついた。
『キャッ』
 自分にちょっかいをかけてくる者などいないと思っていたせいだろうか、さ
すがに驚きの声をあげてから、レイは一瞬怪訝そうな表情を見せたけれど、ち
ょっかいの主が栗色の髪の少女だと認識するとすぐにやわらかな笑みを見せた。
「おはよう、レイっ」
 レイのやわらかな表情に少し戸惑いながらアスカが言うと、レイも
「おはよう」
 といつもの控えめな声量で答えてから、何でもなかったかのようにまた正門
の方へと歩き始めた。さっきまでとは違ってかなりゆっくりな歩調のような気
がするのは気のせいだろうか。
 アスカはその背中を見て楽しそうに隠し笑いをすると、すばやく駆けていっ
てその蒼銀の髪の少女の隣に並んだ。そして、ちらりと蒼銀の髪の隙間から覗
く彼女の横顔を見て嬉しそうに微笑む。久しぶりに見たレイの横顔は、少しだ
け頬が紅潮しているように見えた。
「ちょっと待ってよ〜、アスカ〜っ!」
 後ろの方から駆けてくるヒカリの息切れしたその声を聞いたふたりの少女は
どちらともなく顔を見合わせると、楽しそうにクスッと微笑った……。 

○同日 11時10分 ネルフ総本部 作戦指揮部長室
 白昼堂々、部長室の来客用のソファーの上で唇を重ねあう男と女の姿がある。 
 乾いたノックの音が3度響いても気付く様子もなく、ふたりは無心にお互い
の唇を貪りあっていた。
「おかしいわね……今日はいるはずなんだけど……」
 珍しく無反応なので少し不審に思った扉の外の人物がそうつぶやきながらゆ
っくりと扉を開いた。
「……ミ、ミサトっ!」
 扉を開けた主であった白衣姿のリツコは持っていた書類の束を床の上に落と
すと、しばらくの間言葉を失った。その声にソファーの上で男に覆い被せられ
ていた姿勢のミサトはかなり驚いたような表情を見せて男を無理やり自分から
引っぺがすと、そそくさと立ち上がって制服の乱れを直し始めた。
「あ、あ、あらリツコじゃない? 何か用?」
「『何か用?』じゃないわよ。珍しく本部内でおとなしくしていると思ったら
こういう事だったのね。呆れて怒る気もしないわ」
 リツコはそう言いながら、ソファーの上で制服の乱れを直していた男の方を
見た。
「加持君、こんな事している暇があるの?」
 そう言いながら、白い目で加持の方を見る。
「や、やあ、リッちゃん、お元気そうで……」
 頭を掻きながら乾いた笑いを浮かべる加持を見ながら、リツコはこめかみを
指で押さえた。
「ま、見られたのがリツコで良かったわぁ。司令なんかに見られたらどうなる
ものか分かったものじゃないからねえ〜」
 ミサトがカラカラ笑って言ったのを聞いて、リツコは何か重要な事実を思い
出したようで、さーっと顔を青ざめさせた。
「ちょ、ちょっとどうしちゃったのよ。リツコ?」
 ミサトがリツコの顔を覗き込むようにして尋ねたのと同時に乾いた男の声が
室内に響く。
「もうよろしいかね、赤木君、葛城君」
 それまで何ともなかった加持とミサトの顔が一瞬にして青ざめる。
「じゃっ、そういう事でおふたりさん、俺は失礼するよ」
 ミサトよりも先に立ち直った加持はそう言い残すと、扉の外のゲンドウと目
を合わさないようにして部屋を出て行ってしまった。
「……話、進めてもいいかしら?」
 相変わらず固まったままのミサトにリツコが言うと、ようやくミサトも正気
を取り戻したらしく、ゲンドウとリツコをソファーに促した。
「……で、何のお話しでしょう?」
「実は私とアメリカの方へ出張して欲しいのだが」
 ゲンドウはミサトの目をじっと見ながら言った。
「アメリカ?」
「ほら、例の敵の戦艦の使用していた鉱石をつい最近まで開発、発掘していた
機関があることを調査部の人間が掴んできたのよ」
「へえ、ウチにもすごい人間がいるものねえ……で、誰なの、それ?」
 脳天気なミサトの言葉を聞いてリツコは呆れたように頭を抱え込んだ。
「自分の彼氏が何をしているのかも知らないなんて、呆れたもんだわ」
「え、リツコなんか言った?」
