『お役に立ちたい』

作:俊弥



○プロローグ

 いつもの朝。いつもの開発室。伊吹マヤは、青葉シゲルと何気ない会話を交わしていた。
「風邪が流行ってるんだってね。マヤちゃんも気をつけなくちゃ」
「私は大丈夫よ。……それにしてもセンパイ、遅いなあ……」
 そう言って、マヤは部屋の中央の席に視線を移した。いつもは、この時刻にはそこにいるはずの白衣の女性の姿がない。……突然、開発室の電話が鳴ってマヤが受話器を取る。
「あっ? センパイっ」
 マヤは背を向けて電話に応対しているため、青葉は彼女の表情を伺い知ることが出来ない。突然、受話器を置いたかと思うと、マヤはダッシュで駆け出した。
「ちょ、ちょっとマヤちゃん! どこに行くんだい?」
「青葉君っ! 私、今日有給ね。あとは、よろしくお願い」
 バタンと無情にも閉まる扉。
「……よろしく、って……今日、起動試験あるんだけど……」
 ひゅううううう……と、密室のはずの開発室に冷たい風が吹いた。

「おはよう、伊吹さん。朝から元気だね」
 すさまじい勢いで駆けてゆくマヤに、日向は声を掛けた。3メートルほど行きすぎて、マヤが止まった。表情からはかなりの動揺が伺い知れる。ただ事ではないことが起こったのだと、日向は察知した。
‥新手の来襲か? それとも、またMAGIがトラブったか? ‥
 彼女が動揺しそうなことを、いろいろ頭で考えてみる。しかし−
「どうしよう、日向君っ。センパイが死んじゃう!」
 瞳をうるうると潤ませて、マヤは日向を見上げた。……が、それも一瞬、たちどころに、彼女は風を巻き起こしてその場を去っていった。
「……え?」
 長い廊下に、日向がただひとり取り残された。

「こらっ、そこっ! 廊下は走っちゃダメって書いてあるでしょうが」
 けたたましく廊下を駆けていく人影を見かけた葛城ミサトが叫ぶ。キキキッと音を立てて、『彼女』は立ち止まった。
「マヤじゃない? どうしたのよ!」
「センパイが大変なんですう! じゃ、そういうことで……失礼しますっ!」
「……え?」
 マヤはダダッと駆け出していった。と思ったら、急にスピンターンをかけ、こっちに向かってくる。ミサトの背筋に緊張が走った。マヤが神妙な顔でミサトを見上げる。
「……あの……ところで、センパイの家って……どこですか?」
 ミサトは豪快にコケた。

○『お役に立ちたい』
 「ふ〜ん……インフルエンザでも死んじゃうことがあるのね〜」
 6畳くらいの広々とした空間。ベッドの上に横になったリツコは、なにげにテレビの青白い画面を見つめていた。インフルエンザでも、確かに死ぬこともある……でもそれは耐久力の弱い赤ん坊や老人の話だ。「それにしても……人様の働いている時間に、こうしてごろ〜んと横になって、テレビを見ているなんて、結構いい気分ね。……これで、風邪を引いてなければ最高なんだけれど……」
 ケホケホとせき込みながら、リツコはリモコンでテレビのチャンネルを変えた。瞬間、ガンガンと玄関の扉を叩く音がする。
「何事かしら……? 新聞の勧誘にしては、無神経すぎるわね」
 リツコはカーディガンを羽織って、ベッドから立ち上がった。玄関の前にたどり着いても、相変わらず、ガンガンとやかましい音がする。
「センパイっ!」
 扉を叩く音に混じって、聞き慣れた女の声が聞こえた。思わず耳を疑う。
「センパイ、死んじゃヤだ」
「……え?」
 リツコは鍵を解除し、扉を開ける。次の瞬間、マヤが首根っこに飛びついてきた。
「マヤ? ……仕事はどうしたのよ?」
 その質問には答えず、マヤはリツコにしがみついたまま、ただひたすらに、泣き叫んでいた。
「センパイ、死んじゃヤだっ!」
 さすがにリツコも困ったようで、玄関の扉を閉めると、よしよしとマヤの頭を撫でた。
「さっきから、ずっとそれ言ってるけど、私はただのインフルエンザよ。死ぬわけがないでしょう?」
 上司想いの部下の顔を見下ろしながら、リツコはやさしく囁く。しかし……
「だって、老人ホームとかで、たくさん亡くなった方がいるって聞いたから、センパイも結構…………だから……だから……」
 頭を撫でていたリツコの手の動きが止まり、やがてそれは握り拳に変わった。
「……だから……何よ……!」
‥結構、歳だ、って言いたいワケ……?! ‥
 辛うじて、やさしい口調で尋ねたが、表情はかなり恐い。
「センパイ、死んじゃヤダ……うわ〜ん……」
 相変わらず、マヤは泣き続けている。リツコは仕方ないわね、と言わんばかりに微笑むと、拳を下ろしてマヤをしっかりと抱きしめた。

