○『プロローグ』
時は6月下旬。とある日の第3新東京市の夜の事である。
リツコとレイが一緒に住むマンションのリビングで、ふたりは向かい合わせ
に座っていた。いつもふたりで見ているニュース番組が終わったので、リツコ
はリモコンでテレビのスイッチを切った。
第3新東京市にも梅雨は来る。けれど今日の日中はとてもいい天気で、とて
も梅雨だとは思えなかった。つい先週の金曜日、どこかの気象予報士が『どう
やら梅雨入りした模様です……』と曖昧な言葉を繰り返していたのを見て、レ
イはリツコと顔を見合わせて笑ったものだ。
それはともかくとして、今宵の話題はレイの友達の事であった。
「うららちゃんはあそこのレストランでアルバイトをしていたのね。そういえ
ば、ちょっと前、夜遅くにあの辺りで姿を見かけたわ」
テレビのリモコンをテーブルに置きながら、リツコは悪戯っぽく微笑んで、
レイの顔を覗きこんだ。
「あら、うらやましそうな顔……。レイもアルバイトって興味あるの?」
微笑みながらリツコが言うと、レイは表情を変えず、こくりと頷いた。
「フフフ……まだレイにはお客を相手にしたアルバイトは難しいかもしれない
わね……」
リツコがそう言うと、レイは少しがっかりしたような表情を浮かべる。
「まあ、でもアルバイトはやっておいた方がいいかもしれないけれど」
その言葉にレイは曇っていた表情を明るいものへと変えた。
‥ この子にはいろいろな事を経験してもらいたい…… ‥
常々そう思っているリツコである。
そんなふたりは明日から1泊の予定で、ここから遥か東にある、とある高原
にネルフ本部の研修旅行に出かけることになっていた。
『研修』と銘うっているとはいえ、所長である碇ユイの1時間あまりの講義
の他は自由行動で、慰安旅行となんら変わらない……。今日、ミサトが怪しげ
な荷物を抱えて、楽しそうにネルフ本部の廊下を歩いているのをレイは見かけ
ていた。おそらくあの荷物は仮装用の衣装に違いない。
またあの大騒ぎが始まるのかと思うと少し怖い気もするけれど、なぜか今は
待ち遠しいと思う気持ちの方が強かった……。
「ところで、準備出来てるの? 本当にひとりで大丈夫?」
心配そうなリツコの顔。なぜかというと、明日、レイは外せない用事がある
ために一人遅れて現地で合流することになっているからだった。リツコはそれ
が心配でたまらないらしい。
「これから準備しようと思って……」
そう言って微笑んでから、レイはソファーからよいしょと腰を上げた。
「あ、ちゃんと洗面用具とか着替えとか用意しておくのよ」
レイの背中に向かって声をかけるリツコ。その言葉に、リビングを出てゆき
かけたレイは振り返って、やわらかな微笑みを浮かべた。
「……心配しないで……もう……子供じゃないから……」
彼女の意外な言葉に、リツコは思わず呆気にとられてしまう。
そんな事を言われても、リツコにとってレイはいつまでも目の離せない女の
子なのだ。やさしく微笑んでみせてからリビングを後にするレイの小さな背中
を、リツコは心配症な自分に自嘲しながら見送る。
‥ もう子供じゃない、か……。まるで、子供が母親に言うセリフね…… ‥
レイのいなくなった向かいのソファーの上に目をやりながら、リツコは微笑
んだ。そしてゆっくりとソファーから立ち上がると、ベランダへと向かう。
少し薄暗いベランダの軒下には、リツコに教わってレイが一生懸命に作った
てるてるぼうずがゆらゆらと風に揺れていた。それを見てリツコはくすっと微
笑むと、ベランダの桟にもたれて、天を仰いだ。
晴れ上がった空には無数の星が瞬き、月は今日もやわらかにリツコの顔を照
らしている。
「月をこんな穏やかな気持ちで見上げられるようになったのは……いつからか
しらね……」
ふとそんな事を思う。それは……今、隣の部屋で明日の準備をしている蒼銀
の髪の少女と暮らし始めてからだということは言うまでもないだろう。
「……キャッ! ……いった〜い……」
ドスンという椅子から落ちたらしい物音とかわいらしい悲鳴と声が、隣のレ
イの部屋から漏れてきたのを聞きながら、リツコは楽しそうに微笑むと、ちょ
んっとてるてるぼうずの頭をつついた。
「……晴れるといいわね」
そう言って、白衣の才媛はやわらかに微笑んだ……。
てるてるぼうずはただなんとなく、ゆらゆらと揺れた……。
○『SCENE1 〜あなたに逢えてよかった〜』
翌日。レイの通う女子短期大学はいつもとは違う喧騒に包まれていた。
華やかにデザインされた看板や垂れ幕が、普段は単調な学内の景色にアクセ
ントをつけ、教室の廊下では女学生がばたばたと走り回っている。
どこからどうみても、学園祭かなにかといった光景だ。
それもそのはず、この学校では毎年6月に新入生の主催による『夏季学園祭
』が開催される事になっているのだった。なぜ新入生が主催かというと、表向
きは同級生や他校の学生との交流を深くするためということらしいが、上級生
達が、来場する友人たちと遊び回りたいだけという裏の事情がある事も付け加
えておこう……。