 あっけらかんと尋ねたミサトの横顔と呆れ顔のリツコの顔を見ながら、ゲン
ドウがいつもの冷静な表情のままで答える。
「加持君だよ」
「えっ?」
 ミサトの顔がなぜか紅潮する。
「それでだな、北米支部との交渉、その他いろいろあるが、私一人では不十分
なのでな、君にお願いしに来たというわけだ。まあ、本来ならば、松前君の分
担なのだが、彼女がいないのでな」
「リツコは?」
 ミサトは手元の書類に目を通していたリツコを見て尋ねた。
「私はこれからマヤと一緒につくばの方へ行かなくちゃいけないの」
「ああ、例のアレね。……って事は、まさか出発は……?!」
「そう、今からだ。さあ、行くぞ葛城君」
 ゲンドウは立ち上がるとさっさと部屋の外へと歩き出した。慌ててミサトが
その後を追う。
「そんな〜っ! ……ちょ、ちょっと待って下さいよ、碇司令っ!」
 部屋から遠ざかってゆくふたつの足音を聞きながら、リツコは微笑みを浮か
べるとハンガーの中で整備されているエヴァ2号機の方へと視線を移して、何
かを思い出したのか、ふと寂しげに微笑った。

「んっと、取り合えずこれだけやっておけば大丈夫ね」
 その頃、第一開発室では伊吹マヤがディスプレイの前でキーボードを叩いて
いた。ふと隣の席を見たけれども、そこにいるはずのタクミの姿は見られるは
ずもない。マヤはふう、とひとつ小さくため息をつくと再びディスプレイの方
へ視線を移した。

「ま、こんなものでいいかしら」
 同じ頃、中央ハンガーでは三島サユリがキャリー車の点検の最中だった。先
月納車されたばかりの真新しいボディーを満足そうに見つめる彼女ではあった
が、彼女の脳裏からはあの日の出来事がずっと頭を離れることはなかった……。
 サユリはなんとなく天を見上げた。けれどもそこにはただ機械的な冷たい天
井が広がっているだけだった……。

○同日 12時20分 第3新東京市立新東京第5高校 中庭
「ど、どうかな? 味、濃すぎたりしてないかな」
 目の前で少し大きめのお弁当箱片手にがっつぐように中味を胃袋へかき込ん
でいるトウジを少し不安そうに上目遣いで見つめながらヒカリが尋ねた。
「全然旨いがな。やっぱイインチョは料理の天才やな」
「天才だなんて……私は……鈴原に美味しいって言ってもらえるだけで嬉しい
んだし、それだけが楽しみで学校へ来てるみたいなものだから……」
 最後の方はあまりにも声が小さすぎて言葉になっていないが、そんな問題以
前にトウジの方は空腹を満たすのに懸命でヒカリの言葉など耳に届いてはいな
いようだった。
「ほんま、うまいがな。イインチョはホンマ料理がうまいなあ」
 ま、これで上手くゆくのなら、それはそれでいいのかもしれない……。
「いいよなあ、トウジは……。この時期に独り身は辛いよなあ……碇は碇であ
れだし……」
 そんなためいき混じりの言葉を漏らしたのは屋上からカメラのファインダー
でトウジらの様子を覗きながら、パンをかじっていたケンスケである。彼はク
ルリと後ろを振り返ると、はぁと気のないため息をついた。ケンスケが向けた
その視線の先には同じ内容のお弁当を並んで座ってつついているアスカとシン
ジの姿がある。まあ、ふたりともさっきからずっと黙ったままなのだが……。
「あのさ、シンジ……」
 ずっと何か考えこみながらお弁当に箸を付けていたアスカがその箸を休めて、
ためらい混じりに言ったのを聞いて、シンジは左隣りに腰を下ろしている栗色
の髪の彼女の方を見た。
「んっ? なんだいアスカ?」
 アスカは相変わらずじっと前を見つめたままの姿勢で静かに言った。
「……鈴原ってさ……いや、やっぱりなんでもないわ」
「………」
 シンジは不思議そうな顔でアスカの横顔を見たが、アスカはそんなシンジの
視線から逃げるように顔を逸らしてお弁当を食べ始めた。
『ぷるるるるる』
 ちょうどいいタイミングでアスカの胸ポケットの中の携帯電話が鳴った。
「もしもし? なんだミサト? 何泣いてんのよ。……急に出張になった?
