女子大生・綾波レイ シリーズ(PART1)

 『ファースト・フライト』


○『プロローグ 〜七瀬 ミオ〜』

 桜咲き誇る4月。

 第3新東京市のとある女子短期大学の周辺は、真新しい洋服に身を包んだ少女たちで賑わっていた。ある者は緊張した面持ちのままひとりで、またある者は陽気に友人達とはしゃぎながら、自然に囲まれたこの大学の構内へと吸い込まれてゆく。そう……今日はこの学校の入学式なのだった。

 そんな中に、蒼銀の髪を軽やかに風に揺らせながら、正門へと向かう真紅の瞳の少女の姿があった。今年で19歳になる、綾波レイである。彼女の同居人である赤木リツコが選んでくれた鮮やかなライトブルーのスーツを身にまとった彼女は、少し照れくさそうな面持ちで春のやわらかな朝の光の中を歩いていた。4年前と比べると、めっきり大人っぽく、そして女らしくなった気がする。どれくらい女らしくなったかというと、ここに来る途中にすれ違った男達の振り返った人数を言えば分かってもらえるかと思う。

 ライトブルーのスーツが、春の光を浴びてまぶしく輝く。

 一月ほど前の事だ。高校の卒業式を終えた週の日曜日、朝食の席で向かい合わせに座っていたリツコがコーヒーをすすりながら、突然こう言った。

「あなたに洋服をプレゼントしたいと思うんだけれど、今日はヒマ……?」
「…………!?」
 驚きのあまり、トーストを口に運びかけた体勢のまま固まってしまったレイに向かって、リツコは言い訳をするかのように、照れくさそうにこう続けた。
「ほ、ほら……合格のお祝い、何もしてなかったでしょ? 何かしてあげなくちゃって思っていたのよ……」 ようやく我に返ったレイは食べかけのトーストを皿に戻した。
 おそらくリツコは、レイのクローゼットの中に入学式に来てゆくような服がないことに気付いていたのだろう……。リツコの心遣いが嬉しかった。
「……で、でも……」
 ただでさえいつも迷惑を掛けているのに、これ以上世話になるのは申し訳ない……そう思った。リツコの申し出は嬉しかったが、レイはその気持ちを押さえて、首を小さく横に振った。
「……気持ちだけで……」
 こんな言葉が出てくるだけでも随分成長したものだとリツコは思う。いつもはレイの気持ちを大切にしてきたリツコだったが、今日ばかりはそれをねじ曲げないわけにはいかなかった。
「……ダ〜メ。今日は何と言おうと絶対付き合ってもらうわよ。せっかく久しぶりに取れた休みなんだしね……一緒にいたいじゃない……」
 リツコが照れくさそうに微笑む。
「……それに……たまには親代わりらしいことをさせて頂戴……」
 その言葉に、レイは驚いて顔を上げた。
 微笑みながら自分を見つめるリツコの顔がそこにあった……。
 そしてレイは結局、リツコにブティックに引っ張られていってしまった。
 リツコとブティックに行くなんて、初めての出来事で最初は戸惑いがちのレイだったが、色とりどりの洋服たちを見ているうちに、時間を忘れてリツコと服選びに熱中したものだ。その時のふたりといったら、まるで本当の姉妹のようで……。レイはあの日の事を今でもはっきりと覚えている。

 眩しいばかりの朝の光を身体に浴びながら、レイは微笑んだ。でも、少し浮かれ加減の自分の気持ちにふと苦笑いを浮かべる。そして、そんな緩んだ気持ちを引き締めるように、レイは奥歯をぎゅっと噛みしめた。
 と、張りつめていたレイの表情が、穏やかなものへと変わった。
 その視線の先には、黒く艶やかでしなやかな髪を肩口で切り揃え、薄いベージュのおとなしめのスーツに身を包んだ少女がレイに向かって、照れくさそうな素振りで申し訳なさそうに小さく右手を振っていた。
 レイが微笑みを浮かべながら彼女に近づくと、彼女は一言――

「おはよう」

 と透明感のある綺麗な声で告げた。だからレイも

「おはよう」

 と彼女に返した。
「いい色ね……綾波さんにとても似合っていると思うわ……」
 彼女がレイの姿を頭の先から爪先へと見下ろしながら、惚れ惚れとしたように言うと、レイの頬はポッとピンク色に染まった。
「……そ、そう……?」
 嬉しそうにレイは答える。すると彼女は微笑みながら、しっかりとうなづいた。
 この色を選んだのはリツコだった。けれどもレイはとても嬉しく感じた。けれど、今のレイにはそれが何故なのか分からなかった。
 知らず知らずのうちにリツコとの間に『家族』という絆が生まれつつあることに彼女はまだ気付いていないらしい……。
「行きましょうか?」
 彼女がそう言ったので、レイは小さくうなづいた。 
 すぐそばの校門を通り抜け、校舎へ向かう並木道へと入る。道の両側には、今がまさに満開と言わんばかりの桜の花が咲き誇っていた。