ちなみに秋にはしっかり秋季学園祭もある。この学校、実はものすごくお祭
り好きな体質があるのかもしれない……。
さて、レイ達の教室は、余計な机などは一切取りはらわれ、数人の少女達が
何やらバタバタと準備を続けていた。大半の少女達が取りかかっているのは、
教室のディスプレイのようである。……というのもレイ達のクラスでは出し物
として喫茶店を開くことになっていたからだ。
当然発案者はお団子髪の少女であったが、真っ先に賛成の意をあらわにした
のは、意外にもレイであった。そのせいもあってか、その案は全員一致で採用
された。あのジャンボパフェの喫茶店『喫茶ろまねすく』のような大きくて美
味しいパフェをメニューに入れることは出来なかったけれど、それなりに満足
できるメニューを揃えることも出来、最後の準備として殺風景な教室の模様替
えにかかっているところらしい。
『ひゃっほ〜っ! レイちゃん、ミオちゃん持ってきたよ〜っ!』
髪をおだんご状にした少し幼い顔立ちの少女が小さな風を巻き起こして教室
に飛び込んでくる。二人一組になって壁に釘を打ちつけていたレイとその友人
七瀬ミオは少し驚いたようにその少女の方に視線をやった。
「こっちが家政科から借りてきたレースのカーテンで、こっちは資料室から拝
借してきた古いランプね〜」
幼な顔の少女・草薙うららは紙袋に入った真っ白なレースのカーテンと、古
めかしいオイルランプをタンッと勢いよく机の上に置いた。
「拝借してきた……って草薙さん?!」
ミオが心配そうな顔でうららを見る。
「大丈夫だいじょーぶ。どうせみんなお祭り騒ぎに浮かれちゃって気付かない
んだから、火曜日にでもこっそり返しておけばバレないって」
そう言ってうららは陽気に笑う。今日は土曜日、学園祭は週明けの月曜日1
日をかけて催される事になっている。心配そうに机の上のランプを見つめるミ
オを見ながら、レイはニッコリと微笑んだ。
「しばらく借りておきましょう……壊さなければ大丈夫よ」
「さっすがレイちゃん、ハナシがわかるじゃな〜い」
ニッコリと笑ううららに、レイもお返しとばかりに微笑む。
「っもうっ……! ふたりとも、どうなってもしらないからねっ」
ぷう〜っとミオは膨れっ面。
そんなミオの横顔をレイは嬉しそうに見つめるのだった……。
それから約2時間後、夕暮れまで後2時間あまりといった頃になると、殺風
景だった教室も、なんとなく粋な喫茶店らしき風貌が見られるようになってい
た。誰かが持ってきたラジカセからハスキーで情熱的な女性のボーカルが響く
中、レイはこつこつと作業を続けている。
今日のレイは本当によく動く。
額にうっすらと浮かんだ汗を時折シャツの袖で拭いながら、机を運んだり、
釘を打ったり……。それもまた楽しそうにするものだから、見てる方までなん
だか嬉しくなってくる。
ずっと側で一緒に作業をしているミオは、そんなレイの横顔を時折横目で盗
み見ては、やはり嬉しそうに微笑むのだった。
「……ねぇ綾波さん……碇クン達は来るの?」
聞こう聞こうと思っていた事を、ミオはようやくレイに尋ねることができた。
そして、何故か少し照れくさそうに頬を赤く染める。
「ええ……声は掛けたわ。鈴原クンや相田クン達も誘ってくれるみたい……」
あくまでサラリと言い流すような口調だったけれど、レイの口元は少し緩ん
でいるようにミオには見えた。
「そ、そう……」
「どうしたの……?」
「んっ? ううん……なんでもないわ……」
レイは真っ赤な顔のミオを見て不思議そうにちょこんと首を傾げてから、ま
た黙々と作業を始めた。
顔の火照りが収まってから、ミオはこっそりとレイの様子を盗み見た。彼女
は本当に手抜きというものを知らない。どんな事でも一生懸命にしないと気が
済まないのだろう。ミオはレイのそんな性格が分かるようになっていたし、な
ぜレイがそんなに一生懸命になれるのか、よく分かっていた……。
そして自分も、そんなレイと時間を共に過ごしたい、素敵な思い出を作りた
い……と強く思う。
「あら……もうこんな時間……」
教室の壁に掛けてある時計を見上げてミオはそうつぶやいた。電車で温泉地
に行かなくてはならないという事をミオはレイから聞かされていたのだ。
「綾波さん、時間はいいの?」
レイは顔を上げて、汗を拭いながら掛時計を見た。
「……あっ……」
思わず声が漏れる。まさかもうこんなに時間が経っているとは、さすがの彼
女も思っていなかったのだろう。
「早く行かないと電車、なくなっちゃうんでしょう?」
「え、ええ……そうだけど……」
そう言ってレイはかなり名残惜しそうにミオの目を見つめた。そんなレイの
寂しげな赤い瞳を見ていると、ミオも辛くなってくる。
「多分、明日も準備すると思うから、また帰りにでも寄ればいいじゃない?」
レイを元気づけようとばかりに明るい調子でかけられたその言葉にレイは渋
々……だろうか、コクリと縦に首を振って、帰る支度を始めた。周りの少女た
ちが口々にレイへ「お疲れさま」と声を掛ける。帰ってしまうレイに恨み言を
