【新世紀エヴァンゲリオン・オリジナル・ストーリー】
『囁きがわかる距離』
  第2話 「予感」

◯同日 20時55分 NERV総本部 26階 第1開発室

 カタカタとキーボードを打つ音とラインプリンタが印字する音だけが響いている。

 まだここの住人になって浅い長門タクミが、ディスプレイの前で赤ボールペンを

右耳に挟み、ひたすらにキーボードを打っている。時々、キーボードを打つ手を休

めると、タクミはシステム仕様書をパラパラとめくって、なにやら考え込んではノ

ートに書き取るという作業を繰り返していた。

 そんなタクミから少し離れた席では、開発部長である赤木リツコが今日の一号機

と二号機の実験データに目を通しながら、机上の端末でゲンドウらに提出する報告

書を作成していた。リツコはふとその手を休めると、一心不乱にキーボードを打ち

続けるタクミを見て、少し考えてから席を立った。

「どう?進み具合は?」

 タクミはキーボードを打つ手を止め、椅子ごとリツコの方に振り向いた。

「ええ……いい調子ですよ」

 そう言ってニコッと笑ったタクミの反応に、リツコは少し戸惑う。

「どうかしました……?」

「……あ、いいえ……なんでもないわ。少し休憩しない? コーヒーで良ければ、

 ごちそうしてあげるわ」

「いただきます」

「じゃ、少し待ってて」

 リツコは部屋の隅のコーヒーサーバーへ向かうと自分のマグカップと備え付けの

紙コップにコーヒーを注いだ。

 椅子の上でぐぐーっと背伸びをしながら、タクミはリツコを見ている。

「砂糖とミルクは使う?」

「ミルクだけでいいです」

「私もその方がいいとは思っているんだけど、どうも薄めるのが嫌いでね」

 リツコは苦笑いしながら、カップを両手に持ってタクミに近寄った。

「いつもブラックなんですか?」

「そうよ……。やめなくちゃいけないとは思っているんだけど……はい」

 そう言って、リツコはカップをタクミに手渡した。

「どうも……いただきます」

「楽しそうに仕事するのね……。プログラマーって、もっと暗くて孤独な人種とば

 かり思ってたわ」

「それは偏見です…と言いたいところなんですけど、実際そうなんですよね。こう

 なんて言うか、常に緊張の糸を張りつめた様な感じの人ばかりで……」

 リツコはカップに口を付けたまま、くすっと笑った。

「だから、せめて僕だけでもと思って、なるべく仕事中は笑顔でいるように心掛け

 ているんです。特に僕らは日本中の人たちに笑顔を与える仕事でしたから……」

「遊園地だものね……。正直言うと、私は所詮ゲームやお遊びごときに先端の科学

 技術を使うなんてバカなことだと思ってたのよ……昔の話だけど」

「そうなんですか……」

「近頃は、「科学にも人を喜ばせることができるんだな」って、少しうらやましく

 感じてるの。こんな戦うだけの機械なんて作ってるとね」

 リツコは少し寂しそうな顔で、窓の外のエヴァの機体を見つめた。

 その横顔を見たタクミは少し考えてから、静かに語り始めた。

「赤木博士は今、子供達の間で「将来なりたい職業ナンバーワン」ってご存じあり

 ません?」

「えっ? ……知らないわ」

 突然な質問に驚くリツコを横目で見て、タクミは窓の外のエヴァに目をやった。

「『エヴァンゲリオンのパイロット』ですよ。地球を守る『エヴァンゲリオン』の

 パイロットになりたい、ってたくさんの子供達がそう思ってるんです。そのエヴ

 ァンゲリオンを作ってるなんて、充分に子供達に夢を与える、うらやましい仕事

 じゃないですか」

「そうなの……? 全然知らなかったわ」

「ほら、今年の4月の遷都記念パレードの時だって、新宿大通りをお披露目に歩い

 たエヴァンゲリオンをたくさんの子供達が希望にあふれた眼差しで見上げていた

 んですよ……」

「ああ、あれね……。そうね……覚えているわ……」

 タクミは少し照れくさそうに笑った。

「まあ……その中には僕も混ざってましたけど……」

 それを聞いてリツコはくすくすと笑った。それを見て、タクミも嬉しそうに笑う。

「僕は今のエヴァンゲリオンの方が好きですよ。なんか人間が作ったものらしさが

 出ているから……。それに、子供達に夢を与える仕事という点では、前と変わら

 ないですからね。だから、僕はここで仕事をしてみたいんです。もちろん、他の

 理由もありますけど…」

「ありがと……。少しだけ楽になったような気がするわ……。これからは、もっと

 楽しく仕事を出来そうな気がする……」

 じっとタクミの言葉を聞いていたリツコはやわらかな微笑みを見せた。

「そう……仕事は楽しくやりましょうよ、ねっ!」

 タクミはニッコリと笑ってコーヒーをゴクッと飲んだ。

「あなたって、不思議な人ね……」

 じっとタクミを見ていたリツコが静かに言った。

「そうですか……?」

 リツコがこくりと縦に頷くと同時に、開発室の扉をノックする音が響く。

「は、はい。どうぞ」

 扉を開けて、入って来たのは制服に身を固めたミサトだった。

「は〜い、リツコ! やっぱり仕事してたのね」

 そこまで言って、ミサトはマシンの前のタクミに気付いた。

「誰?」

 リツコは立ち上がって扉のそばへ近寄った。

「誰でもいいでしょ。ところで、何の用? 何か用事があって来たんでしょ」

 ミサトは用事を思い出したようにリツコに視線を戻した。

「そうそう、新しくウチに人が入ったから、一緒に飲みに行くことになって……」

「どうせ、ミサトが無理矢理誘ったんでしょ」

「うるさいわね〜。で、リツコも一緒にどうかな〜って思って誘いに来たの。あ、

 入ってきていいわよ、松前さん」

 そう言ってミサトは扉の外へ声をかけた。

‥ 松前……? まさかねえ…… ‥

 一瞬、リツコはハッとしたような表情を浮かべた。

「失礼します。葛城さん、“松前さん”はやめて下さいって言ってるのに……」

 頭を下げて、部屋の中に入ってきたミサコはリツコの顔を見て驚いた。

「ミ、ミサコ……?」

「お、お久しぶりね……リツコ……」

「なになに、知り合いなの?」

 ミサトが二人の間に首を突っ込んだ。

「同期入所なのよ。もっとも、最初の1年しか一緒にいなかったけど……。でも、

 あなたが生きているなんて……。良かったわ、本当に良かった」

 リツコはミサコを両手で抱きしめた。瞳が少し潤んでいる。

「ごめんね……心配させて……」

 優しい目をしながら、ミサコはリツコの体を抱きしめ返した。しばらくして、白

衣で涙を拭いながら、リツコはミサコから離れた。

「今までどこにいたの?」