 仲良く並んで桜並木を通り抜けると、ふたりは受付の係員の女学生に促されて、参加者を記す用紙に名前を書いた。レイはほっそりとした丁寧な字で自分の名前を記し、彼女もまた、丁寧ながらもしっかりとした輪郭の文字で自分の名前を記した。

 『七瀬 ミオ』

 ……と。

「綺麗な字を書くのね」
 受付の係の女学生が感心したように彼女に言った。彼女は恥ずかしそうに微笑みながら、謙遜するように首を小さく横に振った。彼女は、先に書き終わったレイが感心したようにその文字を見つめているのに気がつくと、恥ずかしそうに微笑った。
 七瀬ミオ。レイが彼女と出会ったのは、この短大の受験の時であった。

 初めての出逢い。

 声を掛けてきたのはミオからだった。だけど、レイはその言葉に素直に応える事が出来なかった。当然、レイはその後ひどく後悔した。

 2度目の出逢い。
 声を掛けたのはレイからだった。姿を見かけたら、絶対に声を掛けようと心に決めていた。彼女はかなり驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに笑った。
 声を掛けてよかったとレイは思った。
 そしてふたりは友達になった。レイにとっては、初めて自分から手を差し伸べて作り上げた友達……。どうしてもみんなに紹介したくて、遠慮がちの彼女を半ば強引にお花見の席に連れて行ったりもした……。

 今日、門の前で待ち合わせしようと声を掛けたのはミオからだった。だけど、それにはこんなエピソードがある。

「レイ……電話の前でうろうろしたりして、どうしたの……?」

 つい昨日の夜の事だ。レイが住むマンションに仕事から帰ってきたばかりのリツコは、リビングの電話の前で落ち着かないそぶりで右往左往していたレイに気付いた。
「……えっ……? そ、その……」
「また前みたいに、シンジ君からの電話でも待ってるの?」
 リツコは笑って冷やかすようにそう言うと、バッグを自分の部屋へと投げ込んだ。そして、リビングへ足を踏み入れる。
「えっ……」
 レイがポッと頬を染めた。実は昔、シンジからの電話を待っているトコロをリツコに見られたことがあるのだ。その時の事を思い出したらしい。
「……ち、違うもの……」
 レイは恥ずかしそうに頬をほんのりと赤く染めたまま、リビングを飛び出すと自分の部屋へと閉じこもってしまった。
「私、何か悪いコト言ったかしら……?」
 リツコは首を傾げたが、とりあえずは窮屈な服装をなんとかすべく、ジャケットをソファーに放り投げた。

『ぷるるるるるる……』
 突然、電話の呼び出し音が鳴った。スカートを片足脱ぎかけていたリツコはそのままの体勢で受話器を手に取った。
「はい、赤木ですけど……?」
『あ、あの……七瀬です……』
 受話器を肩と頬で挟んだまま、リツコは脱ぎかけたスカートを元に戻した。
「あぁ……レイの友達の……」
 彼女の言葉を途中で遮って、リツコが言う。
『はい。この前はどうもありがとうございました。とても楽しかったです』
「それは良かったわ……。あ、レイに用事でしょう? 今変わるわね」
 リツコは受話器を顔から離すと、隣にあるレイの部屋に向かって叫んだ。
「レイ〜っ! 七瀬さんから電話よ〜〜」
 だだだだだっと廊下を駆ける音と共にレイがリビングに駆け込んでくる。
 レイは一目散にリツコの差し出していた受話器を受け取った。
「……はぁはぁ……もしもし……綾波です……」
 息を乱しながらも、嬉しそうに受話器に向かって言う。
 リツコは呆気にとられてその様子を見つめていたが、ふと我に返るとレイの楽しそうな横顔を見つめてクスッと微笑んだ。
「……そうなの……。実は……私も電話しようと思っていたの……」
 ようやくリツコは納得した。電話の前をウロウロしていたのは、彼女に電話しようか悩んでいたからに違いない、と。
「……明日? ……えぇ……いいわ……」
 嬉しそうにそう言ったレイの横顔を見つめながら、リツコは邪魔をしては悪いと思ったのか、脱ぎ捨てたジャケットを拾い上げて、そっとリビングを後にした。
 レイにとって彼女は、今最も大切な存在なのだろう……。
 去り際、背中越しに聞こえるレイの楽しげな話し声を聞きながら、リツコはふとそんな事を考えた。そして、自分の事のように嬉しく思った……。

