作:俊弥
○『プロローグ』
ある冬の日の朝。ネルフ副司令・冬月コウゾウは、オフホワイトのロングコート姿で、ネルフ本部へ向かう地下鉄の駅へと急いでいた。冷たい風が、かさついた頬をかすめてゆく。今日はこの冬一番の冷え込みだと、朝のニュースで言っていたのを冬月は思い出した。そういえば、長年連れ合ってきた友人の碇ゲンドウの息子であるシンジは、今日、大学受験のはずである。その他のパイロット達も、今日は各々受験のはずであった。数日前から何かと落ちつかない様子のゲンドウを、冬月は内心笑いをかみ殺しながら眺めていたが、ふとうらやましい気持ちが心の中をよぎったのも事実だった。
……そう、彼には妻も、子供もいなかったからだ……。
いつの間にか歳をとっていた……そう言うと言い訳に聞こえるかもしれないが、4年前までの一連の騒動が収まり、一息ついたときには、もういい歳になってしまっていた。後悔はしないが、想像はする。自分に息子か娘がいれば、自分の下で働く伊吹マヤくらいの年齢だろうか……。悠々自適のひとり暮らしも、考える時間や自由な時間が増えるぶん、人恋しくなるものであった。冬月はとある保育園の前に差し掛かった。門の所に『ゆうなぎ保育園』と書かれている。中には青い屋根の真っ白な壁が印象的な建物が建っていた。駅への最短ルートから少し逸れるが、この保育園の前を通るのが、冬月の毎日の日課だった。塀越しに子供達のはしゃぐ声が聞こえる。冬月はふと笑みを浮かべた。歩くスピードが自然とゆっくりになる。
『や〜い! 待てぇ〜!』
『や〜だよ』
無邪気な男の子の声が背後から近づいてきた。
『このおっ!』
『あっ!』
‥ぐしゃっ…… ‥
水の入った風船のようなやわらかな、鈍い感触が冬月の背中を襲った。
『あ〜ぁ……』
追っかけられていた男の子が、一変して、無責任な口調で言った。
『どうするんだよ……知らないぞ〜……』
その声は次第に遠ざかっていった。背中がじんわりと冷たい。冬月は自分の背中の惨状を思い描いた。恐らく、子供が放り投げた水風船の水でぐっしょりなのだろう……。でも、不思議と腹は立たなかった。冬月はコートを脱ぐと、背中の部分を見た。案の定、水でぐっしょりだ。ふと足下に視線を下ろすと、真っ赤なほっぺの男の子が一人、泣き出しそうな顔でうつむいているのが見えた。冬月は笑顔を浮かべると、少年の顔を覗き込んだ。
「さっきまでの元気はどうしたんだ? 気にしなくていい。服はすぐに乾くからな。しかし……人がいるところで投げるのは、ちょっと感心せんな」
そう言って、冬月は男の子の頭をくしゃくしゃっと撫でた。男の子の顔に少しだけ笑顔が戻った。
『タケルく〜ん。どうしたの〜?』
保育園の門の方から、やさしくて、やわらかな女性の声が聞こえた。その声に、冬月の足下の男の子・タケルの顔はパッと晴れ上がった。冬月は声の方に振り返る。20代前半くらいの歳の頃の、長い髪とぱっちりとした瞳が印象的な女性が駆け寄って来ていた。黒のトレーナーにジーンズ姿であるところを見ると、この保育園の保母らしい事が伺いしれた。彼女は冬月を見ると、ぺこりと会釈をした。
「せんせ〜っ」
タケルが彼女の足にしがみついた。
「どうしたの?」
そう言ってタケルの頭を撫でながら、彼女は冬月が手に持ったコートが濡れているのに気付いた。
「あの……それ、もしかして、タケル君が……?」
冬月は答える代わりに、にっこりと微笑んでうなづいた。
「……元気が有り余って、コントロールが狂ったらしい」
彼女はハッとした表情を浮かべると、足元に視線をやった。タケルは彼女の足の裏に隠れるようにしながら、うつむいた。
「すみませんっ。……タケル君、あれほど外で投げちゃダメって言ったでしょ。約束が守れないコは、センセイは嫌いだな」
タケルは悲しそうな表情を浮かべた。
「……だってアキトが……」
「アキト君は関係ないでしょ。あなたが約束を守っていれば、こうはならなかったでしょう。違う?」
彼女はそう言って屈みこむと、タケルの顔を覗き込んだ。その様子を見つめながら、冬月はなぜかやさしい気持ちになってしまった。それは、彼女のやさしげで、せいいっぱいな姿のせいかもしれない。
「……もうしないよ……」