 数分後。ふたりは寝室にいた。
「……いい加減に泣きやんだらどう……? 大したことないって分かったんだし……」
 困ったような嬉しいような、複雑な表情でリツコは言った。
「……だって……だって……」
 ベッドの傍らのグリーンのカーペットに座り込んで、マヤは泣きじゃくっていた。まるで、迷子になった子供のように……。生活感あふれる室内の雰囲気に、マヤの着ている無機質なブルー地のネルフの制服が、妙にアンバランスに映る。
「あのねえ……」
 木製のシンプルなベッドの上に、白のパジャマ姿のリツコが上半身を起こした体勢で苦笑いを浮かべた。
「……心配して飛んできてくれたのは嬉しいけど、仕事中でしょ」
マヤはベッドのそばに歩み寄り、ひしとリツコの手を取った。
「なにかお役に立ちたいんです。センパイにはいつもお世話になってるから」
 キラキラとした目でリツコを見るマヤ。こうまで言われて、足蹴に出来るリツコではない。でも、マヤの今までの行動を思い出すと、どうしてもそれを受け入れるわけにはいかなかった。
‥このコに関わると……ロクな事にならないのは目に見えているしね ‥
 ふと心の中で苦笑いする。
「……あなたの気持ちは嬉しいわ。でもね……」
 そう切り出した瞬間−

『キラ〜ン』
 マヤはベッドの脇に無造作に脱ぎ捨てられている衣類に気がついた。
「センパイっ、いつから洗濯してないんですか?」
 つたたたたっと衣類のそばに駆け寄る。
「……えっ? ……倒れたのが一昨日だから、それからかしら……?」
「へへっ……私が洗って上げますっ」
 んんしょっ、と嬉しそうに洗濯モノを抱えて立ち上がるマヤ。
「わ〜っ……センパイの匂いがするう」
 マヤは、なんだか妙に嬉しそうだ。おかげでリツコは完全にペースを乱されてしまった。
「だからね、その……」
 リツコが断りの言葉を考えている間に、マヤは大量の洗濯物を抱えて、バスルームに消えた。リツコは呆気にとられた顔でその背中を見送った。
『せんたくも〜の、せんたくも〜の……センパイのせんたくも〜の』
 やがて、部屋の向こうからマヤの嬉しそうな鼻歌が聞こえてくると、リツコはふと首を竦め、クスッと微笑った。
 ……しかし、それを後悔するまでに時間は必要としなかった。ものの10分後、リツコの部屋に悲鳴が轟いたからだ。
「キャーッ。センパイ〜っ! 泡が、泡がああ!」
 リツコはハッとして、寝室を飛び出した。
‥また、何かやったわね! ‥
 しかし、寝室のドアを開けた瞬間−泡。あわ。アワ。
 至るトコロが泡だらけ。
 なんとか這いつくばりながら、ようやくバスルームにたどり着くと、マヤが洗剤の箱を持ったまま、愕然と立ち尽くしていた。
 マヤはリツコの顔を見ると『てへっ』とばかりに笑って、ペロッと舌を出した。
「センパ〜イ。どうしましょう……」
 先週開けたばかりの洗剤の中身は、案の定空っぽだった……。
 リツコはがくんと首をうなだれて、大きくため息をついた。