ふ〜ん、それはかわいそうね……で、それがどうかしたの?」
『ミサトさんか……起動試験でもするのかな?』
 携帯電話片手のアスカの隣で、シンジはそんな事を思いながらお弁当をつつ
いていた。
「なんですってぇ〜〜!?」
 けれどもそのアスカが突然大声を出したので、シンジは口の中味を一気に吹
き出してしまった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよミサトっ! ミサトってば!」
 けれども電話は切れてしまったらしく、アスカは半分放心状態で受話器をポ
ケットにしまった。
「どうしたのさ、アスカ」
 ようやく落ち着いたシンジがアスカに尋ねると、アスカはちらりとシンジの
方を見てからぽつりとつぶやくように言った。
「……2、3日留守にするからシンジんトコに泊まれ、だって……。見張りも
用意してあるから、って」
「ふ〜ん、そうだったんだ」
 それを聞いたアスカは少し怪訝そうな表情を浮かべてシンジを見た。
「”そうだったんだ?”って、意外と冷静ねシンジ」
「そりゃ……だって、つい1年前まで一緒に暮らしてたじゃないか」
「ま、それはそうだけど……あの頃とはちょっと事情が違うのよっ!」
「事情って?」
 なぜかアスカの頬が赤く染まった。
「あんたバカぁ?! それくらい自分で考えなさいよねっ! ごちそうさま!
そうそう、帰り、ちゃんと待ってなさいよ! 置いて行ったりしたら承知しな
いんだからっ!」
 アスカは一気にそう言い捨てると、お弁当箱をずいとシンジに突き返して、
屋上から降りて行ってしまった。
「事情ってなんだろう……?」
 風になびくアスカの栗色の髪の面影をぼーっと見つめながら、シンジはずっ
と考えていたがその答えが分かるはずもなく、昼休みの終わりを告げる予鈴が
鳴ったので、慌ててお弁当箱をしまうのだった。

 その数分前、レイはエリとカナコと3人で食堂にいた。3人ともすでに食事
は済ませてしまっていて、今はエリが持ち込んできた新製品のクッキーを食べ
ながらのおしゃべりタイムになっている。
「そういえば、綾波さんのマフラーはもう完成したの?」
 カナコのその質問に、レイは首を小さく横に振って答えた。
「……もう少し時間がかかると思うわ」
「クリスマスには間に合いそう?」
 カナコがそう尋ねると、レイは照れくさそうにうなずいた。
「へえ、マフラーなんて編んでるんだ? 気合い入ってる〜」
「エリも見習ってマフラーでも編んであげれば?」
「ば、バカっ! 大体編む相手がいないだろ」
「あら、そうかしら?」
 いたずらっぽく微笑うカナコの横顔と、ムキになったようにそのカナコにつ
っかかエリの横顔をはじめこそ少し戸惑ったように見つめていたレイだったが、
やがて楽しそうな、それでいて嬉しそうな微笑みを見せたのだった。

○同日 14時47分 ネルフ総本部 第一開発室
 リツコとマヤはキャリー車でつくばへ行ってしまった。ゆえに開発室は静か
だ。青葉は一人寂しく端末に向かっていたが、ドアがノックされたので一応返
事を返すと、日向が暇そうに開発室に入ってきた。
「ようシゲル。暇そうだな」
「お前こそ暇そうじゃないか」
 青葉がそう返すと、日向は苦笑いをしながら、マヤの椅子に腰を下ろした。
ちらりと目をやったマヤのデスクの上には日向の写真が大切そうに飾られてい
る。日向は照れくさそうに笑うと、青葉にひょいと缶コーヒーを一本投げた。
「サンキュ、気が利くねえ……そういや、碇司令もいないんだっけな」
「ああ」
 プルタブを引きながら日向が答えると、青葉はくすっと笑った。
「今日、攻めらてこられたらどうしようもないな」
「確かにそうだな」
 半ば苦笑いにも似た笑みを浮かべながら、ふたりは顔を見合わせた。
 その頃、今年40回目の司令代理の大役を仰せつかった初老の男は、ひとり
ぶつぶつつぶやきながら、司令室で将棋盤を前に40枚の将棋の駒とにらめっ