「あの後、ずっとイギリス支部にいたのよ。例の三号機のプロジェクトに入って、

 ずっと仕事してたわ…」

 リツコはその言葉で全てを察したようだった。

「そう……。それで、これからは、ここで?」

「例の、空きになってた、第1課の課長よ」

 ミサトがふたりを交互に見ながら答える。

「そう。じゃ、これから、また一緒に仕事が出来るのね。よろしく」

 リツコが右手を差し出したので、ミサコはその手を笑みを浮かべて握り返した。

「これからもよろしく」

「ところで、申し訳ないんだけど、今日は仕事で抜けられないの。残念だけど、ま

 たの機会に誘ってくれる」

 リツコは残念そうにミサトに言った。

「そう……仕方ないわね。じゃあ、またの機会にね。行きましょう、松前さん」

「リツコ、また……ね」

「ええ……」

 ミサトとミサコの後ろ姿を見送りながら、リツコは微笑んだ。

「今日は本当に……お客の多い日ね……」

 リツコの目にキラリと涙が光った……。

 開発室からエレベータへ向かう途中、ミサトとミサコは加持と出会った。

「あら、加持君。珍しいわね、こんな時間までお仕事?」

「ああ……。みんなに振られちゃったんでね……寂しくお仕事さ……」

「あんたまた他の子に手出してるの!」

「違うって!」

 ミサトは加持の首根っこを自分の腰の位置でひっ掴んで、ヘッドロックをかけた。

「嘘おっしゃい!」

 加持は痛めつけられながら、微笑ましくこっちを見ているミサコの顔をじーっと

見上げていたが、数秒眺めた後、ようやく相手が誰であるか思い出した。

「ま、松前さん!!」

「お久しぶり、加持君」

 ミサコはやさしく加持に微笑みかけた。

「何? 知り合い!」

 またまたミサトの腕に力がこもる。

「だから、この腕を放せって!」

「葛城さん、離して上げて下さい。そのままだと本当に死んじゃいますよ」

 フフッと微笑みながら言うミサコが言ったので、ミサトは仕方なさそうに技を解

いた。

「ふんっ……命拾いしたわね」

 加持が痛そうに首をさすっている。

「昔、加持君とは向こうで一緒に仕事をしてたんです。でも、ご心配なく、仕事以

 外では、相手にしてませんでしたから」

 ミサコは悪戯っぽく微笑みながらミサトに言った。

「あんたって、フられたワケ?」

「ほっといてくれ……。でも、戻って来れたんですね。本当に良かった……」

「そうか……加持君は知ってるのね。そうよ、今日から作戦指揮部第1課課長よ」

「って事は、葛城の部下ですか? 苦労しますよ、こいつの下は」

+++++ ばきっ++++++

 ミサトのエルボーが加持の顔面に炸裂。加持はその場にうずくまった。

「うるさいわね!」

 ミサコは二人の様子を微笑みながら見ている。

「お似合いですね」

「は?」

 ぽかんとした顔でミサコを見るミサトに、ミサコは微笑んだ。

「加持君と付き合ってらっしゃるんでしょう?」

「そ、それは……」

「見れば分かりますよ。お互いに相手の事が分かっているから、そういう風にケン

 カ出来るんですもの。そうでなければ、そこまで出来ないですよ……」

 真っ赤になって照れるミサト。

 ようやく復活した加持は、顔を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。

「いい人みつけたじゃないの、加持君。ところで、これから飲みに行こうって、葛

 城さんと話してるんだけど、加持君もどう?」

「え、ああ……葛城さえ良ければ」

 ミサコと加持はミサトの方を見た。

「いいわよ。支度してらっしゃい! 1課の部屋で待ってるから」

 少し顔が赤いまま、ミサトが加持に言った。

「分かったよ! じゃ、また後で松前さん」

「ええ……」

 慌てて、飛んでいく加持。

「さあ、私達も行きましょう……松前さん……」

 ミサコが少し怖い顔でミサトの顔をじーっと覗き込んだので、ミサトは思わず苦

笑いしてしまった。

「……じゃなかったわね……行きましょう、ミサコ」

「はい」

 ミサコはニコッと笑った。

◯第3新東京市 NERV行きの地下鉄の発着駅のある新豊島区の繁華街 

 時刻は9時過ぎ。

 ベージュのハーフコート姿のマヤが「心ここにあらず」といった体(てい)で、

街をふらふらっと歩いている。

 それに目をつけたサラリーマン風の酔っぱらい男が一人。

「ねえちゃん……一緒に飲まないかい?」

 近寄って声をかける男だが、マヤは聞こえていないのか、ぼーっと歩き続けてい

る。男はこれ幸いとばかりに、横に並んでマヤの肩を抱き、強引にどこかへ連れて

行こうとした。それでもボケッとしたままのマヤ。目が完全に死んでいる……。

「ほ〜ら、一緒にいいところに行こうねえ〜」

 12、3人の男の団体の横を通り過ぎるマヤと酔っぱらい。

 その男達の中の一人がハッとマヤに気付いた。同期連中と飲みに出ていた青葉で

あった。青葉は見知らぬ男が隣にいるのと、マヤの目がうつろなのを妙だと感じて、

群から抜け出すと、マヤに駆け寄った。

「マヤちゃん!!」

 その言葉にハッと我に返ったマヤはようやく隣の男に気付いた。

「あなた誰!?」

「誰って、そんな野暮なこと聞かんといてーな」

 既に何を言っているのか分からないその男は、マヤの肩を抱いたまま、離そうと

しない。

「離してよっ!」

 それでも、離さない酔っぱらい……。青葉はダダッと駆け寄ると

+++++ げしっ ++++++

 と、右ストレートを酔っぱらいの顔面に炸裂させた。

 マヤしか見てなかったものだから、青葉に気付く事もなくまともにパンチを喰ら

ってしまった酔っぱらいは、アスファルトの上に沈んだ。

「青葉君……?」

 マヤはまじまじと青葉の顔を見上げた。

「何やってんの!?しっかりしなきゃ駄目だろう?マヤちゃんらしくもない……」

 マヤはいきなり、青葉の胸に抱きついた。

「マヤちゃん……?」

「ありがとう……ごめんね……」

 しばらく、青葉に身体を預けた後、マヤはガバッと青葉から離れた。必死に作り

笑いを浮かべて青葉を見上げる。

「そうだっ、青葉君! 飲みに行かない?」

「えっ!? 先約があったんじゃ……」

 マヤは少し寂しそうな顔をしてから、作り笑いを浮かべた。

「いいのよ……。どう? 行かない?」

「行くよ! 行きます!」

 青葉は、うずくまったままの男を見ると、こっちを見ていた同期連中に声をかけ

た。

「俺、抜けるよ! これ、交番にでも届けといてくれ」

 男を指さし、青葉は大きな声で言った。

「行こうか?」

 マヤの方に微笑みながら、振り返る。

「うん。私、いい店知ってるんだ」