言う者などひとりもいない……。
『ようっ……やってるか? 差し入れ、買ってきたぜ』
レイが支度を終えた頃、突然、入り口の扉が開いて誰かが入ってきた。一部
の少女たちから「待ってました」とばかりに声が上がる。声の主はジーンズに
トレーナーというラフなスタイルで、髪を短く切り揃えた少女だった。
「あ、アヤさん」
その少女・天城アヤはミオとレイに気付くと、笑みを浮かべてふたりに近づ
いてきた。
「よう、おふたりさん。あれ? うららのバカはどこ行ったんだ?」
「……あのぅ……バンドのリハーサルがあるから見に行ってくる、って……つ
い1時間ほど前に……」
申し訳なさそうにミオが答えると、アヤは手で顔を覆った。
「ったく、あのバカま〜た逃げやがったな。言いだしっぺの自覚があるのかね
〜? あの脳天気女は?」
クラス中のみんながクスクスと笑う。アヤは帰りの支度が整ったらしいレイ
の方を見た。
「おっ、レイ、帰るのか? ……あぁ、研修ね。あの人達に煽られて、また飲
み過ぎないように気をつけろよ」
アヤは景気よくそう言ったのだが、レイは少しうつむいたままだった。
「……あ、あの……最後まで手伝えなくて……ごめんなさい……」
「な〜に言ってんだよ。レイはよくやってくれたさ。なっ、みんな?」
アヤがクラスの10数人の少女たちの方に意見を求めるように振り返ると、
彼女達は皆こくんと大きく首を縦に振った。
レイはじんと胸が熱くなるのを感じた。もっとここにいたいという衝動に狩
られる。けれど、そんなレイの胸の内を読み取ったかのようにアヤは続けた。
「だから、明日の午後までお休みを言い渡す。あとはオレがしっかり見張って
うらら一人にやらせておくから、心配なく行ってこいよ。な〜に、お土産の
一つでも買ってくれば誰も文句は言わないさ」
少し冗談混じりの口調で言ってアヤは愉快そうに笑った。
‥この人にはかなわないわね ‥
レイは何故かそう思った。
「ほらっ!」
そのアヤが突然、持っていた袋の中からぽ〜んと何かを投げてよこした。
慌ててレイはそれを受け取る。
それは……大きくて真っ赤なリンゴだった……。
「よく働いてくれたごほうびさ。電車の中ででも食べてくれ。じゃ、な」
「あ、ありがとう……」
「ほら、電車に遅れるぜ」
レイと目を合わせて、アヤは微笑んだ。レイはこくりとうなづくと、お気に
入りのショルダーバッグを肩に掛けて教室を出てゆく。右手にはリンゴを大事
そうにしっかりと握りしめて……。
そんなレイの背中を教室の中の少女達は黙ったまま見送っていた。
誰かが声を掛けなければ、いつまでもそうしていたかもしれない……。それ
ほどに、レイの背中には、人を引きつけて離さない何かがあった。
アヤも彼女達と同じく、しばらくレイの背中を見送っていたが、パッとミオ
の方を見て微笑むと、買い出しの入ったスーパーの袋をミオに差し出した。
「じゃ、うららのバカを捕まえにいってくるとしますか。これ、みんなで分け
てくれ。あ、オレの分も残しておいてくれよな」
袋を受け取ったミオが、こくりとうなづいたのを見てから、アヤは笑って教
室を飛び出した。その背中を目で追いながらミオは思う。
『この学校に来て、本当に良かった……』
ミオはニッコリと微笑んでから、少女達の輪の中ヘと歩みを進めた……。
彼女の青春もまた、蒼い髪の少女と同じく始まったばかりなのだ……。
○『SCENE2 〜目を覚ませ 男なら〜』
高速を走る真っ赤な車。運転席にはサングラスをかけたミサトの姿がある。
そして後部座席には----
「ちょっと〜っ! あんまりこっちに引っ付いてこないでよねっ!」
「し、しょうがないだろ……! この車狭いんだから……」
ポンッと車が跳ねる度に、天井に頭をぶつけていたシンジが言った。確かに
スポーツーカー仕様のこの車は4人乗りとはいえ、後部座席にふたりは辛い。
「シンちゃ〜ん……悪かったわねぇ〜狭い車で」
ミサトが皮肉っぽくミラー越しに言った。目つきが少し怖い。
「そ、そういうつもりじゃないんですよ、ミサトさん」
「じゃ、どういうつもりなのよっ!」
アスカが口をとんがらせてシンジに詰め寄る。
「大体さ、そんなに言うんならわざわざこっちに乗ってなくてもいいだろ……
助手席だって空いてるんだし」
シンジはそう言って助手席に目をやった。少し大きめのクーラーボックスが
で〜んと置かれている。
「し、仕方ないでしょっ! あいつが助手席じゃなきゃ嫌だ、って言うんだか
らっ!」
そう言ってアスカが助手席を指差すと、タイミング良くクーラーボックスか
らペンペンが顔を出した。きょろきょろと珍しそうに辺りを見回す。
『くわっ??』
「なんか悪者にされてるわよ〜アンタ」
ミサトはチラリと助手席の相棒に目をやって愉快そうに笑った。
「いつからペンペンの言葉が分かるようになったんだよ! アスカっ!」
「今日からよっ! 文句あるっ!?」
アスカは栗色の髪をふわりと揺らせて、偉そうに胸を張った。そのまだ未成
年とは思えないボリュームにシンジは思わず目のやり場に困って顔を背ける。