こしていた……。

○同日 18時37分 『仙水館』の裏手にある松前家の客間
 ミサコの母のカスミの言葉に甘えて昼間ずっと眠らせてもらっていたタクミ
はついさっきカスミに起こされてこの客間で夕食を摂っていた。久々の充分な
睡眠と、澄んだ空気のせいだろうか、体調はかなり良好でそれに伴って暗くど
んよりとした気分もかなり晴れてきたようだった。
「それにしてもほんとに空気が澄んでいるんだな……この辺りは」
 部屋の窓から外を覗いていたタクミの背後の戸を叩く音が聞こえたので、彼
は少し驚いて後ろを振り返った。
「はい、どうぞ」
 入ってきたのはミサコの母のカスミだった。そろそろ夕食も終わった頃だと
思い、お湯でもどうかしらと勧めに来てくれたらしい。
「ごめんなさいね……本当はミサコに相手をさせたいのだけれど、あのコ、私
が今日くらいは何もしなくていいって言っても、仕事をするってきかなくて」
 夕食のお膳を下げながら申し訳なさそうにカスミが言ったのを聞いたタクミ
はおだやかな笑みを見せた。
「そうなんですか……」
「あのコは昔からあの通り真面目一本な子で、我慢強いというか、強情という
か……。まあ、その分、かなりの寂しがり屋のようですけど……」
 やわらかな笑みを見せてカスミは言ったが、その言葉に充分心当たりのある
タクミはただじっとその話を聞いているだけだった。
「今回もね、ただ何も言わずにこの旅館を継ぐ事にしたから、って言って帰っ
てきたんですよ。早くに主人を亡くして女手一本で育ててきた愛娘ですもの、
何かあった事ぐらいすぐに分かりましたわ。でも、あのコは何も言わなかった
……。そんなコなんです、あの子は……」
 しみじみとそう語るカスミの横顔を見つめていたタクミは彼女の差し出して
くれたお茶をぐいと飲むと、窓の外に視線を移した。
 もう既に真っ暗になってしまった外は、真っ白な雪がひらひらと風と舞って
いた……。

○同日 18時44分 第3新東京市内にあるシンジの家
「綾波も呼ぼうか?」
 キッチンで夕食の仕度をしながらシンジはアスカにそう言った方がいいかど
うかずっと考えていた。ふたりではどうしても間が持たないだろうと思ったか
らではない……。呼ばなくてはまずいのではないか……レイに変な誤解でもさ
れたら……という気持ちの方が強かった。
「ははははははっ。おっかし〜い。ちょっと来てみなさいよ〜シンジ〜っ」
 リビングでテレビを見ているアスカのそんな楽しそうな声を聞いてシンジは
ぐっとその言葉を飲み込む。思えばアスカとこんな風に過ごすのは久しぶりだ
った。
「シンジ〜っ、ジュースのおかわりおねがいね〜っ!」
 アスカの陽気な声が碇家のリビングに響く。シンジがこの家で過ごし始めて
まだ半年と少しだが、この家で女の子のこんな声が聞かれるのは久しぶりだっ
た。
「そんなにお菓子ばっかり食べてたらご飯が食べられなくなっちゃうよ」
「心配しなくたって大丈夫よ〜。お菓子の入る場所はちゃんと別にあるんだか
ら。それに……」
「それに……何だい?」
 オレンジジュースのペットボトルを持ってリビングにやってきたシンジが栗
色の髪の背中に尋ねるとアスカは一瞬びくんと肩を震わせてそして言った。
「……な、なんでもないわ……。それより、ちゃんとまともなモノ作ってよね。
せっかくこの私が食べてあげるんだから」
 ほんの少し朱色に染まったアスカの頬をちらりと横目で見ながら、シンジは
テーブルの上のグラスにジュースを注いだ。
「そうだね」
 くすっと隠し笑いしながらシンジは答える。そして、お気に入りのライトブ
ルーのトレーナーの袖をまくりながら、キッチンへと戻って入った。
 ひとり残されたリビングでアスカは頬を赤く染めながら、グラスのジュース
に口を付けた……。テレビの内容なんて、実はさっきから全然頭に入ってはい
なかった……。
「シンジっ! シャワー借りるわよっ!」