 嫌なことを忘れるかのように、マヤはニコッと笑った。

 青葉はその笑顔が作られたものであることを薄々ながら感じていた……。

◯同日 20時30分 新品川区 レイのマンションの近くの路上

 暗い夜道を並んでてくてくと黙ったまま歩き続けるシンジとレイがいた。

 レイのマンションがふたりの視界に入ったのとほぼ同時ぐらいのタイミングで突

然に雨が降り始める。通り雨かと思ったシンジだったが、意外と雨足は強い。

「降るって言ってなかったのに。走ろう!綾波」

「ええ……」

 鞄を傘代わりにして、走ってマンションの玄関に入るふたり。

 雨足が強かったため、シンジもレイもかなり濡れている。

 レイはゆっくりと振り返って、雨でまだらになってしまったシンジのブレザーを

見た。

「私の部屋に来て……」

 それだけ言うと、レイはすたすたとエレベータの方へ歩き出す。

「えっ? あ、綾波、待ってよ」

 シンジは慌ててレイを追い掛けた。

「ど、どうして?」

「そのままだと風邪をひくわ……」

 エレベータの扉を見つめたまま、さらりとレイは答える。チーンと音がして、エ

レベータの扉が開くと、レイはスッと中に歩みを進めた。

「碇君……早く乗って……」

 シンジは戸惑った表情のまま、慌ててエレベータに飛び乗る。

 ふたりがレイの部屋の前に到着すると、レイは黙ったまま、ポケットから鍵を取

り出して扉を開けた。

「鍵かけるようにしたんだ……」

「前、碇君がそうしなさいって言ったでしょ……」

「そ、そうだったね……」

 シンジはバツの悪そうな顔を浮かべてから、キョロキョロと辺りを見回した。以

前の様に、郵便受けにごっそり郵便が溜まっていない事に気付く。

 玄関に入ったレイはパチンと部屋の明かりを点けると、靴を脱いで、綺麗に揃え

てから、スタスタと中に入っていった。

「どうしたの……? 上がって……」

 シンジが入ってこないのを不思議に思って、レイは玄関からすぐの場所にある部

屋の入り口から顔を出した。シンジは、呆然と玄関先で突っ立っている。

「どうしたの……」

「えっ……あ……何でもないよ」

 シンジは靴を脱いで、レイの靴から少し離れた位置に揃えてから部屋へ向かった。

 部屋の中を見て、シンジは再び呆然となった。

 床には薄いブルーのカーペットが敷かれ、壁は真っ白なクロスが張られており、

大きな鳩時計が掛けてある。木目調の小ダンスに小さな棚、ちゃぶ台のような四角

い机。ベッドは前のままだが、綺麗にベッドカバーが掛けられている。キョロキョ

ロと見回しているとシンジの目の前に突然無造作にバスタオルが差し出された。

「はい……。早く拭いて……」

 レイはシンジにタオルを渡すと自分も体を拭きながら、部屋とつづきになってい

る小さな2畳くらいの広さの台所へ行く。そして、かわいらしいブルーのやかんに

水を入れると、レイはそれを火にかけた。

「そこにでも座って……」

 そう言ってレイは台所からテーブルの脇を指さす。

 シンジは体を一通り拭き終わって、タオルを首にかけると、鞄を壁に立てかけ、

おずおずと腰を降ろした。

「前に来たときと、大分変わったね……この部屋……」

 小さな棚に置かれた真新しいMDプレイヤーを見ながらシンジが言う。

「碇君が最後に来たのは、いつ……?」

 台所でてきぱきとお茶の支度しているレイ。

「最後の戦いの前だから……1年と9カ月前……かな?」

 すると、レイが紅茶の入ったティーカップ二つとシュガーポットをお盆に載せて

部屋に戻って来た。

「こんなにしたのは、高校生になってから……。洞木さんがいろいろと言うものだ

 から……ちょっと変えてみたの」

「委員長が?」

 中学からの友人である洞木ヒカリは、違うクラスになってしまった今でも、レイ

にいろいろと気遣っていた。もちろんレイのクラスに同じく中学からの友人である

鈴原トウジがいることも少しは関係しているのだけれど……。

 レイは、お盆を机に置いてから、腰を下ろすと、カップをシンジの前と自分の前

に置いた。

「どうぞ……」

「ありがとう……」

 シンジはなぜかドキドキとしてしまった。一方、レイはベッドのそばの窓から、

外の様子を何気なく見ている。

「……なぜか落ちつくね……この部屋……」

「そう……?」

「機械的な物が電話くらいしかないせいかな?」

 シンジは棚の上の黒い留守番電話を見た。レイもそれにならって、電話を見ると

なぜか思案顔を浮かべていたが、やがておずおずとシンジに話しかけた。

「……碇君……? お願いがあるんだけど……」

「何?」

「あの電話ね……留守録音っていうのが出来ないの……。普通に電話はかけられる

 んだけど…」

「は? でも、留守番電話でしょ」

「そうなんだけど……。見てくれないかな……?」

「いいよ」

 シンジは立ち上がると電話のそばに行き、電話をあちこちいじった。

 レイはそれを不安そうに見ていたが、そのうち、シンジが大声で笑い始めた。

「はははははは……。綾波……これじゃ出来なくて当たり前だよ」

「ど、どうして……?」

 不思議そうにシンジを見ているレイ。

「だって電池が入ってないもの……」

「えっ? それって、電池がいるの……?」

 再び、大笑いするシンジに、レイはぷうと頬を膨らませた。

「そんなに笑わなくても……」

「ごめんごめん……でも、こんな事に気付かないなんて、やっぱり女の子だね」

 シンジ、机に戻ってくる。

「そ、そう……?」

 紅茶を一口飲むシンジに、レイは不思議な顔で首を傾げた。

「明日、お店に行って単2型っていう電池を4本買って、電話の裏のふたを開けて

 入れれば使えるよ。電池の方向を間違えないようにね」

「分かったわ……」

 そう言ったきり、ふたりは再び、向き合ったまま沈黙してしまった。シンジは必

死で話題を探す。

「そういえば、もうじき体育祭だっけ……。綾波は何に出るの?」

「……借り物競走」

 レイはうつむいて、恥ずかしそうに答えた。

 シンジは、レイの照れた姿が可愛らしくて、思わず微笑む。

「……私、走るの得意じゃないから……。碇君は?」

「100m走に、400mリレーに、男女混合800mリレーに、クラブ対抗リレ

 ーかな」

「そんなに?」

「アスカの命令だよ。アスカ、体育委員だから、強引に登録しちゃってさ……。ま

 あ……クラスで一番足が速いのは僕らしいから、仕方ないんだけどね」

「凄いわ……」

 本気で感心するレイに、シンジは頭を掻きながら照れた。

「綾波のクラスのトウジだって、それぐらい出るだろう?」

「鈴原君? そういえば……そうね……」