 さて、受付を済ませたふたりは、もらったばかりの書類を手に式の執り行われるという講堂へと向かっていた。レイはミオの歩調に併せながら、慎重な足取りで歩いていた。思えば、人に併せて歩くなんて、始めてだった。なぜなら、これまではみんなが自分に併せてくれていたから……。

‥これからはこんなところから少しずつ変えていこう…… ‥
 卒業式の夜。
 今までの自分を振り返ったレイは、そう胸に誓ったらしい……。
 レイはちらっとミオの顔を盗み見た。
 ぱっちりとした目。すっきりと通った鼻筋に薄い唇。その唇の脇には、笑うと小さくえくぼが出来る。そしてなんといっても、黒く艶やかで整った長い髪が印象的だった。彼女を見ていると、黒い髪もうらやましく思えてくる。
「……なあに?」
 ミオが突然レイの方を見た。レイは慌てて顔を背ける。
「な、なんでもないわ……」
 ミオは一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに視線を前方に戻した。
 レイは心の中で、ホッと胸を撫で下ろす。
「緊張して昨日の夜はなかなか寝つけなかったの……」
 しばらく黙っていたミオが恥ずかしそうに言った。
「どうして……?」
 ちらりとミオの顔を横目で盗み見て、レイが尋ねる。
「だって……今日からたくさんの知らない人と一緒に生活しなくちゃいけないって思うと、なんだか不安で……。でも……綾波さんに逢えるんだ、って考えていたら、いつのまにか眠ってたわ……」
 フフッと楽しげに笑いながら、ミオは答えた。レイはそんな彼女の顔を見つめていたが、やさしく嬉しそうに微笑むと、前を向いたまま――
「……私も……同じ……」
 と囁くような声で言った。
 そんなふたりの頭上を、少しフライング気味の桜の花びらが申し訳なさそうに舞っている。穏やかな春の光がふたりをやさしく包みこんだ……。
 綾波レイ 18歳。
 彼女の新しい生活は、まだまだ始まったばかりだ……。