「だ、だったら、文句言わないでくれよ! 狭いのはこっちだって一緒なんだ
からさ。こうやって、もう1時間も我慢してるんだから……」
「わ、分かったわよ……そこまで言うんなら我慢してあげるわよ。その代わり
3回までは身体に触れても許してあげるけど、それ以上触れたら、こっちに
も考えがあるわよ……」
アスカはニヤリと笑ってシンジを見た。
「な、なんだよ……?」
こわごわとした口調でおずおずと尋ねるシンジ。
「もし4回以上私の美しい肌に触れたら、今日と明日、アンタは私の言うこと
をぜ〜んぶ聞くのよ」
「な、なんだよそれ〜」
シンジが口をとんがらせてそう言った瞬間、ガタンと車が跳ねて、ふたりの
腕と腕が微かに触れあった。
「っもうっ! 男だったらウダウダ言わないのっ! ほらっ、もう一回目だか
らねっ!」
「え〜っ!? 今のも〜?」
「当ったり前でしょ!」
ミラー越しにふたりのやり取りを見ていたミサトは楽しそうにクスッと微笑
った。今日も朝から落ち着かない様子で、マンションでも妙にソワソワしてい
たアスカの姿を思い出す。見れば、今もアスカの頬はほんのりと赤い。
ミサトはちょっとした悪戯心を芽生えさせて、アクセルをごんっと吹かした。
車が一瞬ふわりと空中に浮いたような感じになる。
「ほらっ! これで2回目だからねっ!」
「そ、そんなぁ〜」
シンジの情けない声をバックに、ミサトは楽しそうに微笑ってハンドルをゆ
っくりと右に切った……。
そのミサトが運転する車の前を走っている一台の車。運転席には眼鏡を掛け
た私服姿のリツコがハンドルを握っている。その後部座席には、真っ白なシャ
ツに少女趣味なスカート姿のマヤと、少々顔色の優れない大和の姿。
「センパイ? そういえば、副指令はどうしたんですか? 集合したときに姿
が見えませんでしたけど」
研修に参加する者は全員で一度本部に集まってから、車に分乗して目的地に
向かう事になっていたのだが、その中に冬月の姿が見えなかった事を気にして
の質問らしい……。ちなみにユイやゲンドウの姿もなかった……。
「副指令? フフッ……碇司令達と一緒に電車で来るそうよ。みんなの運転が
そんなに信用できないのかしらね」
そう言ってリツコは愉快そうに笑った。
「へえ〜、そうだったんですかぁ」
助手席に身を乗り出すようにしていたマヤは納得したようにこくこくとうな
づいたが、隣にいる大和の顔色が悪くなったのに気づいて声を掛けた。
「大和君……どうかしたの? 顔が真っ青よ」
「い、いえ……大丈夫ですから……」
元気ない笑みを浮かべて答えた大和の顔を、リツコが心配そうな顔でミラー
越しに覗き込んだのと同時に、リツコの車の真横を真っ赤な車が煽るように、
パスしていった。瞬間、リツコの表情が豹変する。
「あ〜ら、いい度胸してるじゃない。ミサトっ!!」
「セ、センパイっ!! 顔が怖いですぅぅぅぅ」
リツコはマヤの言葉もお構いなしに、ぐんと力一杯にアクセルを踏んだ。
どうやら、ハンドルを握ると性格が変わってしまうらしい……。
「……ううっ……気分が……」
大和は運転席に身を乗り出したマヤの隣で、具合が悪そうに屈みこんだ。
そんな2台の車の前を走っているのは加持の車である。
助手席に日向、その後部座席には青葉がいるのだが、出発してからずっと硬
い空気が流れっぱなしだった……。
どうしようか迷いつつハンドルを握る加持の真横を、ミサトの車がものすご
いスピードですり抜けてゆき、続いてリツコの車があざ笑うかのように加持の
車を軽くパスしていった。
「リッちゃんもハンドル握ると性格変わるからなぁ……」
そのふたつのシルエットをハンドルを握ったまま、加持は唖然と見送る。
「加持さん、負けてられないっすよ。行きましょう!」
さっきまでの沈黙が嘘のように、後部座席の青葉が身を乗り出して加持の肩
をポンッと叩く。
「そうですよ。男のすごさを見せつけてやりましょう!」
続けるように助手席の日向が続けた。その拍子に日向と青葉の目が合ったが
一瞬の沈黙を置いて、やがてどちらからともなく笑みを浮かべた。
「ほ〜ら」 と青葉。
「加持さん!」 とは日向。
加持はじっと前方のシルエットを目で追っていたが、ぎゅっとハンドルを握
り締めると思いきりアクセルを踏んだ。
「よ〜っし。たまにはオレの本気も見せてやるっ!」
「そうっすよ、加持さんっ!」
加持の車は徐々にスピードを上げてゆき、2台の後ろに迫っていった。
こんな休日もたまにはいいかもしれないな……と男達は思った。
○『SCENE3 〜天使は西からもやってくる〜』
後ろ髪を引かれる思いで短大を後にしたレイは、一度自宅のマンションに戻
った。机の上に置かれていたリツコの書き置き……といっても、乗らなくては
いけない列車の時間や降りる駅を書いたもの……を丁寧に折りたたんでバッグ
にしまうと、お気に入りの水色の傘を持って部屋を出た。
「……とうとう降り出しちゃったわね……」
すっかり真っ暗になった空から降り落ちる雨滴に向かって残念そうに呟く。
けれど、今から向かう先にはリツコ達が待っている……そう思うと、心の中