「トウジにとっては、球技大会と並んで、数少ない活躍の場だからね」

「碇君にとっても、でしょ……?」

 ふたりは顔を見合わせて楽しそうに笑った。

 いつの間にか雨もあがり、星空が顔を出している。

 シンジのカップの紅茶も、いつのまにかなくなってしまっていた。

「じゃ、そろそろ帰ろうかな……。雨もあがったし……」

 名残惜しそうにシンジは立ち上がる。

「あ、あの……碇君……?」

「……な、何……?」

 少し赤い顔でレイを見下ろすシンジ。

「紅茶……もう1杯だけ飲んでいかない……?」

 うつむき加減のレイの頬がほんの少し赤く染まっているように見える。

「……えっ……。い、いいよ……」

 そう言ってシンジが嬉しそうに腰を下ろすと、レイはシンジのカップを持って、

足早に台所へ走って行く。

 そんなふたりを満月の月が空から優しく見守っていた……。

○同日 21時00分 新豊島区の繁華街のとあるショットバー

 粋なバーのカウンターで並んで座っているマヤと青葉。マヤのグラスのバーボン

は既に10杯目……。それでもまだマヤはほろ酔い加減である。

「青葉君って、キスしたことある?」

 飲みかけていたバーボンが気管に入り、青葉はむせた。

「な、なんだいいきなり……」

「“キスしたことある?”って聞いてるの!」

 青葉の顔を覗き込んで、尋ねるマヤの頬は赤い……。

「あるよ……」

 マヤから視線を逸らして青葉は答える。

「そうよね……あるわよね……。だったら、聞くけど……男の人って、好きでもな

 い人とキスできるものなの……?」

 そう言ってマヤはじーっと青葉の顔を見つめた。酔っぱらっているせいか、かな

り色っぽい目で見つめるので、青葉は思わず視線をそらしてしまった。

「……一概には言えないけど、出来ないんじゃないかと思う」

「ということは、キスするって事は、好きだって事よね……」

 マヤは青葉の顔を覗き込むのを止めると、カウンターに肘をついて、両手でグラ

スを持ったまま、グーッとバーボンを飲み干した。

「何回も聞いてるけど、何かあったの?」

「別にい〜〜。何もないわよお〜……」

 マヤは、両手で持った空のグラスをじーっと見つめている。

「マコトと何かあったんだろう。話してみてよ……」

「日向君とは何にもないわよ…な〜んにも……ね。キスだってされたことないんだ

 から」

「えっ?」

 マヤはバーテンダーに向けて、グラスをからからと振ってみせた。

「お兄さ〜ん! 同じのちょうだい……」

 バーテンダーはアイスボールを作ると、新しいグラスに入れ、とくとくとバーボ

ンを注いでマヤの前に差し出した。

「何にもないの……な〜んにも……ね」

 その作りたてのバーボンをマヤはぐーっと飲みほす。

 青葉はかける言葉も見つからないまま、じっとマヤの横顔を見つめていた。

○傷心のマヤが酔いつぶれていた頃、新豊島区の繁華街の居酒屋「美咲」

 カウンターが15人ぐらいに4人掛けのテーブルが4つしかない小さなその店は、

ミサト達の行きつけの小料理屋である。鉢巻きを締めた、人の良さそうな40過ぎ

のオヤジと、どう見たってオヤジと同い年には見えないくらい若く見える「純日本

的美人」の女将が切り盛りしているその店は、いつも大にぎわいであった。

 その店の一角にミサト、加持、日向、ミサコが陣取っているが、今日もカウンタ

ーは、女将目当ての中年連中の取り巻きで満席。ミサト達以外のテーブルも女の子

のグループで埋まっていた。ミサト達のテーブルの上には冷酒が入ったグラスと煮

物や焼き物など日本風の美味しそうな料理が所狭しと並んでいる。

「今日はやけにサービスがいいわね」

 テーブルの上の料理を見て、カウンターの向こうのオヤジに話しかけるミサト。

「初めて来る子にはサービスしとかないとな」

 ミサコの顔を見て、照れながら答えるオヤジ。

「そういえば、私も初めて来たときは酒代ただにしてもらったっけ」

「ただですか?」

「うん。ただにしてやるって言ったから、最高級の純米大吟醸を2本空にしたら、

 オヤジさん、さすがに青ざめちゃってさあ……」

 ケラケラと笑い飛ばすミサトに、顔を見合わせるミサコと日向。

「要するに根がスケベなんだよ、このオヤジは! ほら、見て下さいよ、松前さん。

 テーブルだって女の子ばかりでしょう?あれだってね、女性専用シートとか言っ

 て男の客は座らせないからなんですから」

 ミサコは女の子のグループが陣取っている他の3つのテーブルの方を見た。

「うるせえ!加持!」

 加持の頭にオヤジの投げた茄子が命中する。

「痛ってえな!」

「うるせえ!天罰だ!」

 笑うミサコとミサト。

「でも、この席は女性専用じゃないんですか?」

 ミサトに尋ねるミサコ。

 丁度、ミサト達のテーブルに料理を運んできた女将がミサトに代わって答える。

「この席は、いつも加持君の為に開けてあるんですの。あの人は、全然、口には出

 さないけれど……本当は加持君が可愛くてたまらないんです。加持君も多分、分

 かっているはずですわ」

 女将は野菜の投げ合いを始めた二人の様子を優しい目で見ながら言った。

「そうなんですか……」

「私たちには子供がいなかったものだから……加持君ぐらいの年頃の子は可愛くて

 仕方がないのでしょうね……。その中でも特に加持君は……」

 カウンターの客を間に挟んで、飛び交うピーマンやらタマネギやらじゃがいもな

どなど、四季折々の野菜の数々。カウンターの客はその野菜を避けながら、楽しそ

うに酒を飲んでいる。

 それをミサトは微笑ましい目で見つめている。

「加持君も早くに両親を亡くしたから……。それに、この二人の口喧嘩はここの名

 物みたいなもんだしね……」

「てめえ!もっと素直になりやがれ!」

「うるせえ!」

 二人の喧嘩を優しい目で見つめるミサト達。

 オヤジとの口喧嘩に疲れた加持が机の上の冷酒を飲む。

「あ〜、疲れた……」

「毎度毎度、よくやるわね……」

「いつも、仕掛けてくるのはあっちだぜ!」

「どっちもどっちよ!」

 笑う日向とミサコ。

「しかし、ここっていつ来ても思うんですけど、料理が美味しいですよね」

「本当……」

 嬉しそうにうんうんと頷きながら、その話を聞いているオヤジ。

「洒落は下手なくせに、料理だけは上手いんだよ!このオヤジは」

 カウンターから飛んできた大根が加持の頭に当たって、真っ二つに割れた。

「何か言ったか?」

「てめえ!さすがに大根は痛いぞ!もっと柔らかいものにしやがれ!」

「うるせえ! てめえの石頭にゃ、それでも柔らかすぎるわい!」