 アスカはタンッと勢いよく立ち上がると家から持ってきたデイバッグを提げ
てバスルームの方へと消えていった。

○同日 19時55分 第3新東京市内の綾波レイのマンションの一室
 エアコンが充分に効いた室内。バスタオルでその蒼銀の髪を拭きながら入っ
てきたレイはいつものように6畳の部屋の南側にある窓を一気に開けた。
「……いい風……」
 湯上がりの火照った身体に真冬の芯のこもった冷たさが心地よい。レイはそ
の風を充分に堪能した後、窓を閉めると部屋の真ん中にあるテーブルの上に視
線を移した。
 先週から編み始めたばかりのオフホワイトのマフラー。ついさっきまで一生
懸命編んでいたものだ。
「間に合うわね、きっと」
 嬉しそうにそのマフラーを見つめながらやわらかな微笑みを浮かべる。この
冬2作目のマフラーとあってか、編むのは随分と早くなった。もちろん家庭科
クラブ部長のヒカリのお墨付きだ。
「……今頃、何してるのかしら……」
 ふとなんとなく移したその視線の先には、アスカの机の上に飾られているも
のと全く同じ写真。レイはフフッと微笑うと、今度は喉に涼しさを求めて冷蔵
庫のあるキッチンへと足を向けた。

○同日 21時07分 『仙水館』の従業員専用露天風呂
 雲の隙間からようやく顔を出した月を見上げながらタクミは湯船に浸かって
いた。外気に触れている部分とお湯に浸かっている部分の感覚の違いがなぜか
心地よい。そんな心地よさに抱かれながらタクミはふと、昨夜かかってきた春
菜からの電話を思い出した。
『マネージャーから聞いたよ。なんか、お世話になっちゃったね』
「……気にするなよ」
『あのさ……」
 申し訳なさそうな口調で切り出したのは春菜だった。
「んっ?」
『……どうしても聞きたいことがあるんだ』
「何だ?」
『……タクミさ、松前さんのこと……好き?』
「………」
『お願いだから、答えて……。私と比べてじゃなくて、1人の女性として……
好きなの?』
「………」
『変な事聞いてゴメンね……でもどうしても聞いておきたくって……』
 どう答えていいか分からず、タクミは黙っていた。
『……土曜日に私、彼女と逢ったって言ったよね。あの時にね、ひとつだけ…
…かなわないな、って思ったものがあるの……』
 タクミは春菜の言葉を待った。
『タクミを……気遣う気持ち……。多分、この人はタクミのためなら、自分の
全てを投げうってもいい覚悟があるんだろうな、って気がした……』
 タクミはハッとして、目の前の真っ白な壁を見つめた。
『考えてもみてよ……。勤務中に私情で持ち場を離れたり、休みの日もタクミ
のお見舞いに言ったり、聞けば平日もお見舞いに来てたって言うじゃない。一
体、いつ仕事をするの……?』
 ふとタクミは考え込んだ。そういえば、最近のミサコは、少し痩せたような
気もする。
『私には今のこのミュージカルの仕事を捨ててまで、タクミにそこまでしてあ
げられるかどうか正直言って分からない……。……でね、あの雑誌の写真を見
たときにね……ふと思ったの。あの人がこの写真を見たとしたら、一体どうす
るんだろう、って……』
 春菜のセリフに、タクミはハッとした。
『ねえ、あれから話、してる……?』
「……んっ……まあ、な」
 タクミは嘘をついてしまった自分に自己嫌悪した。
『そっか……なら、安心だね……。………それが心配だったの。なんか変な別
れ方しちゃったし、あの人とはいい友達になりたいから』
「変な別れ方?」
『うん……。私も少し動揺してたし……。ねえ、ところでタクミ、離れてみて
前より少しは私のこと、好きになってくれた……?』
 タクミは少し考えてから、静かに答える。
「……ば、ば、馬鹿言え……」
『そう言うと思った』
 春菜は電話の向こうでクスッと笑った。
『……タクミって優しすぎる所があるからね。私より好きな人が出来たらね、
全然遠慮なんかしなくたっていいんだよ』