タケルがそう答えると、彼女はニッコリと笑った。
「じゃ、おじさんに謝って……。ごめんなさい、って」
あくまでやさしく、言い聞かせるような口調で彼女は言う。
「……ごめんなさい……」
タケルは少しオドオドしながら冬月を見上げると、申し訳なさそうに言った。
「ああ、気にしなくていい」
そう言って冬月は笑った。その横顔を彼女はじっと取り憑かれたように見つめていたが、ふと我に返ると、冬月のコートに手をかけた。
「すみません。すぐに乾かしますから」
「大丈夫だ。水だから放っておけば乾く」
「そうはいきません。私が園長先生に叱られますから」
彼女は真っ直ぐに冬月を見つめながら言った。
‥綺麗な目をしているのだな…… ‥
彼女のその目を見ていると、冬月はなんだか断れなくなってしまった。
「……じゃ……お願いするよ。その代わり、電話を貸してくれないかな。勤め先に連絡しておかないといけないのでね」
彼女はコートを二つ折りにして腕に引っかけると、冬月を門の方へと促した。
「は、はい。では、こちらにどうぞ」
彼女の案内に従って、冬月は保育園の中へと歩みを進める。冬月は彼女の胸元に目をやった。チューリップを型どったかわいらしい名札にひらがなで『さいとうはるか』と書かれている。冬月の視線に気づいた彼女が恥ずかしそうに笑った。
「そういえば、名前言ってませんでしたよね。私、斉藤春香っていいます。春の香りと書いて『春香』って呼びます」
春香はそう言って照れくさそうに笑うと、冬月の名前を尋ねるかのように、彼の顔を覗き込んだ。
「……私は……冬月だ」
一瞬名前も言おうかと悩んだ末に、ぶっきらぼうに名字だけを名乗ってから冬月は照れくさそうに顔をそらした。春香はそんな冬月をあたたかい視線で見つめた。
「もしかして、春夏秋冬の『冬』に、あの『月』ですか?」
春香は天を指さしながら言った。
「あぁ……そうだが……」
冬月は「なぜそんな事を聞くのだろう」と思いながら答えた。
「とっても、ロマンチックな名字ですね」
意外な言葉が春香から返ってくる。
「……そういう風に言われたのは初めてだな」
冬月は戸惑いながらも、照れくさそうに笑った。
「私って結構ポピュラーな名字だがら、なんだか憧れてしまいます」
そう言って春香は笑う。笑うと左の口元にだけえくぼが出来る。それがまたなんとも愛らしかった。そうこうしているうちに園内に入ってきた。子供達が興味津々に冬月を取り囲む。そして、皆一斉に冬月の方を見上げた。
『センセー、そのひとセンセーのこいびと?』
青いトレーナーの男の子が冬月を見上げながら、いたずらっぽく言う。
『わ〜っ、はるかセンセイやるぅ』
赤みがかった髪をかわいらしくおさげにした女の子が春香の膝をつつきながら言った。春香の頬がほんの少しだけ赤く染まった。
「センセイをからかうんじゃありません。お客様です」
冬月は春香の気配りに感心して、足元のタケルを見下ろした。タケルはホッとした表情をしている。そんなタケルの背中を、春香はそっと後押しした。
「ほら、まだ始まるまで時間があるから、みんなと遊んでて」
やさしく、そして安心させるようなやさしい口調で春香は言った。タケルは大きくうなづくと、一度冬月の方を見てから、輪の中へと駆けて行った。
『な〜んだ、つまんないの』
『ちぇっ……な〜んだ』
みんな口々につぶやきながらその場を離れてゆき、いつの間にか、冬月の周りに集まっていた子供達はいなくなってしまった。
「近頃のコってすごくマセてるでしょう」
そう言いながらも、なんだか喜んでいるように見える。
「私に男っ気が全然ないから、すぐああやってからかうんですよ」
「それだけ、愛されてるって事ではないのかな……」
「えっ……?」
春香は冬月の方を振り返った。ガラでもない事を言ってしまったと、冬月は照れくさそうに顔を背けた。その横顔を見つていた春香は嬉しそうに笑う。
「……だったら……すごく嬉しいな……。私、あのコ達のそばにいられるのが一番楽しいんです。だから、あのコ達を家に送る時が一番寂しくて……。私……この仕事、大好きですから……」
その言葉を聞いて、冬月はハッとした。
「こちらへどうぞ」
春香からそう声をかけられるまで、冬月はじっと考え込んでいた。