 再び、始まる舌戦……。そんな加持とオヤジの喧嘩を見ながら、上手い酒を飲み、

美味しい料理をつつくミサト、日向、ミサコ。

 楽しい時間はすぐに過ぎていった。

 カウンターの客もいなくなり、店にはミサト達だけ……。オヤジは洗い物を始め、

女将はミサト達と話をしながら、片付けをしている。

「いいんですか? 出て行かなくて……」

「いいの、いいの。この店は俺で保ってるようなもんだから……」

「なんだと!」

 カウンターから今日2発目(通算10回目)の南瓜が飛んでくる。もちろん加持

にヒット。

 加持はそのままテーブルに突っ伏してしまった。

「お、おい!大丈夫か?」

 慌ててカウンターに乗り出すオヤジ。

「大丈夫よ……酔って眠っちゃっただけだから……」

「そ、そうかい……ならいいや」

 オヤジはほっとした顔をすると、再び洗い物を始めた。

「今日はよっぽど嬉しかったのね。いつも以上にはしゃいじゃって」

 加持の静かな寝顔を見ながら、ミサトは言った。

「私も久しぶりにみんなに会えて、とても嬉しいです。それに、こんな美味しいも

 のまでごちそうになっちゃって……」

 日向とミサトの顔を見てから、ミサコはオヤジと女将の方を見た。

「また、いつでも来てくんな。加持の野郎、抜きでな」

 豪快に笑いながら言うオヤジ。横では女将が優しく微笑みながらうなづいている。

「じゃ、帰りましょうか。ほら、加持君、起きて。帰るわよ」

 目を開けるそぶりもない加持。

「日向君、ちょっとこいつをおねがいね。私、会計してくるから……」

「僕も出しますよ」

「私も……」

「ダ〜メ! 私と加持君のオゴリよ。ここに来るときに二人で決めたの。だから、

 おとなしくおごられなさい。これは、上長命令です」

 えっへんとばかりに言うミサト。

「じゃあ、ごちそうさまです」

「ごちそうさまでした。葛城さん」

「よ〜し。女将さ〜ん、今日も加持クンのカードでお願いね」

 ミサトは加持のポケットの財布からカードを取り出すと、レジに向かった。顔を

見合わせてミサコと日向は吹き出す。

「じゃ、僕らも行きましょうか」

 レジでミサトが会計をしているのを見て、腰を上げる日向。

「ええ……」

 日向、加持を肩に抱え、カウンターの前を通る。

「オヤジさん、また来ますよ」

「おう日向!またな! 嬢ちゃんもまた来ておくれよな」

「また、来ますよ、ご主人さん」

 オヤジに頭を下げて、日向の後ろを着いていくミサコをポーッとして見送るオヤ

ジ。レジでミサトを待ち、4人揃ってから店の扉を開ける。

「また、いらっしゃってくださいね」

「もちろん」

 ミサト、景気良く言って外に出る。

「さてと、2次会に行くにもスポンサーが死んでちゃ、どうしようもないわね。私

 はそいつを送って行くから、日向君、ミサコを送って行くのよ。いいわね」

「はい」

 ミサトは頷くと加持を日向から譲り受けて、

「ほら、加持君。帰るわよ」

「ん……あ……ああ、分かった」

「それじゃ、また明日……あ、もう今日か……」

 既に1時を回ってしまった時計を見てミサトは言った。

「はい。今日はありがとうございました」

「うん。それじゃね。おやすみ」

「じゃあな」

 ミサトと加持、仲良く並んで街の奥へと消えていく。それを見送る日向とミサコ。

「本当に仲がいいのね」

「ええ…そうですね。僕らも行きましょう。駅まで送りますよ」

 ふたりは地下鉄の駅へと向かった。

 その頃、新豊島区の繁華街の道路脇では−

「大丈夫かい?マヤちゃん」

 マヤの背中をさする青葉の姿があった。

「止めたのにあんなに飲むから……」

「いいのよ! ほっといてよ!」

 青葉の手を振りきって、マヤは壁にもたれた。

「そんなこと出来るわけないだろ」

 真面目な顔で怒鳴る青葉。マヤはその言葉で我に返りうつむいた。

「ごめんね……青葉クン……。無理に付き合わせたのに……」

 うつむいたまま、マヤは泣き始めた。

「無理になんかじゃないって……」

 青葉がマヤに背を向けると、マヤがその背中にしがみついた。

「今日の私……おかしいでしょ……。ちょっと嫌な事があったものだから……。

 ごめんね……青葉君を利用しているみたいで悪いけど……少しだけこのままでい

 させてくれる……」

 今にも消え入りそうな声で尋ねるマヤ。

「あ、うん……」

「ありがと……」

 マヤ、青葉の背中にすがって泣いている。丁度その時、何も言葉を掛けられない

まま、立ち尽くしている青葉の視界に入ってくる日向とミサコの姿。それを見て、

青葉は口の中で小さく呟いた。

「こういうことか……」

 睨むような目でじっと日向を見ている青葉。

「何……?」

「何でもないさ…」

 日向とミサコの姿が、青葉らの視界から消えたのとほぼ同時に、マヤは青葉から

ゆっくりと離れた。

「もういいのかい?」

 ニコッと笑い掛ける青葉に、マヤは恥ずかしそうに頷いた。

「じゃあ、帰ろう。今からなら終電にも間に合う」

 青葉は自分の家に連れて帰りたい衝動に駆られながら、マヤの肩を抱いて、日向

達の行った方向とは別の方向から駅へと向かった。

 その頃、マヤと青葉の前を通り過ぎていった日向とミサコはといえば−

 お互いにどう声をかけていいか分からず、黙り込んだまま歩いていた。

「この辺りも昔とは全然変わったわ」

 道の両端の町並みを感慨深げに見ながらミサコが言う。

「そうですね……」

 何やら考え込んでいた様子の日向は無表情なまま相づちをうった。

「変わってないのは、私ぐらいのものかしら……」

 そう言ってミサコが笑うと、ようやく日向が重い口を開いた。

「……僕の気持ちだって……昔のまま、変わってないですよ……」

「えっ……?」

 ミサコは驚いた顔で日向の横顔を見た。

「僕は……今でもミサコさんの事が好きです……。

 今日、ずっと貴女を見ていて思いました……。やっぱり僕は、この人が大好きな

 んだな……。もう、この世にはいないと一度は諦めたこの人を3年経った今でも、

 愛しているんだな、って……」

 ミサコは立ち止まった。少し行きすぎてからそれに気付いた日向ははたと立ち止

まると、ゆっくりとした仕草で振り返った。

「ありがとう……」

 うつむきがちに、今にも消え入りそうな声で答えたミサコを、日向は心配そうに

見つめる。

「ミサコさん……」

 ミサコはじっと何かを考えていたようだったが、やがて静かに顔を上げた。

「マコト……?」

「な、何ですか……?」

「今、付き合ってるコ……いるの?」

 ミサコはそう言って日向の瞳をじっと見つめた。

「えっ……」