○『SCENE1 〜惣流・アスカ・ラングレー〜』
 第3新東京市内のとある4年制公立大学。

 そのネームバリューはもちろん、国内でも屈指の難関大学として有名なその

大学では今日が入学式らしく、まだ午前中だというのに普段の10倍近くの人

であふれかえっていた。そんな中、一人の少女が大学中心部に向かう並木道を

栗色の髪を揺らせながら、さっそうと歩いている。しゃきっと背筋を伸ばして

歩くいつもの癖のせいでリズミカルに揺れる長い髪がその度に太陽の光に反射

して、キラキラと輝く。その並木道を歩くどの少女よりも、彼女は一際目立っ

ていたし、それ以上に一目見た者を引きつける魅力にあふれていた。

『……ったく、なんでひとりでこなくちゃいけないのよっ……!』

 ひとりごとのように彼女がつぶやいた。多少、機嫌が悪いようである。

 それもそのはず、いつも一緒にいるはずの彼の姿が隣になかったからだ。

『アスカっ……!』

 突然、彼女を呼び止める少年の声が遠くから聞こえた。

 彼女……惣流・アスカ・ラングレーは、一瞬驚き、頬を真っ赤に染めたが、

何も聞こえなかったかのように、そのまま歩き続けた。

「……アスカってば!」

 次第に大きくなってくる靴音と共に、アスカを呼んでいた少年が間近に迫っ

てきた。はぁはぁと息を荒くしているトコロをみると、結構な距離を走ってき

たようであることは、アスカにも分かった。でも、アスカは立ち止まらなかっ

た。いや……立ち止まりたくても立ち止まれなかったのだ……。

「アスカっ!」

 すぐ真後ろに少年がやって来た所で、ようやくアスカは立ち止まった。真っ

赤だった頬が、ようやくいつもの色に落ち着こうとしている。

「……はぁはぁ……どうして返事してくれないのさ……」

 少し恨めしそうな口調で彼は言った。そして息を整えながら顔を上げる。ま

だ幼げな印象の残る顔立ち……。アスカの不機嫌の根源・碇シンジであった。

「どうしたのよ……? ……な、なにか用?」

 シンジの疑問には答えず、背を向けたまま、わざと素っ気ない口調で言う。

 実は今日、一緒にこの入学式に出たいと思って、昨日、電話をしようとした

のだけれど、どうしてもそれが出来ず、電話の前をうろちょろしていた。で、

ようやく決心できた時には、既に真夜中の3時だったというわけだ……。ゆえ

にアスカは不機嫌だった。まあ、自業自得ではあるのだが、そんなトコロがア

スカらしいとシンジは常々思っている。

「……えっ……? ……そ、その……アスカの姿を見かけたから、一緒に行こ

 うと思って……」

 その言葉を聞いた瞬間、アスカは驚いた表情を浮かべたが、すぐにポッと頬

を赤く染めた。

「……ま、まぁ……アンタがどうしても、って言うんなら、別にいいけど?」

 嬉しい気持ちを隠すかのように、ぷいっと顔を横に背けながらアスカは答え

る。そんな仕草がかわいらしくて、シンジは思わず声を殺して笑ってしまった。

「……な、何よ……!」

 アスカはそれに気付いたようで、少し気分を害されたようにシンジの方に振

り向くと、ギロッとシンジをにらんだ。

「あ、何でもないよ……」

 実はシンジは、昨日アスカからの誘いの電話がなかった段階で、アスカが絶

対家に来るだろうと予測して、時間ギリギリまで部屋で待っていたのだった。

 けれどもアスカがそんな事を知っているはずもなく、シンジは言うつもりも

ない。言ったとしても、お決まりのセリフが返ってくるだけなのを知っている

からだ……。シンジは、意地っ張りでプライドが高くて、だけどやさしくて、

かわいい、栗色の髪の彼女の顔を見つめた。頬がまだ、ほんのりと赤い……。

「……ならいいけど、行くの? 行かないの? どっちなのよ!」

 少しイライラしたようにアスカは言う。

「もちろん行くよ」

 一瞬、アスカが嬉しそうな表情を浮かべた。

 もちろんシンジはそれに気付いている。

「そう……?じゃあ、連れていってあげるわ。ありがたいと思いなさいよね!」

 そう言ってから、アスカは講堂へと向かって歩き始めた。その背中を見つめ

ながら、シンジは微笑んだ。これからもずっと、その背中を見つめていたい、

どうしてなのか分からなかったけれど、そう思った。

「なにしてるのよ……。置いていくわよっ!」

 シンジが自分の背中を見つめている視線に気付いたのか、頬を微かに赤く染

めたアスカがシンジの方へ振り返った。美しい栗色の髪がふわっと風に揺れる。

 シンジは思わず、それに見とれてしまった。

「どうしたの……? 走ってきたから疲れてるの……?」

 シンジがボーッと突っ立っているだけなので、アスカが心配そうに尋ねた。

「……あ、ごめんごめん」

 見とれていたからだなんて言えるはずもなく、シンジは照れ隠しにアスカへ

微笑みを返すと、勢いよく駆けだした。