は梅雨の合間の晴れ間のようにサーッと晴れ上がった。
ベージュの麻のジャケットのポケットにはリンゴがひとつ……。
冷蔵庫に入れておこうかと思ったものの、結局持ってきてしまったらしい。
レイとリツコの住むマンションがある街の駅から大学の方とは反対周りに電
車で15分ほど行った駅……そこは各地方へ向かう列車が全て集結するターミ
ナルになっている。そのためにリツコ達と何度か来た事のあるレイでも迷って
しまうくらいにいつも人の混雑は激しかった。
「……!?」
地下通路からホームへ向かおうとしたレイの視界にひとりの少女の姿が入っ
てきた。髪を両サイドでおだんご状にかわいらしくまとめ、くりっとした瞳が
印象的な、大きな旅行鞄を両手に提げた少女。ガイドブックらしい小冊子を手
にしているトコロを見ると、どこかの地方から出てきたらしい。
突然彼女がレイの方を見た。当然目と目が合う。けれどもレイは目を逸らし
てしまった。どれくらいの間そうしていただろうか、近づいてきた人の気配に
レイはハッとしたように顔を上げた。
「……あ、あの〜〜ちょっとお聞きしたいのですが〜〜」
背中の方から申し訳なさそうな、けれども輪郭のはっきりとした少女の声が
聞こえる。意を決してレイが振り返ると、さっきの旅行鞄の彼女が立っていた
……。
「たぶん、私より歳下ね……」
随分幼く見える彼女を見て、レイは思った。
「……っていう駅に行きたいんですけど……どうやって行けばいいんでしょう
……? 第3新東京市に来るの初めてで迷っちゃって……」
照れくさそうに頬を掻きながら彼女は言った。その駅ならば、レイの通う短
大の最寄りの駅だったからよく知っていたので、レイはやさしく微笑むと、そ
ばにあった路線図を指さしながら丁寧に行き方を教えはじめた。乗り換える駅
の名前、そこまでに要する時間、電車の色……それはそれは丁寧にレイは説明
した。さすがに、くどくないかしらと不安になって彼女の方を見ると、彼女は
レイの言葉を復唱しながら一生懸命にメモをとっていた……。
そんな彼女の様子にレイは思わず嬉しくなる。
レイの講義は約10分間続いた……。そして−−
「ご丁寧にどうもありがとうございます……助かりましたぁ」
髪を大きく揺らせて少女が頭を下げた。
「……ううん……気をつけてね……」
レイが微笑みながらそう言うと、彼女はニッコリと笑い、小さく手を振って
からレイに背を向けた。歩いては振り返り、歩いては振り返ってレイに頭を下
げる少女に、その都度微笑みを返すレイ……。そんな事を何度か繰り返して、
彼女は人混みの中に飲まれていった。
「……大丈夫かしらね……」
レイはしばらく心配そうに彼女の行った先を見つめていたが、ふと我に返っ
て腕時計を見た。乗るはずの列車の時刻も迫ってきている。レイは慌ててホー
ムへ足を向けた。けれど、なんだか胸騒ぎがしてクルリと振り返る。
すると、さっきの彼女がおぼつかない足取りで、きょろきょろと辺りを見回
しているのが見えた。どうやらホームがどこか分からないらしい。心配そうな
表情を浮かべたと同時にレイは声を上げた。
「あっ……!?」
少女が若い男とぶつかって転んだのだ。けれどその男は少女を助けおこそう
ともせず行ってしまう。レイは少し考えてから、素早く彼女に近づくと困惑顔
の彼女に手を差し伸べた。
白く透き通るような肌のすらっとした腕に、しなやかな指先。転んだ彼女は
しばらく呆気に取られたようにぼんやりとそのレイの手を見つめていたが、ち
ょこんとかわいらしく頭を下げると、その手をとった。
「……すみません……」
珍しい蒼銀の髪をした真紅の瞳の少女の手のひらは、ひんやりと冷たかった
けれど、なぜかあたたかい気持ちになれるような気がした。
彼女を助け起こしてから、レイは彼女の大きなカバンを拾い上げ、埃を祓い
落とすと、ゆっくりとそれを差し出しながら彼女に言った。
「……一緒に……着いていってあげるわ……」
一瞬、微笑んだように見えたのは少女の気のせいだったのだろうか。いや、
気のせいなどではなかった。蒼い髪の彼女は確かに口元に微笑みを浮かべてい
た。少女を少しでも安心させようとするかのように……。
「で、でも……」
けれど少女は戸惑う。「人に迷惑を掛けてはいけない」彼女はそう自分に言
い聞かせて育ってきたからだろうか。それとも、無関心、無愛想に慣れてしま
ったこの世界には珍しいタイプの人間に出会ったからだろうか。
恐らく後者であろう。さっき転んだときも、助けてくれたのは彼女だけだっ
たし、少女自身もまさか助けてもらえるなんて思っていなかったのだから……。
「こっちよ……」
蒼銀の髪の彼女は少女の戸惑いを気にもしないように、いや照れくさくなる
のを隠すかのようにスタスタと歩き始めた。
「あ、待って下さいっ……!」
少女は大きなカバンを提げて、蒼銀の髪の彼女の背中を追ってゆく。
やがて、ふたりの姿は大きな人波に飲み込まれていった……。
○『SCENE4 〜やさしさのかけら〜』