 日向の頭に浮かんだのはショートカットで端正な顔だちの彼女。

「……は、はい……」

「そう……」

 それを聞いたミサコは日向から視線を反らすと、ゆっくりと歩みを進め、擦れ違

いざまに囁いた。

「気持ちだけ……受け取っておくわ」

 日向しばらく呆然としていたが、慌ててミサコの後を追い、彼女の背中に叫んだ。

「それって、どういう意味です?」

 けれども彼女は振り向かない。

 しっかりとした足取りで黙々と駅に向かって歩いてゆく。

 次第に遠ざかってゆくミサコの背中にしびれを切らした日向は、たまらず駆け寄

ってミサコの前に立ちふさがった。

「……えっ……?!」

 そのミサコの顔を見て、日向は驚く。

 その彼女の表情は寂しげで……せつなさに満ちていたから。

「どういう意味なんですか?」

「それじゃ、聞くけど……これからマコトは、今の彼女とどうするつもりなの?」

「そ、それは…」

「きっぱりと彼女への想いを断ち切って、彼女と別れられる?」

 日向はすぐに答えることが出来ず、黙ったままうつむいてしまった。

「ほら…すぐに答えられないでしょう?今のマコトは私に会えて浮かれてるだけな

 のよ…。だから、今の彼女を大事にしてあげなさい……って言ってるの……」

 ミサコはやさしい目で日向を見つめた。

「あなたが中途半端に女の子と付き合うタイプじゃないことは分かっているわ……。

 だから、今の彼女は、あなたにとってとても大切な人のはず……。失くしたはず

 の私との思い出よりも、今そこにある彼女への想いを大切にしなさい……」

 そう言ってミサコは日向の胸を指さした。

「私は、あなたが今でも私の事を……あなたを捨てたこの私の事を……ずっと好き

 でいてくれた……それだけで充分よ。だから、あなたは、今の彼女に優しくして

 あげて……。お願い……」

 そう言って彼女は微笑む。

 日向は黙ったまま、彼女の顔を見つめる事しかできなかった。

「……私、帰るから……。送ってくれて、ありがと……」

 駅の方へ駆け出していったミサコを、日向は見送ることしかできなかった……。

○翌朝 午前7時55分 NERV本部1階 地下鉄ターミナル

 地上から500メートル地下にある地下鉄のホームから、NERV本部の建物に向か

う通路を歩いている私服姿の青葉。偶然、同じ地下鉄に乗っていたマヤが青葉に気

付き、その後ろからこっそりと彼に近づいた。ヘッドホンで音楽を聞いている風の

青葉はマヤの気配に気付く様子もない。

「あ〜おば君っ!」

「うわあっ!」

「おはよう」

 元気に笑いかけてくるマヤに、青葉はヘッドホンを外しつつ答える。

「ああ……おはよう……」

 マヤは青葉の隣に並ぶと、青葉の方をニコニコとしながら見上げた。意外なマヤ

の様子に青葉は少し戸惑いがちである。

「昨日の夜はありがとう…。いろいろ迷惑かけちゃって……」

「いいって、気にしないでよ……。それより、どうだい気分の方は?」

 マヤの顔を見下ろしながら、話しかける青葉。

「んっ? 大丈夫よ……。すっかり酔いは冷めたし……」

「そっちじゃなくてさ……」

 視線をそらしながら青葉が遠慮がちに言うと、さすがのマヤも察したようで、少

し恥ずかげな笑みを浮かべて答える。

「ん……飲んで酔いが冷めたら、すっきりしたわ……。モヤモヤしていたものが全

 部、吹き飛んだみたい……」

「そっか……なら、いいや……」

 安心したように言った青葉の顔を、マヤは申し訳なさそうに見上げた。

「ごめんね……心配させて……」

「いや……心配するのは俺の勝手だから……」

 青葉は照れくさそうにマヤから目をそらした。

「マヤちゃん……」

「何……?」

「俺はずっと君を待ってるからさ…いつでも来てくれて構わないんだ……。それだ

 けは覚えていてくれないか……」

 じっと正面を見たまま、マヤの方を見向きもせずに青葉は言う。その頬はほんの

少し赤い。

「う、うん……」

 マヤは照れくさそうに頬を赤く染めて、小さくうなづいた。

「よし、行こう」

「うんっ!」

 そう元気に答えたマヤの足どりは昨日とうって変わって、今にも弾みだしそうな

調子であった。

○同日 8時00分 NERV本部 26階 第1開発室

 朝の開発室。

 マヤ、リツコ、青葉の3人の居室となっているこの部屋が朝を迎えるのはいつも

遅い。けれども今日はいつもと違った。

 机の上のディスプレイは青白い光を発しているし、床の上にはプリントアウトさ

れたデータシートの帯が散乱しているというもの凄い状態。

 そんな開発室の机に突っ伏して眠っている白衣の女性。

 結局、泊まってしまったらしい赤木リツコ女史である。

 肩に掛けられているベージュの毛布が彼女が寝息をつく度に小さく揺れる。

 そこから少し離れた青葉の机上には、マニュアルが山のように積み上げられ、そ

の隣にあるマシンのディスプレイでは、数字だらけのデータがスクロールしている。

 ふと目を覚ましたリツコはゆっくりと顔を上げて、惚けた頭で壁の時計を見た。

「んんっ……と……8時か……。あら……?」

 肩口にかけられた毛布に気付いたリツコはくるりと辺りを見回したが、一緒に仕

事をしていたはずの男の姿は室内になかった。

「何処に行ったのかしら……」

 そうつぶやいてから、リツコは大量のデータがスクロールしているディスプレイ

にようやく気付いた。

 丁寧に毛布を折りたたんでから椅子の上に置き、ディスプレイに近づくと、リツ

コは机の角に手を突っ張って、覗き込むようにその画面に目を凝らした。

「こ、これは……」

 それは紛れもなく、エヴァ三号機の制御システムのシュミレーション結果を示す

データであった……。

「確かに三号機の制御システムプログラムのシュミレーションデータね……」

 と同時に扉が開いて、マヤと青葉が入ってくる。

「おはようございます、赤木先輩。珍しいですね……こんな時間にもう来てるなん

 て……」

「おはよう……」

 じっとディスプレイを見つめたままで答えるリツコ。

「この様子じゃ、また泊まったんじゃないですか?」

 床上の有り様や椅子の上にたたまれた毛布を見ながら青葉が言う。

 マヤは、食い入るように画面を見つめるリツコを不思議に思いながら、リツコの

背後に近づいて同じようにディスプレイを覗き込んだ。

「何です?これ?」

「三号機の制御システムプログラムのシュミレーションデータよ……」

「ええっ! それって先週、仕様書が届いたばかりで、まだ何も手を着けてなかっ

 たはずじゃ……。まさか、センパイが作ったんですか?」

 そのマヤの声に、床の上のデーターシートを片づけていた青葉が、慌ててディス