 これまでずっと共に戦い、共に悩み、共に歩んできた栗色の髪の彼女の下へ……。

 そんなふたりの頭上で、薄桃色の桜の木の枝が、一度だけ……風に揺れた……。

○『SCENE2 〜伊吹 マヤ〜』

 その頃、ネルフ本部の司令室では副司令・冬月コウゾウが机の上にでんと積

まれた書類の束を前に、しかめっ面を浮かべていた。

「……まったくあの二人の親馬鹿ぶりには困ったものだ……」

 吐き捨てるようにつぶやきながら、書類に判を押す。

 総司令の碇ユイが、意気揚々と息子の入学式に出向いて行ってしまっていな

くなってしまい、そうとなれば、その仕事はナンバー2であるはずの理事長・

碇ゲンドウに委譲されるはずなのだが、そのゲンドウもまた、息子の入学式に

行ってしまった。ゆえに総司令の仕事はもちろん、理事長の仕事もひっくるめ

て、ナンバー3である冬月に回ってきたというわけだ。

「それにしても……いつもこんな有り様なのか?」

 あまりの量の多さに思わず恨み言のように漏らしてしまった冬月に、脚立の

上に登って、書類の山に絶妙なバランスで書類を重ねていたオペレーター・伊

吹マヤが、無邪気な微笑みを浮かべながら答えた。

「いつもはこの倍はありますよ……今日は少ない方ですね」

「ユイ君も大したモノだな……」

 冬月は感心した。最高責任者といっても、要はお役所仕事……仕事の大半は、

こういった山のように届けられる書類に目を通して判を押す……そういった単

純作業のくり返しなのだった。

「早く片付けないと、春香さんに逢いに行く時間がなくなっちゃいますね」

 悪戯っぽく、そして無邪気にマヤが言った。

 春香というのは冬月の知り合いの保母さんである。ひょんな事から知り合っ

て、彼女の勤める保育園に通うようになったのだが、つい先日、その一部始終

がゲンドウを始めとするネルフ関係者一同にバレてしまったのだ。

「……さて、仕事をしないとな……」

 冬月はしらじらしく書類の方へと視線を移した。ほんの少し顔が紅潮してい

るようだ。

 そんな冬月を、マヤは脚立の上から微笑みを浮かべて見つめていた。

 同じ頃、ネルフ本部内の一室。

「暇だな……」

 椅子に座ったままで、ぐーっと背伸びをしながら日向マコトが言った。

「ああ……」

 青葉シゲルが端末の前でキーボードを叩きながら、それに答える。この部屋

は、青葉やマヤ、そしてリツコ達の仕事場なのだった。

「そろそろ始まったかな……?」

 壁の時計を見上げながら、日向が言った。青葉の上司である赤木リツコは、

レイの入学式に出掛けてここにはいない。日向の上司である作戦指揮部長・葛

城ミサトも同居人のアスカの入学式に出掛けたため、日向はサボってここにい

られるというわけだ。

 日向は横目で青葉の顔を盗み見た。つい一月ほど前から日向は青葉の数年来

の同僚であるマヤと付き合い始めたのだが、その噂がネルフ内で流れて以来、

青葉の日向に対する態度はなんとなく素っ気ないのだった。

「あのさ……シゲル?」

「何だ……?」

 日向の方に見向きもしないで、青葉はキーボードを叩き続けている。

「……いや……なんでもない……」

 日向は青葉から視線をそらすと、少し離れている場所にあるマヤの机の方を

見た。先週、出張のついでに日向が買ってきたネコの置物が、大事そうに机の

隅に置かれていた……。

○『SCENE3 〜洞木 ヒカリ〜』

 第3新東京市内のとある体育大学の講堂。この学校でも今日、入学式が執り

行われていた。体格のよい集団の中で、決して大柄とはいえない一人の少年が

凛とした表情で壇上を見上げていた。鈴原トウジである。

 彼はふと、今朝の事を思い出した。

 少しだけ歳の離れた妹とふたり暮らしをしているアパートで、トウジは妹と

朝食を取っていた時の事。

「今日、ヒカリさんは迎えに来るの?」

 唐突にそう尋ねられたので、トウジは思わず頬を赤く染めた。

「……ガキやないんやし、入学式に付いていってもらうなんて、そんなコトす

 るわけないやろ」

 ムキになって否定するトウジ。兄のこんなトコロを、妹はかわいいと思う。

「とか言って、本当は期待してたりして?」

 フフッと軽やかに微笑みながら、彼女はご飯を口に運んだ。

「しとらんっちゅうに!」

 トウジがそう怒鳴った瞬間、電話の呼出音が鳴った。くすくすと笑いながら、

彼女は電話口に向かう。こんな朝食の風景は、この家ではいつもの事だった。

 あふれてくる笑いをこらえて、彼女は電話を取った。

「はい、鈴原ですけど……あ、はい……。いえ、そんなことないです……。…

 …へぇ……そうなんですかぁ……」

 楽しそうに受け答えする妹の様子に、トウジは友達からの電話だと思い、微

かに笑みを浮かべると、彼女の手製の味噌汁に口をつけた。

「あ、ちょっと待って下さいね……お兄ちゃん、ヒカリさんから電話よ」