 悪戯っぽい口調で春菜は言ったけれど、今のタクミにはそれがかえって痛く
感じられた。
「あの人にとって大決心だったと思うんだ。隣に引っ越してくるって」
「うん……そうだな……」
 照れくさそうにうつむきながら、このアパートが自分の家だと言ったあの夜
のミサコの横顔がタクミの脳裏に蘇る。
『私だって、タクミの家に忍び込むの大決心だったんだから。……あっ、ごめ
〜ん。マネージャーがこっち見てる。リハーサルの途中だったんだ。じゃあね、
タクミ。……好きだよ』
 チュッと口づけする音が聞こえて、電話は切れてしまった。
‥ 俺って馬鹿な男だよな…… ‥
 タクミは受話器を握り締めたまま、春菜の想いに応えていなかった自分を、
いや、春菜への想いをずっと抑えていた自分を罵った。それと同時にミサコと
の関係にそれなりの結論を導かなくてはならないことを悟った。
 それが3人のために一番良いかどうか分からなかったけれど、その時点でタ
クミにはそれが最善と思えたのだ。
 そんな回想をしていたタクミがふと我に返ると、竹柵の向こうの女風呂から、
綺麗な歌声が聞こえていた。その声には当然聞き覚えがある。
「……松前さん……ですか?」
 意を決したタクミは竹柵の向こうに声をかけた。
「……え、ええ……。びっくりしたわ」
「今、おひとりですか……?」
「ええ……他には誰もいないわ……」
 月が姿を隠し、ひらひらと雪が舞い降り始める中、タクミは大きく深呼吸し
た。
「少しだけ、僕の話を聞いてもらえますか……。松前さんにはつまらない話か
もしれませんけど、僕と春菜の事を……」
「……つまらないなんて、そんな事ないわ……。私も一度聞いてみたいな、っ
て思ってたの……」
 ミサコを素直にさせたのは、舞い落ちる雪のせいかもしれない。
「僕がゲーム会社のプログラマーをやっていて、その頃付き合っていた彼女に
フラれたって話、前にしましたよね……」
「え、ええ……」
「それが原因じゃないんですけど、なんだか嫌になってその会社を辞めて、し
ばらくフラフラとしてました……。そんな時にただなんとなく面白そうだな〜
と思って勤め始めた遊園地のステージで見かけたのが春菜だったんです。どう
してなのか今でも分からないけれど妙になかれてしまって、嫌な気分じゃなか
ったけれど、妙な気持ちでした」
「どうして?」
 少し冷えてしまった肩にお湯を掛けながらミサコは尋ねた。
「好きになる事はあっても、好かれるのって初めてだったし、多分、自分に自
信がなかったんでしょうね。だからかな、徐々に成長して素敵になってゆく春
菜を見るのが怖かった……春菜を自分がだめにしてしまうのが怖かったんです
よね。今思えばかなりの自惚れ屋ですけど」
「そんな事ないと思うけれど……?」
 ふふっと落ち着いた笑みを見せてミサコは言った。
「そんな理由で僕は彼女から離れました……そして、一生懸命に自分を磨こう
と思ったんです。そして前より少しは自分に自信が持て始めて、また人を好き
になることができるようになりました……。好きになった人も何人か出来た頃、
また春菜が僕の前に現われて、また昔のように僕の胸に飛び込んできてくれた
……。だけど今度はなぜか春菜に申し訳ないような気がして、無理やり春菜を
遠ざけてしまったんです……」
「………」
 ミサコはどう言っていいか分からずに、ただ黙ったままじっと正面を見据え
ていた。
「……やっぱり……好きなんだ……? 今でも……」
 思い沈黙を破ったのはミサコだった。タクミは一瞬びくんと肩を震わせたが
ひとつ大きく息を吸うと、柵の向こういる姿の見えない彼女に向かって答えた。
「ええ……」
 相手の姿が見えないというのはこんなに緊張するものかと強く思うほどに緊
迫した時間が流れた後、柵の向こうからこんな声が返ってきた。
「やっぱりそうだと思った……。でも本音を言うと少し残念だったかな。私を
追いかけてきてくれたんだって、期待していた自分も少しはいたから……」