「なんだか廊下まで綺麗になっちゃいましたね……てへっ」
‥“てへっ”じゃないでしょう……“てへっ”じゃ。まあ、他の部屋に迷惑を掛けなかっただけでも、よしとしなくちゃね‥
 リツコは視界に映る廊下を見渡した。ワックスをかけたかのようにピカピカの廊下……今さっきまで、大掃除の最中だったのだ。動いたせいか、リツコの身体は燃えるように熱い。
「……私、てっきり一箱で一回分だと思ってましたあ」
 マヤは無邪気に、てへっと笑う。
「私って、クリーニング屋さんのお世話になってばかりですしい〜」
‥じゃ、洗濯するって言わないでよね…… ‥
 リツコは、はあ……と大きくため息をついた。
「これに懲りて、さっさと仕事場に帰りなさい……。青葉君が待ってるわよ」

『キラ〜ン』
 聞いていたのかいないのか、マヤの視線は、リツコの肩越しに見えるバスルーム。また、何やら思いついたらしい。スタスタと部屋を出ていってしまった。
「ちょ、ちょっとマヤ! っもう……どこにいったのかしら。ま、いいか」
 リツコは大して気にもとめずに、手元の本を読み始めた。
「んっ?」
 人の気配に気がついて、ふと目を上げると、マヤが洗面器を持って、慎重な足どりでこちらに近づいてきている所だった。洗面器からはもくもくと湯気が立っている。
「センパイっ! 私がカラダを拭いてあげますっ」
「い、いいわよ……そんなコトしてくれなくたって」
‥マヤって、気だけは利くのよねえ……いつも空回りしてばかりだけど ‥
 手元のハードカバーの本を閉じながら、リツコは思う。
「でもセンパイ。ずっとお風呂に入ってないんでしょう?」
「それは……そうだけど……」
「嫌われちゃいますよ。それに私だって、万が一……ってことになったら、私だって嫌ですう……。でも、センパイだったら……キャッ、言っちゃった」
 リツコはこめかみを押さえた。
 妄想癖の部下を持つと非常に疲れるらしい。
「……分かったわ……ゆっくりこっちにいらっしゃい。マヤは慌てっぽいからこぼさないように気を付けてね」
 この言葉の中には「失敗するのはいいけれど、他人に迷惑はかけないでね」という意味が含まれている。当然、当人のマヤは気づいちゃいないが……。
「心配しなくても大丈夫ですよお……あっ!?」

『スッテ〜ン』


 言った口の下、カーペットに足を滑らせて、マヤは前のめりに転んだ。
「イタタタタ……どうして私、こんなに転びやすいんだろ……あっ!?」
 顔を上げたマヤの視界に入ってきたものは、諦めたように自分を見ているずぶ濡れのリツコの姿であった……。

「さんざんな目に遭いましたねえ……センパイっ?」
 マヤはベランダの方を眺めながら、のほほんと言った。ベランダにリツコの布団が1セット、でーんと干してある。その脇には、ついさっきまでリツコが着ていた白のパジャマ。
「……さ、寒い……」
 幸い無事だったマットレスの上に、リツコはタオルケットを身体に巻いて座っている。ある程度の覚悟はあった上、予想できた有り様だけに、大してダメージはないようだ。でも、唇がほんの少し青ざめているのが……痛ましい。
「……さんざんな目に遭わせたのは、誰だと思ってるのよ……」
 怒鳴り散らしたい気持ちを押さえ込みながら、あくまで優しい口調でリツコは言った。