陽が暮れたので準備も今日はお開きという事になったため、アヤが家に帰ろ
うと短大の門を出ると、それを待っていたかのようにどしゃ降りの雨が襲って
きた。日頃はプロレス雑誌の立ち読みくらいにしか寄らない近くの書店に慌て
て駆け込んだアヤは体をハンカチで拭いてから、背負っていたデイバッグから
青い折り畳み傘を取り出した。
それを取り出しながら、アヤはクスッと笑う。今朝、ミオから電話があって、
雨が降るかもしれないから傘を持ってくるように、と釘をさされた事を思い出
したのだ。
家を出る際に降っていなければ絶対に傘を持っていかないアヤ。6月になっ
てから、何度も濡れネズミとなって教室へ飛び込んでくるアヤの姿に、ミオが
気を利かせてくれたらしい。
「まるでおふくろと一緒にいるみたいだな」
アヤはそう苦笑いしながら、レイ達と一緒に買いにいったお揃いの青い傘を
開く。すると傘の向こうからこんな声が聞こえた。
「あぁ……やっぱり傘持ってくるんだった……。朝は降ってなかったから、油
断しちゃったなぁ……」
アヤが開きかけた傘をよけて声の方を見ると、そこには淡いブルーのジャケ
ット姿の青年がハンカチで服に着いた雨の滴を拭っている姿があった。
「せっかくもうちょっとで着くトコロだったのになぁ」
うらめしそうに真っ暗な空を見上げながら青年は言う。そんな青年の横顔を
黙って見ていたアヤは少し考えてから、青年に向けてこう言った。
「……どこまで行くんだい?」
彼は少し驚いたようだったが、アヤの方を見てニコリと微笑うと
「ちょっと先の喫茶店なんだけど……」
と答えた。するとアヤはすっと一歩、雨の空の下を踏みだした。
「……入れていってやるよ。暇だからさ……」
青年はかなり驚いたようだった。ナンパするのには慣れてはいたが、逆ナン
パされるとは思ってもいなかったからだろうか。
「……こら、行くのか、行かないのか? どっちなんだよ!」
なかなか返事をしない青年に痺れをきらしてアヤが言う。
「あ、ご、ごめん。入れてもらうよ」
青年は慌てて、アヤの傘の下へと足を踏み入れた。と同時にアヤはゆっくり
と歩き始める。端正な整った顔立ち、短く切りそろえた髪。その辺りの少女達
とは随分雰囲気の違った少女だなと彼は思った。
「やさしいんだな、君は……」
軽く微笑んで青年が言う。
「……あいつらのが伝染ったのかもな」
少し考えてから、苦笑いしてアヤは答えた。彼女の脳裏には、いつも仲良く
一緒にいるふたりの少女の顔が浮かんでいるのだろうか……。
「えっ?」
「……なんでもないさ……」
アヤは楽しそうに笑って、空を見上げた。
西の空が明るく、雲の流れも速い……。雨ももうじき上がるだろう……。
アヤは嬉しそうに微笑うと、傘の柄をグッと握り直した。
○『SCENE5 〜そのままの君でいて〜』
「大和君……だいじょうぶ……?」
膝をついた体勢で、気分が悪そうに廊下にうずくまる大和を、マヤが心配そ
うな顔で覗き込んでいる。傍らにはリツコが申し訳なさそうな顔で立っていた。
「ほんっと、リツコって車に乗ると性格が変わっちゃうんだから。かわいそう
な大和クン」
ミサトが壁にもたれたまま、皮肉めいた口調で言った。
「元はといえば、ミサトが煽ったりするからいけないんでしょ!」
「あら? それにノってきたのはリツコじゃない?」
「だいたい貴方があんな煽り方をしなければよかったのよ!」
「私のせいだっていうの?」
今にも爆発しそうなふたりを制するようにマヤが珍しく強い口調で言う。
「センパイっ! 喧嘩するのならあっちに行ってて下さいっ!」
「……ご、ごめんなさい……マヤ……」
「ご、ごめん……」
ミサトとリツコは申し訳なさそうに頭を下げた。それとほぼ同時に、うずく
まっていた大和がゆっくりと顔を上げる。
「僕なら大丈夫ですから……自由時間、楽しんできて下さい」
ゆらゆらとよろめきながら大和は立ち上がった。
「伊吹さん……いろいろとありがとうございました……。ちょっと、ひとりで
その辺を歩いてきます」
「そ、そう……? 気をつけてね……」
大和は一生懸命笑みを作って微笑むと、ふらふらと廊下を歩いていった。
そんな大和の背中をリツコは心配そうに見送る。
「そんなに心配だったら、着いていけばいいのに」
皮肉めいた口調でミサトが悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「そ、そ、そんな事出来るわけないでしょ! ……そ、それに……ひとりで行
きたいみたいな事言っていたし……」
リツコは板の間の廊下にスッと視線を落とした。
「センパイっ、顔が真っ赤ですよ。ま、まさかセンパイも車酔いしちゃったん
ですか?! 私、いいクスリ持ってきてるんです。今出しますね(ハアト)」
ごそごそと鞄を漁るマヤ。ミサトがクスクスと声を殺して笑う。
「ち、違うわよっ……!」
リツコはそう言うとクルリと踵を返して歩き始めた。
「ま、待ってください〜っ! センパイっ、本当に大丈夫なんですかっ?」
「大丈夫だって言ってるじゃない、マヤっ!」