 トウジは思わず、味噌汁を吹き出しそうになった。そんな兄を見て、受話器

片手の妹ははくすっと楽しそうに笑った。

「早くしないと、切っちゃうわよ」

 わざと悪戯っぽい口調で言う。トウジはごくんと口の中の味噌汁を飲み込む

と慌てた様子で、席を立ち、電話口に駆け寄った。

「はよ、よこしや」

 くすくすと笑う妹の手から受話器をもぎ取る。

「……もしもし……ん、あぁ、おはようさん。え、いや……気にせんでええっ

 て……」

 電話に向かって話す兄の背中を彼女は嬉しそうに見つめると、自分の部屋へ

と向かった。気を利かせようと思ったのだろう。彼女は扉を閉める瞬間、トウ

ジに向かって笑顔で手を振った。その時のトウジはといえば、ただ顔を背けて

苦笑いを浮かべるしかなかった。

『どうかしたの? 鈴原?』

 会話の止んでしまったトウジに受話器の向こうのヒカリが問いかけた。

「んっ……? いや、なんでもない……」

 受話器の向こうにいるそばかす顔の彼女に向かってそう言いながら、トウジ

はやさしげに微笑んだ……。

 さて、トウジが入学式に参加している頃。市内の調理師専門学校に、洞木ヒ

カリの姿があった。昔は目立っていた頬のそばかすも、近づかないと分からな

いくらいに薄くなり、黒く長い髪を背中でひとつにまとめた彼女は、他の生徒

達がうらやむ程の美しい女性になっていた。

「今頃、式の最中ね……」

 そんな事を思いながら、彼女は目の前のまな板の上の魚を捌きはじめた。

 てきぱきと手慣れた手つきの彼女に、周りの生徒が感嘆の声を上げる。

 調理師専門学校といっても、ただの花嫁修行に来ている人間も多い中、ヒカ

リのテクニックは上級の部類だった。

「洞木さんはどうしてこの学校に通い始めたの?」

 この学校で一番ヒカリと親しい少女が尋ねたことがある。その時、ヒカリは

頬を赤く染めてから、こう答えたものだ。

「いろいろな料理を、たくさん食べて欲しい人がいるから……」

 鈴原トウジ……まったくもって、うらやましい奴である。

 さて、同じ頃、トウジの親友である相田ケンスケは、市内のスタジオにいた。

 30台半ばくらいの髭面の男がそばにいる。

「ケンスケ、モデルを呼んできてくれ」

 プロのカメラマンであり、師匠である彼に言われ、ケンスケは手入れしてい

た愛用のカメラを置いて、スタジオを出た。少し重い足取りで隣の控え室に向

かう。

「ようっ、ケンスケっ! まだ、写真撮らせてもらえないんだって?」

 控え室に入ると、しゃきっとした子供用の礼服に身を包んだ小学生くらいの

少年がケンスケを見上げて言った。ケンスケはムッしたが、いつもの事なので、

じっとこらえる。

「仕方ないよ。この人、才能ないもん」

 隣にいた、澄まし顔の良家の坊っちゃんといった風の少年が相づちをうつ。

「これこれ、あなた達、いい加減にしなさい。……ごめんなさいね、相田くん。

 この子たち、口のきき方を知らなくて……」

 彼らの所属するモデルハウスのマネージャーの女性が申し訳なさそうに言う。

「いえ、いいんですよ。気にしてないですから……」

 ケンスケは愛想笑いを浮かべながら言った。

「気にしてないから、いつまでたっても見習いなんだよな」

「そうそう」

 本当、口のきき方をを知らない子供達である……。ケンスケは怒りをこらえ

ながら、ふたりに向かって笑った。このふたりの機嫌を損ねて、撮影が出来な

いと、怒られるのはケンスケ本人だからだ。

「ほら、スタジオに行こうな」

「おんぶしてくれたら、行ってやってもいいぞ」

 えらそうに言う少年。親の顔が見たい。

「こいつら、俺がカメラマンになれても絶対使ってやんないからな」

 そんな思いを巡らせながら、ケンスケは少年に背を向けてかがみこんだ。

 そんなケンスケの背中に、馬鹿にしたような少年のケリが飛んだ。

「冗談だよ、ば〜か。誰がお前の背中なんかに乗るかよ」

 ケラケラと笑いながら言う少年。ケンスケはマジで殴ってやろうかと思った。

 何はともあれ、ケンスケも自分の夢に向かって走り出したようである……。

 さて、その頃、シンジ達の卒業した高校の校庭の桜の木に銀髪の少年の姿が

あった。シンジ達と一緒に卒業したはずなのに、学生服を身にまとい、顔一面

に笑みを浮かべながら、歌を口ずさむ少年……。渚カオルだった。


『春はいいねぇ……』


 小鳥のさえずりを聞きながら、彼は青い空を見上げて満足そうに笑った。


○『SCENE4 〜赤木 リツコ〜』

「……どこにいるのかしら……?」

 講堂から一気に人が出てゆく混雑の中で、ミオとはぐれてしまったレイは彼

女を探していた。混雑も収まりかけた頃、ようやくレイは遠くにミオの姿を見

つけた。彼女もまた人探し顔で辺りをキョロキョロと見回していた。嬉しさの