『キラ〜ン』

聞いているのかいないのか、マヤの視線は今度は台所の方に向けられている。また、なにかひらめいたらしい。
「私、センパイの為にお粥作りますっ!」
 握りこぶしを作り、燃え盛った目で語るマヤ。
「……いいわよ……もう、何もしなくて」
 無気力に壁を見ながら、疲れ切った声でリツコが言う。
「“何もしなくていい。そばにいるだけでいい”とおっしゃるんですね……センパイがそこまで私を想っていてくれたなんて、感激ですう……」
 うるうると瞳を潤ませるマヤ。
「……だから……そうじゃなくて……」
 半ばあきらめ顔のリツコは、気のないため息を一つついた。
「でも、私……センパイのために何かしてあげたいんですう」
‥このコが扱いにくいのは悪気全然ない、ってトコなのよねえ‥
 知り合ってもう結構な時間が経つが、どんなことをされても、彼女を憎めないのは、この天然なボケぶりと、あくまでマイペースな姿勢のおかげなのかもしれない。
「センパイはそんなに私がメイワクですか……」
 リツコが何も言ってくれないので、マヤはすがるような目でリツコを見た。
「……い、いえ……そ、そういうわけじゃないんだけどね」
「そうですかっ……よかった」
‥全然、よかないわよ。さすがにこれ以上居座られたら、何をされるか分かったものじゃないわ ‥
 リツコの脳裏に浮かぶ、悲劇の数々。
‥しかしまあ、とりあえずは、帰ってもらうのが先決ね ‥
 リツコのコンピュータは一つの結論を導きだした。
「……分かったわ……いただくわ。だから、それが終わったら、おとなしく帰ること。ミサトも心配するだろうしね」
「はいっ! 分かりました」
 2度あることは3度ある……リツコの脳裏にこんな言葉がふとよぎった。
 そして、哀しくもその不安は的中するのだ……。

○エピローグ
 翌日の午前中。白衣姿のリツコが開発室の椅子に座って書類に目を通していると、目の前の電話がリーンと鳴った。
「はい。ネルフ開発室ですが……」
『ひ〜ん……センパ〜イ……ぐす……』
 枯れ気味のマヤの声が受話器から聞こえてくる。
「あら、マヤじゃない。どうしたの? 電車でも遅れたの?」
『……それが……風邪ひいちゃったみたいなんですう……ぐす……』
 リツコはクスッと笑った。
「……そう……それは可哀想ね。私は直ったわ……誰かさんのおかげかしら? まあ、直るまで安静にしている事ね」
『ひ〜ん……辛いですう……。せっかくセンパイが治ったのにい〜……』
「お大事にね……」
 リツコは笑いをこらえながら電話を切った。ちょうど、日向が開発室に入ってくる。
 日向は持ってきた書類をリツコの机上に置くとリツコに尋ねた。
「赤木博士、お体の調子はいかがですか?」
「まあまあといったトコロかしら……? 昨日、ちょっと身体を動かしたせいで、大分良くなったわ」
「……一体、何してたんですか?」
「フフッ……内緒よ」
「はあ……」
 日向は不思議そうに首を傾げた。
「それはそうと、マヤが風邪引いたらしいわよ。お見舞い、行ってあげれば?」
「ど、どうして僕が……?」
 日向の表情には、わずかながら動揺が伺いしれる。
「あ〜ら、正直じゃないわねえ……」
「……そ、その……し、失礼します……」
 日向は顔を赤く染めて、足早に開発室を出ていった。
「フフフ……カワイイわね……」
 日向の持ってきた書類の束をぱらぱらとめくりながら、リツコは悪戯っぽく微笑む。そして、少しだけ考え込んだ後、白衣のポケットから手帳を取り出すと、ぱらぱらとページをめくった。午後の予定欄のワケの分からない会議に大きく横線を引く。そして、勢いよく受話器を上げると、リズミカルにボタンを押した。
「……ミサト? ちょうどよかったわ。午後の例の会議、代理出席よろしくね」
『ちょ、ちょっと! なんで私が?』
 リツコはクスッと微笑う。
「マヤに私のマンションを教えた罰よ」
 問答無用とばかりにがちゃんと受話器を置くと、リツコは立ち上がって、在席表示を『出張・NR』に切り替えた。そしてクスッと微笑うと、白衣を椅子の上に引っかけ、開発室を出て行った。
 センパイ想いの後輩が大喜びで飛びついてくる姿を思い浮かべながら……。

『お役に立ちたい』(完)




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Copyright Toshiya 1997