 それを聞いたタクミは何も言う事が出来なかった。
「けじめをつけるために来たんでしょ……」
 ぼーっと舞い落ちる雪を見つめていたタクミは何か考えていたようだったが
やがて目を閉じると静かに語り始めた。
「……それもあるかもしれません……。だけど……」
 その言葉の先を敏感に感じ取ったのか、ミサコは少しびっくりしたような、
それでいて嬉しそうな笑みを浮かべるとやわらかな口調で言った。
「……その先は言わなくてもいいわ……。これ以上、貴方を悩ませたくないし、
半端な期待はしたくないから……。でも、ありがとう……嬉しかった……」
 それを聞いたタクミはゆっくりと目を開けた。いつの間にか雪が止み、厚い
雲の隙間から月が顔を出していた。
「……もっと昔の話、聞きたいな……。長門クンがまだ若かった頃の話」
 冗談っぽい口調を含んだその声を聞いて、タクミは彼女を追ってきて良かっ
たと初めて思った。

○同日21時17分 第3新東京市内のシンジの家
 リビングでお茶を飲んでいるシンジとアスカ。なぜかずっと会話がない。ふ
たりとも何を話していいか分からないのだ。そんな緊張感の中、電話が鳴った。
『あ、シンジ君? 悪いけど先に眠っていてくれる? まだ帰れないと思うか
ら。そうそう、ミサトには黙っておいて。またあのコうるさいから』
 電話の主はリツコだった。かなりの上機嫌だ。
「リツコさん、飲んでますね」
『あら、分かる? マヤや青葉君達にどうしてもって誘われてね。私、シンジ
君の事信じてるから、見張りがいなくても大丈夫よね』
「大丈夫もなにも、何もしませんよっ!」
 少し語気を荒げたシンジの声に、アスカが少し驚いてシンジの方を見たので
シンジは少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「……も、もうっ、分かりました。アスカにも言っておきます。リツコさんも
あまり飲みすぎないでくださいね。明日も仕事なんですから」
『分かってるわよ。じゃあね、アスカによろしくっ』
 がちゃんと勢いよく電話は切れてしまった。
「どうしたの?」
 受話器を握り締めたまま呆れて立ち尽くしていたシンジにアスカが聞いた。
「先に寝ててくれって、リツコさんから。伊吹さんたちと飲んでるらしいよ。
またリツコさんたら、僕の事信用してるからとか何とか言うんだ。かなり酔っ
てるみたいだね」
「ふうん……」
 アスカは興味なさげにそう言うと、テレビに視線を移した。その仕草にシン
ジは少し意外に思いながらも自分もなんとなくテレビに目をやった。
「シンジ……」
 しばらくしてアスカが普通に言った。
「んっ? な、何?」
 テレビに目を移したまま、シンジは返事した。
「……退屈だからキスしよっか」
 シンジは驚いてバッとアスカの方を見た。アスカはなんでもなかったかのよ
うに相変わらずテレビの青白い画面を見つめている。アスカのことはキライじ
ゃない。だけど……。そんな悩むシンジの頬をアスカがバチッと左手で叩いた。
「ふん、真剣に悩んじゃって。冗談に決まってるでしょ」
 その言葉でカチンと頭にきたシンジは、さっと顔色を変えると、上半身を浮
かせて強引にアスカにキスした。
「えっ……?!」
 今度は驚いたのはアスカの方だった。目を見開いてじっとシンジの目を見つ
めていたアスカだったが、ハッと我に返るとどんっとシンジをソファーに突き
飛ばしてリビングを出ていってしまった。
「ぼ、僕……なんてことしちゃったんだろ……」
 アスカに突き飛ばされたソファーの上で、シンジはアスカの行った先をじっ
と見つめていた。
                              (つづく)



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Copyright Toshiya 1997