あまり、すぐにも駆け寄ろうとして辺りの様子をよく確認しなかったレイは、

突然目の前に飛び出して来た人影を避けきれず、尻餅をついてしまった。

『おっと……。ごめん、大丈夫か?』

 ぶつかってきた彼女の方はびくともしなかったようで、何が起こったか分か

らずポカンとしていたレイの手を取って立ち上がらせると、落ちていたバッグ

を拾い上げ、汚れを手ではたき落としてくれた。

「……ほら、これアンタのだろ?」

 目の前に差し出されたバッグをレイは戸惑いのあまり、無言で受け取った。

 ハッと我に返り、ようやくいつもの冷静さを若干取り戻したレイは、まじま

じと彼女を観察した。少し茶色がかった髪を短く切り揃えた彼女は、いかにも

スポーツ少女といった雰囲気をかもし出している。言っては悪いが、今着てい

る薄いベージュのスーツよりも、トレーニングウェアの方が似合いそうな気が

した。その彼女の大人びた顔が申し訳なさそうに曇った。

「悪かったよ……ちょっと急いでいたからさ。ケガなんてしてないよな?」

 レイの身体を見回しながら、心配そうに尋ねた彼女に、レイは彼女の瞳を見

つめたまま、首を小さく横に振った。彼女はようやく安心したように、ホッと

ため息をついた。

「そっかぁ……よかったぁ。入学早々、ケガなんてさせたら、何言われるか分

 かったもんじゃないからなぁ……」

 ひとりごとのようにそう言ってから、彼女は何かを思い出したかのように、

腕時計に目をやった。

「げっ! もう、こんな時間? 練習に遅れちまう。じゃ、悪かったな……」

 彼女はそう言い残すと、正門の方に駆けていってしまった。

 人ごみに消えてゆくその後ろ姿を、レイはじっと見送っていたが、ふとやわ

らかな微笑みを浮かべた。また、どこかで逢えればいいな、と思った……。


「……大丈夫?」

 いつの間にか隣にミオがいた。心配そうな顔でレイの顔を覗きこんでいる。

「ええ……大丈夫よ」

 レイは微笑みながらそう答えた。

「良かった……」

 安心したようにミオが言う。レイはいつも思う。

 みんなが自分を心配してくれるというのは、こんなにも幸せなものだったの

か、と。昔はそんな事は思いもしなかった。人に情けをかけられる事に嫌悪を

感じた。でも、今は違う。自分を心から気遣い、心配してくれる人達に心から

感謝している。今は微笑みを返すことしかできないけれど、いつかきっと、そ

んな人達に何かしてあげたいとレイは思う。


「…………!?」

 レイは前方の見慣れた人影に気がついた。顔一面に驚きの表情を浮かべる。

そのレイの表情の変化に気付いたミオがその視線の先を追うと、そこにはミオ

も何度か見た事のある女性の後ろ姿があった。

 レイが何かに憑かれたかのように駆け出した。そして無言でその女性の前へ

と回りこむ。

「レ、レイ……!?」

 その背中の主はリツコだった。レイは、はぁはぁと呼吸を乱せながら、その

紅い瞳でリツコをじっと見つめた。

「ごめんなさいね……黙って来ちゃったりして」 

 リツコは申し訳なさそうに言った。レイは緊張した顔のまま、ぶんぶんと首

を横に振る。今日の自分の姿を見てもらいたかったのは、他の誰でもなく、こ

のリツコだった。けれど、「来て欲しい」と素直に言うことが出来なかった。

最近、仕事が忙しそうな彼女に遠慮したせいもあるが、彼女が自分をどう思っ

てくれているのか、よく分からなかったせいもある。

 もし、迷惑そうな顔をされたら……? そう考えるとなんだか恐くて、誘う

事が出来なかった。そのリツコが今、目の前にいる。

「一応仕事に行ったんだけど、ミサトに無理矢理追い出されちゃってね……。

 ……悪いとは思ったんだけど……」

 照れくさそうに視線を逸らせながら、リツコは言う。

 レイは何も言うことが出来ず、ただリツコの顔を見上げているだけだった。

「おめでとう、レイ……今日のあなた、とてもいい顔してるわ……」

 しみじみと、嬉しそうに発せられたその言葉に、レイの真紅の瞳が潤む。

「……あ、あの……」

 何か言わなくてはいけないと思ってはいるのだが、言葉が出ない。リツコは

そんなレイの胸中など分かっているかのように二度三度うなづくと、ぎゅっと

レイのきゃしゃな身体を抱きしめた。

「……大きくなったわね……レイ……」

 頬を擦り寄せながら、レイの耳元にやさしく囁く。

 その声を聞いた瞬間、レイは、リツコを誘うことに惑いを感じた自分を、リ

ツコの自分へやさしさをわずかでも疑った自分を、心の中で軽蔑した。

 そしてレイは母を感じた……。

 顔も知らない……生きているかどうかさえ分からない、母のぬくもり……。

 初めて感じるそのぬくもりを、レイはカラダいっぱいに感じた……。

 リツコはそっとレイから離れた。そして、真っ白なハンカチで彼女の目頭の

涙を拭ってやる。