プレイを覗き込んだ。

「私じゃないわ……」

「凄い…しっかり、正常な動作のシュミレート結果が出ている……この調子だと、

 すぐにも一号機並みの実験に取りかかれるじゃないですか……」

「でも、誰が……」

 驚いたように顔を見合わせる青葉とマヤを横目で見て楽しそうに笑うと、リツコ

はまた画面に視線を戻した。

 すると突然、勢いよく扉が開いた。驚いた3人が一斉に振り返ると、長門タクミ

が大きな紙袋を抱えて部屋に入ってくる所だった。

「あ、おはようございます。そちらのお二人は、ここの方ですか?」

 タクミはそう言いながら、袋の中からパンだの缶詰のおにぎりだの栄養ドリンク

だのを取り出すと、いきなりそれを食べ始めた。そのあまりにも凄すぎる食欲に、

3人は言葉を失い、唖然と彼を見つめた。

「……毛布、あなたが掛けてくれたんでしょ。ありがと」

 一番先に我に返ったリツコがアンパンにかぶりつくタクミに言う。

「いえいえ、こちらこそ、無理に付き合わせてすみませんでした」

 タクミが申し訳なさそうに笑うと、それまで呆気にとられて見ていたマヤが、デ

ィスプレイを指差しておずおずと尋ねた。

「……もしかして、これを作った人ってこの人……ですか……?」

「そうよ……しかも、一晩でね……」

「一晩!?」

 ただの食欲魔人と化したタクミをマヤと青葉は呆然と見つめた。

「この人が…ですか……?」

 青葉はがつがつとパンにかじりつくタクミをしげしげと見つめる。

「しかし、何なの? その節操のない食欲は?」

 7個目のアンパンにかじりつくタクミを呆れたように見ながらリツコが言った。

「あのれすね……徹夜れ仕事すると……おなかが減るんれすよ……」

 口に物をほおばったまま答えたタクミは、ごきゅごきゅと美味しそうにコーヒー

牛乳を飲み干した。

「で、これはもう完成したの?」

「ええ……。大丈夫ですよ。今、チェックのためにシミュレーションにかけてるト

 コです。何かまずい所があれば、インフォメーションボックスが出ますから、そ

 れに習って修正してくれればオーケーです」

 今度は食後のデザートとばかりに栄養ドリンクを飲みながら、タクミが言う。

「分かったわ」

 タクミは椅子から立ち上がると、椅子に無造作に掛けられていた上着を肩に引っ

かけた。

「それじゃ、僕は研修があるので行きます」

 じっとディスプレイを見つめていたリツコがゆっくりと顔を上げる。

「行かなくていいわ……」

「は?」

「結果も聞かずに行く気なの? 合格よ……まさか一晩でやるとは思ってもみなか

 ったけどね……」

 青葉とマヤは何が何だか話のスジがつかめていないようで、お互いに顔を見合わ

せては首を捻っている。

「あの〜赤木先輩……? “合格”って何の話ですか?」

「詳しい事は後で話すわ。とにかく、今日から彼はここのスタッフよ。とりあえず、

 自己紹介だけしてくれる?」

「長門タクミ、25歳です。よろしく!」

 そう言ってタクミはマヤと日向に向かって、子供のような瞳をらんらんと輝かせ

て、元気に頭を下げた。狐につままれたような顔で、頭を下げるマヤと青葉。

「よ、よろしく……」

「さ〜て、忙しくなるわよ。今日、三号機の1回目の起動試験をやるわ。二人とも

 そのつもりでね」

「は、はいっ!」

 まだ少し戸惑いながらも、青葉とマヤは返事を返す。

 リツコは椅子から立ち上がると、電話の受話器を取り、ボタンをリズミカルに数

度プッシュした。

「人事? 赤木だけど、中途採用の長門タクミ君はウチで面倒をみるからよろしく。

 それから、例の三号機のパイロット候補者を呼んでくれる?……そう、実験時刻

 は今日の13時。それまでによろしく。それじゃ」

 そう言って電話を切ったリツコの表情は、満足げな笑みで溢れていた……。

○同日 午前8時18分 葛城ミサト邸

 台所のテーブルの脇の空っぽの器の前で悲しそうに立ち尽くしているペンペン。

 寝ぼけ眼のミサトがタンクトップにショートパンツという悩ましい格好で、台所

に入ってくる。冷蔵庫を開けて、ビールを取り出し、プルタブを引いて一口飲むと

彼女は壁の時計を見上げた。

「あ〜ら、こんな時間かあ〜……ま、いいや…。10時までに行けばいいし……」

 ミサトはテーブルの椅子に胡座をかいて座ると、ぼけ〜っと天井を見上げた。

 そんなご主人様の様子に、朝食が期待できそうにないのを悟ったかわいそうなペ

ンペンは寂しくねぐらへと戻っていった。

 そこへオレンジのキュロットスカートに薄いイエローのブラウス姿のアスカが台

所へ入ってくる。

「起きるの遅いわよミサト! 昨日、何時に帰って来たか知らないけどさ!」

「……アスカ、こんな時間にここにいていいの? 今日は学校でしょ。サボリは許

 さないわよ! これでも一応、私、あんたの保護者って事になってるんだから」

 アスカは、それを無視すると、食器棚を漁って、皿を数枚セレクトすると、テー

ブルに置き、朝食の支度を始めた。

「サボリじゃないわよ! 本部から「出てこい」って電話があったのよ!三号機の

 試験をするんだって。せっかく制服に着替えてたのに、もっと前もって言って欲

 しいわ!」

「そっか……あれね……」

 まだ、惚けた顔のまんまミサトはビールを一口飲んだ。アスカはポンッとトース

トをオーブンに放りこむと冷蔵庫を開けた。

「だから、学校にはミサトから電話しておいてね」

「はいはい……」

 ビールの缶の縁を口でくわえたまま、ミサトは答える。

「で、何時に帰ってきたのよ。電話してこないなんて、ミサトにしては珍しいじゃ

 ない」

 ミサト、キッチンに向かうアスカの後ろ姿に拝むように手を合わせる。

「ごっめ〜ん。昨日はちょっち連絡し損ねちゃってさ。帰ってきたのは今朝の3時

 ……」

「ま〜た、加持さんでしょ」

 半分呆れたような口調でアスカは言う。

「あ〜ら、妬ける?」

「別に妬いてなんかないわよ。好きにすればいいじゃない……。次はちゃんと連絡

 してよね!」

「ごめんなさ〜い」

 ミサトはビールの縁を口にくわえたまま、アスカに手を合わせた。

「その罰として、今朝はしっかりと夕食の残り、片づけてもらうからね!」

「え〜っ! 昨日の残り〜っ!」

「仕方ないでしょ! 余っちゃったんだから……」

 一方、トーストの香ばしいにおいに朝食にありつけそうな気配を感じて、ねぐら

からペンペンが出てくる。ようやくミサトがそれに気付く。

「アスカ〜、こいつの朝御飯もお願いね〜」

「パンと魚肉ソーセージしかないわよ」

「それでいいわ……」