『仕事、大好きですから……』
この一言が、何度も頭の中を往復しては、次第に大きくなっていった……。
○『SCENE1 〜春のあしおと〜』
その翌日の事である。市内の某所に出張に出かけた冬月は、本部へと戻る途中、わざわざ遠回りしてゆうなぎ保育園の前を通った。ふと足を止めて、自分の胸当たりの高さの塀越しに中を覗き込む。
時刻は昼下がりだが、どうやら授業中のようで、庭には誰もいなかった。建物の中から懐かしくなるようなオルガンの響きが聞こえた。冬月がその方向へ視線を移すと、ガラス張りの教室に20人くらいの子供達の輪が出来ている。その中心で、春香が楽しそうにオルガンを弾いているのが見えた。その決して上手とは言えない子供達の歌声に、冬月は耳を傾けた。懸命な子供達の想いが伝わってくるような気がする。
なんだか、懐かしいような心地よいようなそんな気持ちに陥って……冬月は目を閉じると、その歌声に聞き入った。
……もうじきやってくる春を僕らは待っているよ。だから春よ早く来い……そんな内容の歌詞だった。
オルガンを弾きながら、ふと窓の外に目をやった春香は、壁越しにのぞく白髪に気づいた。一目であの感じの良い落ち着いた物腰の男であることが分かった。自然とペダルを踏む足に力が入る。
「ほら、もう一回元気に歌いましょうね。お外まで聞こえるくらいに」
子供達の声が、一段と大きくなった。
冬月は突然大きくなった歌声に少し戸惑いながらも、目を閉じたまま、しばらくその歌声に聞き入っていたのだった……。
○『SCENE2 〜はじまりはいつも雨〜』
冬月が保育園の前の道路の常連になって1週間近くが過ぎたある日のこと。
葛城ミサトと赤木リツコは、ネルフ内で3日後に行われるシンジ達の卒業お祝いパーティーの買い出しに車で出かけていた。日曜日ということもあって、ふたりとも私服である。まあ、ミサトはいつものミニスカートにジャケット姿であるが……。
「やっぱり、お買いものって楽しいですよねっ!」
甲高い無邪気な女の声が後部座席から響く。リツコのかわいい後輩・伊吹マヤである。あこがれのリツコと一緒ということもあってか、後部座席の買い物袋の海に埋もれていても、彼女の機嫌はすこぶるにいい。
「そ、そうね……マヤがいてくれて助かったわ」
ハンドルを握りながら、リツコが答える。助手席のミサトが思わず苦笑いを浮かべた。デパートで買い物をしていたのだが、マヤの天然のかわいさとそのボケぶりで、店員はおまけはしてくれるわ……安くはしてくれるわの大判振る舞い。結局最後には
「全部プレゼントさせていただきますので、お願いですからお引きとり下さい」
と頭をこすりつけて頼まれる始末……。まあ、見境もなく他人を巻き込んで、店を破壊に導いていくのだから手のつけようがないし、おまけに本人に自覚がないのが何よりも問題だ……。
「そう言って下さると嬉しいですっ」
マヤは嬉しそうにニッコリと微笑んだ。
‥ううっ……疲れる〜っ…… ‥
ミサトは心の中で声にならない悲鳴を上げた。
「ミサト……これからどうする?」
「この荷物を本部に置きに行くしかないっしょ?」
「そうね……」
「わ〜い。センパイとドライブぅ〜」
疲れ切った顔のミサトとリツコに対し、マヤは元気なモノである。
「……やっぱり歳の差かしらね……」
ミサトがしみじみとつぶやいた。
「……それは言わない約束でしょ」
運転席のリツコがほんの少しいらただしげに言う。
「あんた、よくいつも付き合ってられるわね」
「慣れよ……慣れ。それ以外のなにものでもないわ……」
耳元に囁いてきたミサトに、リツコはしみじみと答えた。その言葉にはこれまでの数々の苦労がにじみでている。
「あ〜っ!」
後部座席のマヤが甲高い声を上げた。
「今度は何?」
「副司令が女の人と一緒にいますぅ」
「なんですってぇ!」
キキーッと車が音を立てて止まった。ふたりは我が先にとばかりにマヤの指の先を目で追う。少し離れたコンビニの店内に、冬月が見知らぬ女性と話をしているのが見えた。
「見たことのない顔だわ……ネルフの人間じゃないわね」
「どうする尾ける? 一応、道具は一式揃ってるけど」
リツコの顔が真剣だ。しかしリッちゃん……道具って何だ?