そんな二人の背中を見つめながら、ミサトは楽しそうに笑った。
『ずっとこのままでいれたらいいわね……』
ふと、そんな事を思う……。
平穏で平和で何事もないような日々。
それが彼女が望んでいたものだっただからだろうか……。
○『SCENE6 〜恋せよ乙女〜』
レイは少女と共に喫茶店にやってきた。少女の目的地はあのジャンボパフェ
の『喫茶ろまねすく』だったらしい……。乗るはずだった列車は既に出てしま
っているし、その後の電車もこの時間だともう数が少ないはず……けれどもレ
イは彼女を見捨てることは出来なかった……。それは彼女が昔の自分に少しだ
け似ていたからかもしれない……。
糸の切れた凧のように……自分の居場所を求めて広い空を漂っていた昔の自
分……。あの頃、そんなレイを繋ぎとめてくれたのはシンジであり、アスカで
あり、リツコ達であった……。レイは彼ら彼女らにどれだけ感謝したことか…
…。いつかそのお返しをしなければとレイはいつも思っている。だからだろう
か……レイが自分に似たこの彼女に構いたくなるのは……。
それはともかくとして、驚くべき事に彼女はレイと同い歳であった。驚きを
隠せず声を上げたレイに少女は笑ってこう言った。
「やっぱり幼く見えるかなぁ……でもこの方が『私らしい』ってだ〜りんも言
ってくれたし」
ニッコリと微笑む彼女を前にレイは首を傾げたものだ。
‥ だ〜りんって何者なのかしら…… ‥
少女の口から何度となく繰り返されるその言葉。38回目で、レイはようや
く『だ〜りん』という言葉が、『彼氏』『恋人』などと同義語だという事を知
った。
聞けば彼女は、遠い西のとある街から、この街にいるその彼に逢いに来たと
いう。こうまでして逢いたくなる、逢えない時間が増えれば増えるほど不安に
なると語った彼女の心理が、レイには今一つよく分からなかった。
それはレイの想い人はいつも彼女のそばにいてくれたからかもしれない……。
会話を交わしながら歩いているうちにふたりは目的の喫茶店に着いた。重い
木製の扉を開くと、扉に付けられた鈴がチリチリと心地よい音を奏でる。
「いらっしゃいませ。あら、レイちゃん?」
いつもと変わらぬ気持ちよいウェイトレスの優美の声。ちょこんと頭を下げ
てから店内を見回してレイは驚いた。カウンターにアヤの姿を見つけたからだ。
そして、その隣には見慣れぬ若い男。一瞬、大和かと思ったけれど、よく見る
と違った。ふと殺気を感じてレイは隣の彼女の方を見た。彼女の小さな肩が小
刻みに震えている。
「あ、あの……」
レイが声を掛ける間もなく、彼女は青年の前につかつかと歩み寄った。椅子
から立ち上がって硬い表情で彼女を待つ青年。どうやらこの青年が彼女の話し
ていた『だ〜りん』なる者らしいと、レイは気付いた。
少女は青年の前に立つと、ぐいと青年の顔を見上げた。
「やっぱり浮気してたのねっ!」
「ちょ、ちょっと何言ってるんだよ……」
青年はかなり戸惑っているようである。
「だ〜りんが浮気してるってハナシ、やっぱりホントだったんだ!?」
「あ、あのなっ……彼女は……」
「あ〜っ、もうっ! 言い訳なんか聞きたくないわっ! やっぱり離れている
とダメなのねっ! もういいっ……だ〜りんなんて信じないんだからっ!」
彼女の後ろで見ていたレイは思わず息を呑んだ。駅でおたおたとうろたえて
いた少女と同一人物とは思えなかった。
「仕事が忙しい、忙しいとか言って、ホントはいつも他の女の人と会ってたん
でしょ! そうよ、そうに違いないわっ!」
「あのな……話を……」
青年はかなり戸惑っているようであった。顔が明らかに困惑している。
「もうだ〜りんなんて知らないっ! 私……帰る……」
彼女はくるりと出口の扉の方へ振り返った。青年は何も言わなかった。いや、
何も言えなかった……。レイも、そして優美もどうすればいいか分からなかっ
た。だが、ただ一人、彼女を呼び止めた者がいた。
「……ちょっと待てよ!」
じっとカウンターのテーブルを見つめて、話を聞いていたアヤである。
少女は怪訝そうな顔で振り返った。アヤは皆が息を呑んで見つめる中、静か
に彼女に近づくと、パンと少女の小さな頬を張った。
「話を聞いてやってもいいだろ。少し落ち着けよ」
ハリのある強い口調でアヤは言う。
「な、な、何をっ!」
少女は負けまいとするかのように、ギロッとアヤを睨みつけた。
「あのな……全部あんたの勘違いなんだよ。オレはそいつと逢ったばっかだし、
傘に入れてやった礼にコーヒーをごちそうになっただけさ。それにオレはそ
こにいるレイとも友達だ。俺に男っ気がないのは、レイもよく知ってるはず
さ……なっ?」
少女が驚いたようにでレイの方を見たので、レイは彼女を安心させるように
こくりと縦にうなづいた。途端に少女の顔が真っ赤に染まる。
アヤは真っ赤に染まった少女の顔を見ながら、軽く微笑んで言葉を続けた。
「『信じられない』なんて悲しい事言うなよ……。こいつ、ずっとあんたの事
心配して待ってたんだからさ……。傘持ってきてるか、とか……ちゃんと電
車に乗れたか、とか……ここで待ってる間、ず〜っとアンタの話ばっかだっ