 アスカはペンペンの皿に焼いたトーストと魚肉ソーセージをのせると、それをど

んっとペンペンの目の前に置いた。がっくりと肩を落とすペンペン。遠い目をする。

 そのまぶたの裏には、いつも焼き魚を用意してくれていた少年の顔が浮かんでい

るのだろうか……。

 アスカはフライパンにハムを載せると、卵を2つ割った。そしてしばらくフライ

パンを熱すると、それをてきぱきと皿に取り分け、冷蔵庫から昨日の夕食の残り物

のサラダを取り出す。そして、粉末コーンスープの入ったカップにお湯を注ぎ、ミ

サトの向かいに座った。

「こういうのもいいけど、私、シンちゃんのお味噌汁が飲みた〜い」

 テーブルの料理を見回して、駄々をこねるミサト。

「仕方ないじゃない。シンジはもういないんだし、私は和食はてんで駄目なんだか

 ら……。なんならミサトが作れば!」

 それを冷たい目で見るアスカ。

「私に料理させようっての?」

 アスカの脳裏をよぎるミサトのスペシャル料理の数々……。アスカは何度食べて

も、好きにはなれない……。

「しなくていいわよ! でも、仕方ないでしょ! シンジはもうここにはいないん

 だから!」

「追い出したのはアスカのくせに……」

 ビールを飲みながら、ぼそっとミサトが呟く。

「うっるさいわね〜!シンジが出て行くって言ったんでしょ!」

 机をバンと叩いて怒鳴るアスカ。

「そう仕向けたのは、あんたでしょ〜が……」

 ビールの最後の一口を一気に飲み干すミサト。

「うるさいわね!」

「シンちゃんの事になるとすぐムキになるんだから……」

 悪戯っぽい口調で言いながらミサトがニヤッと楽しそうに笑う。それを見て、ア

スカはまたミサトの口車に乗りそうになっているのに気付いた。

‥ いけない、いけない……また、ミサトのペースに乗るところだった ‥

 要はミサトはアスカの怒った顔を見るのが好きなだけなのだ。

「文句言わずにさっさと食べなさいよ! それとも食べないの!?」

「食べるわよ〜」

 ミサトは目の前の目玉焼きに取りかかった。

「ミサト、9時過ぎには出るんでしょ」

「んっ? そうねえ……」

「じゃ、私も車に乗せていってよね」

「はいはい」

 トーストをくわえたまま答えるミサト。

 そんなふたりの足元で、静かに器用にトーストと魚肉ソーセージをたいらげたペ

ンペンが寂しげにねぐらに帰っていく。

 その後ろ姿が少しせつない……。

○同日 8時20分 NERV本部22階 作戦指揮部第1課居室脇 休憩室

 大概の人間が10時出所という不規則な第1課の悪しき慣例のため、フロアーに

人はまばらで、休憩室にもNERVの制服に身を包んだミサコが寂しげに座っているだ

けである。

 そこに朝からずっとミサコを探していた日向が現れた。ミサコは通路側に背を向

けて座っているので、日向の気配に気付かない。

 日向はゆっくりと深呼吸してから、ミサコの座っているソファに近寄ると、ソフ

ァ越しに背中合わせに立った。ミサコは日向に気が付いたようだっが、何も言わず

そのままの体勢で座っている。

「……ここに……いたんですね……」

「課長席って、なんだか落ちつかなくてね……」

 ミサコは苦笑いを浮かべた。

「……あれからすっと考えたんです……。僕と……ミサコさんの事……」

 ミサコは驚いたように、うつむいていた顔を上げた。

「ミサコさんの言った通り、昨日、僕はミサコさんと会えたことに浮かれて、彼女

 の事を忘れていたんです……。確かに彼女は大切な人です……ミサコさんへの想

 いを一度は断ち切らせてくれた、かけがいのない女性ですから……」

 ミサコは黙って日向の言葉を聞いている。

「でも……昨日の夜ミサコさんに言った言葉にも嘘はありません…。もう逢えない

 と思っていた貴女に逢えて、4年前の想いが舞い戻って来たのも確かなんです。

 ……だから……待とうかと思うんです……」

 休憩室の窓ガラスに映る日向の後ろ姿を、ミサコはじっと見つめていた。

「今の僕には、どちらかを選ぶなんて事は出来ません…。昔、ミサコさんは僕に言

 いましたよね……「どっちの方が」って言っているうちは本当の恋じゃない、っ

 て……」

「……覚えてるわ。マコトがフランスに来たばかりの頃ね……」

 ミサコはふと、出会ったばかりの頃の日向の姿を思い出して、微かに笑った。

「だから……どちらかを忘れられるくらいにもう一人の人を愛せるまで…自分の気

 持ちがはっきりするまで……待とうかと思うんです……」

「……その時には、もう手遅れかもしれないわよ。他に好きな人がいるかも?」

 悪戯っぽい口調でミサコが言う。

「それでも構いません……自分の気持ちははっきりしてるんですから、意地でも自  分のモノにしてみせます」

 その力強い日向の言葉に、ミサコは嬉しそうに微笑んだ。

「やっぱり変わったわ……マコト……。昔はそんな事言えるコじゃなかったのに」

「だから…それまで上司として、昔からの知り合いとして付き合って欲しいんで

 す……。自分本位なお願いなのは分かってます……」

 居室との境の磨りガラスに映る自分の姿を見つめる日向。

「分かったわ……。それがマコトの出した答えなら、私もそれに従うわ……。あな

 たへの想いをそっと胸にしまって……ね」

 顔に優しい笑みを浮かべながら、ミサコは優しく囁く。

「ありがとうございます……」

 そこへ第1課へ行こうとしていたマヤが休憩室前の廊下に現れた。

「日向君!?」

 日向の背後のミサコには気が付いていなかったようで、彼女の姿を見つけた後、

マヤの表情は一気に曇った。

「やあ、伊吹さん」

 軽く右手をあげて応える日向に、ミサコはクスッと微笑んで、ソファからゆっく

りと立ち上がった。

「日向君、あと5分で始業よ。遅れないでね」

「はい、松前課長」

 ミサコはうなづくとマヤに軽く頭を下げて、居室へと戻っていった。

「何か用かな?」

 微笑みながら日向が尋ねると、ミサコの背を目で追っていたマヤは慌てた様子で

日向の方を見た。

「あ……あのね……今日の夜、食事に付き合ってくれないかな? 話したいことも

 あるし……」

「いいよ」

「じゃあ、6時にここで待ってる」

 マヤは微笑みを浮かべると、くるっと振り返って開発室へと帰っていった。

 その後ろ姿を見送る日向は、マヤがミサコとの仲に感づき始めていることなど思

いもしていなかった……。

                                (つづく)



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