「……やめておくわ……」
ミサトは静かにそう言った。
「葛城さんが何もしないって、珍しいですねぇ……。雨でも降るんじゃないですかぁ?」
「……マヤ……ちょっと黙ってなさい……(怒)」
「はーい」
マヤは無邪気に答えて、シートに身体を預けた。
でも、ほんの数分後に大雨になったりするのだ……。
さて、ミサト達の車が走り去る少し前のコンビニエンスストアの店内。
夕食の買い出しにやってきたこのコンビニで、冬月は春香に会った。
一連の挨拶を済ませた後、冬月の買い物カゴを見て、春香はクスッと笑った。
なぜなら、カゴの中は弁当やカップ麺やレトルト食品で一杯だったから。
「ついつい便利で簡単だから、これで済ませてしまうんですよね。私も、時々そうやって手を抜いちゃいますから」
「……いや、まあ……その……」
実は滅多に自炊なんてしない冬月だったりする。
「ここのお店……よくいらっしゃるんですか?」
「仕事の帰りに時々……ほとんど毎日かな」
「私も仕事の帰りに結構来るんですよ。今まで会わなかったのが不思議ですね」
「いつも日が変わる少し前に来るのでね。時間が合わないんじゃないのかな」
「お忙しいんですね」
春香は尊敬のまなざしの混じった視線を冬月に送り、微笑んだ。
「んっ、まあ……」
冬月はほんの少し、言葉を濁した。
「また、保育園の方にお顔を見せて下さい。子供達も喜びますから……」
冬月はほんの少し微笑ってそれに答えた。
「では、私はこれで……」
春香はふと行きかけて、何かを思い立って立ち止まった。そして、くるっと冬月の方を振り返る。
「……夕食、よろしければご一緒にいかがですか? 私、一生懸命作りますからぜひ食べて下さい」
冬月は驚いた顔で春香の顔を見た。
「……だ、だがしかし……だな……」
「私の家、この近くなんです……。こうしてここで会ったのも、何かの縁だと思いますから……」
彼女に真っ直ぐな瞳に見つめられると、やはり嫌とは言えなかった。いや、最初から断るつもりなど、なかったのかもしれない。冬月は苦笑いした……。
大きな買い物袋を提げた春香は店を出ようと、扉に手を掛けた。瞬間、冬月がその買い物袋に手を掛ける。
「私が持とう……」
「ありがとうございます」
冬月は照れくさそうに横を向いた。春香はそんな冬月を見てくすっと微笑むと、店の外へと目をやった。外の様子の変化に気がついて、ぽつりと冬月に話しかける。「……傘持ってらっしゃいます?」
「い、いや……持ってないが……」
瞬間、春香の表情がパッと明るくなった。
「やっぱり、私の家に来なさいって事ですよ」
春香は外を指さした。
「んっ?」
冬月はその指に従って表を見た。
大粒の雨粒がアスファルトに叩きつけられるように降り注いでいる。
「私、傘持ってきてるんです」
そう言って、春香は表に出ると、スカイブルーの傘を勢いよく開いた。雨が傘を叩きつける音がやけに大きく聞こえる。冬月はほんの少しうつむきがちに春香の隣を並んで歩いていた。通り過ぎる人々がすれ違いざまに冬月達の方を見る。それも全部が全部、春香の顔を見てうっとりとしてから、隣の冬月を見て驚きの表情を見せるのだ。まあ、後で、親子だろうと勝手に納得しているのだろうが……。
‥ しかしこの歳で相合い傘というのも恥ずかしいものだな……。とてもじゃないが、碇のヤツには見せられん ‥
知った人間に出会わないように胸の中で祈る冬月である。
「それにしても、よく降りますね……」
周りを気にもしていないように、春香は冬月の方を見て微笑った。けれども冬月は照れくさそうに顔を背ける。そんな冬月を、春香は年上の男ながらカワイイと思った。
雨が降るアスファルトの大通りを不思議な組み合わせのカップルが、言葉少なに通り過ぎてゆく。
季節はもうすぐ春……。
そう、冬が春に出会い……春色に染まる季節である……。
『春のあしおと』(了)