「ほら、行きなさい……。彼女、待ってるみたいよ」

 後ろの方で、ふたりの光景に見とれていたミオに気付いたリツコが言う。レ

イはゆっくりと顔を上げ、こくりとうなづいた。

「あ、あの……」

 ミオがリツコの方を見て、うかがうような小さな声で呼びかけた。

「何かしら?」

 軽く笑みを浮かべて、リツコはミオの目を見つめる。

「あの……写真撮りませんか? 綾波さんと一緒に……。私、カメラ持ってき

 てるんです……」

 リツコは少し考えているようだったが、隣で自分を見上げているレイに気付

くと、レイにやさしく微笑んで、ミオの方を見た。

「……そうね……お願いしようかしら……」

「は、はいっ!」

 ミオは嬉しそうに微笑んだ。リツコは少し戸惑いがちのレイの肩をそっと抱

き寄せると、近くの桜の木のそばに立った。

「じゃ、撮ります」

 ミオがカメラを構える。リツコはレンズの方を見つめたまま、レイに聞こえ

るようにつぶやいた。

「……これからもよろしくね……レイ……」

 その瞬間、レイの顔にパッとあふれんばかりの微笑みが浮かんだ。

『カシャッ』

 そして、カメラのシャッターが切られる音。

 おそらく、満開の桜をバックにこれまでで一番のレイの微笑みがフィルムに

焼きついているに違いない……。

 レイはリツコの方を見上げた。リツコもレイを見下ろす。

「……これからも……お願いします……」

 小さいけれど、気持ちのこもったしっかりとした声をリツコは聞いた。

 答える代わりに、リツコは右手でそっと、レイの白い頬に触れる……。

 レイはその手を通じて、リツコの声にならない言葉を感じた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか……沈黙を破ったのはリツコだった。

「向こうの方でサークルの勧誘をしているみたいね……懐かしいわ……。もう

 かなり前の事だけどね」

 リツコがレイの肩越しに見える人垣を眺めながらそう言ったので、レイもそ

っちの方を見た。ミオもまた、そっちの方を見る。

「本当……にぎやかそうね……」

 そう言ったミオの顔を見て、レイもうなづいた。そんなふたりの後ろ姿をリ

ツコは微笑みながら見つめていたが、

「ふたりで行ってきなさいよ」

 とやさしい口調で二人に言った。レイが伺うような視線でリツコを見る。

「んっ?」

 その視線に気付いたリツコは、レイの赤い瞳をまっすぐに見つめた。

「あら……私の事なら気にしなくていいわよ。これから仕事に戻らなくちゃい

 けないしね……。遠慮しないで、楽しんでらっしゃい」

 レイは少し考えてからこくんと縦にうなづくと、ミオの背中をポンと押した。

「……行きましょ」

 驚いて振り返ったミオに向かって、レイは微笑んでうなづくと、人垣の方へ

向かって駆け出した。ミオはリツコに向かって会釈をすると、慌ててレイの後

を追った。ひとり取り残されたリツコはただただ微笑みながら、ふたりの背中

をいつまでも見送っていた。

 女子短期大学の正門を、少女達がそれぞれの思いを胸に後にする。

 2年後、彼女達はどんな思いでこの門をくぐるのだろう……。

 そして、蒼銀の髪の彼女はどんな思いを胸にこの学校を後にするのだろうか……。

 先の話はともかく、今とりあえず言えることがある。

 この咲き誇る桜のように、そして、その桜の下で彼女を見守るリツコのよう

に、あたたかく、やさしい人たちに囲まれている限り、レイには幸せでおだや

かな毎日が訪れるだろうということを……。

 

 今、綾波レイは未知という名の大空に向かって飛び立とうとしていた……。

                    『ファースト・フライト』(完)

【あとがき】

 『女子大生・綾波レイ シリーズ(PART1) 

  「ファースト・フライト」』 いかがでしたでしょうか。

 このシリーズは、私のエヴァ小説の集大成というか、ライフワークとなりそ

うなシリーズです。それほどに私はこのシリーズが好きですし、この作品を書
いた事によってたくさんの人に知り合えた事を何より喜んでいます。
 いつもネタを供給してくれる皆さん、キャラの名前を考えてくれた皆さん、
そして私の作品を読んで下さっている皆さんに感謝します。

 さて、ここに登場する七瀬ミオは『ファースト・コンタクト』や『春のあし
おと』に登場する彼女です。まだお読みになっていない方はぜひご一読下さい
ませ。今後の女子大生シリーズが一層楽しめることうけあいです。

 というわけで、女子大生なレイに「こんな事やってほしい」などというご要
望などありましたらお聞かせ頂けたら嬉しいです。

 でわでわ、またお会いしましょう。

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Copyright Toshiya 1997