た……。……おかげでこっちが恥ずかしくなっちまったよ」
アヤは少し照れくさそうに笑った。レイと優美はホッとしたようにお互いの
顔を見合わせる。
「……というわけで、久しぶりに逢うんだろ。この後の予定、結構考えてるら
しいぜ」
悪戯っぽい口調でアヤがそう言うと、少女は少し驚いたように青年を見た。
青年は少し照れくさそうに、床上に視線を落とす。
「あ、そうそう……かなりのヤキモチ妬きっていうのも納得できたよ」
アヤが笑って言うと、少女は少し恥ずかしそうに顔を伏せた。そんなふたり
を見ながら、アヤがレイを見てクイッと顎をしゃくる。レイはその合図の意図
を察したのか、やわらかに微笑み返すと、目の前の少女の小さな背中をそっと
押した。
「……あっ……!?」
少女が青年の前に押し出される。少女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「よ、よう……」
青年が照れくさそうに頬を掻く。
「……ごめんなさい……痛かったでしょ……。私馬鹿力だから……」
「……い、いや……うん……」
「ごめんなさい……」
沈黙。
「……あのね……!」
「……あのさ……!」
沈黙。
しばらくの沈黙の後、青年は窓の外に視線を逸らしてひとりごとのようにつ
ぶやいた。
「……その……なんて言っていいか分からないけど、しばらく見ないうちに…
…随分綺麗になったよ……」
「……そ、そっかな……」
「あ、あぁ……。その髪型も似合ってるしな」
頬を真っ赤に染めたふたりを見て、アヤがひょいと肩をすくめて笑う。
「ったく、付き合ってらんないね。続きやるんなら、他の場所でやってくれよ」
「ご、ごめん」
「ごめんなさいっ……!」
ふたりが真っ赤な顔のまま慌てたように言ったので、アヤもレイも優美も楽
しそうに笑った。
既に陽も墜ちてしまった窓の外の雨は……いつの間にか上がっていた……。
○『SCENE7 〜素直になれなくて……〜』
さて、例のカップルがレイとアヤに何度も礼を言って去ってしまった後の『
喫茶ろまねすく』の店内。店の外には『CLOSED』の看板が下げられてい
る。
けれども店内に漂う挽きたてのコーヒーの香ばしい香り……。
マスターがサービスしてくれたそのコーヒーをすすりながら、アヤとレイが
カウンターの席に腰を下ろしていた。
「アヤちゃんもレイちゃんも……あのふたりがうらやましかったんでしょ?」
ふたりの前でカップを磨いていた優美が悪戯っぽく笑う。
「……そ、そんな事……まあ、少しはあるけど……」
アヤが少し照れくさそうにそう答えると、レイは驚いたようにアヤの横顔に
視線をやった。
「へえ……アヤちゃんにそんな人いたんだ〜」
「ば、ば、ば、馬鹿言わないでくださいよ〜。いませんって……!」
アヤが優美の探るような視線から顔を背けると、じーっと自分を見つめるレ
イのルビー色の瞳とぶつかった。
「……あ、あのな……誤解されないように言っとくけど、本当にいないからな
!」
ぷいと頬を真っ赤に染めて顔を背けるアヤを、レイはかわいいと思った。
「……それはそうとして、レイ、お前、時間は大丈夫なのか?」
レイの足元の鞄に気付いたアヤが思いだしたように言うと、レイは「しまっ
た」といった表情を浮かべた。そしてそれはすぐに不安の色へと変わる。
「この時間じゃ、もう電車はダメだろうしな……。車で飛ばすしかないか……」
「なになに、どうかしたの?」
片付けで席を外していた優美がふたりの間から首を突っ込む。不安げな表情
のままのレイに代わって、アヤが一部始終を説明した。
「……それは一大事ね……。大丈夫、こんな時にしか役に立たない便利な奴に
心あたりがあるから、任せて」
説明が終わると、優美はぽんっと景気よく胸を叩いた。
「多分、今は近くにいると思うんだけど……」
優美は店の公衆電話のボタンを慣れた手つきで押した。すぐに回線を切った
所をみると、誰かのポケットベルのようだ。
ものの数分でその持ち主はやってきた。『あの』おしぼり屋の青年であった。
「優美、何か用か? また、送って帰れとか言うんじゃないだろうな? いい
加減にしてくれよな〜、俺も暇じゃないんだからさ〜」
と言いながらも、なんだか嬉しそうに見えたのはレイの気のせいなのだろう
か。
「あっ……まだ客がいたのか……失礼」
青年は恥ずかしそうに頬を染めると、ちょんと頭を下げて挨拶をした。
「このふたりの事で頼みがあるのよ」
「んっ? デートなら年中受け付け中だけど? でも、どちらかといえば、い
つも一緒にいるあの髪の長いおとなしそうな子が好みなんだけどなぁ」
「何言ってんのよっ! あんたはっ!!」
パシコ〜ンと今日も華々しく優美のハリセンが飛んだ。
「痛ぇ……冗談だよ、冗談。そんなに怒るなよな……」
「あんたが言うと、冗談に聞こえないのよっ! ……まあ、それはともかく、
ここにいるレイちゃんをある場所まで送ってあげて欲しいのよ」
「どこまで?」
「ほら、最近人気のあの温泉地よ。あんたも前に行きたい、って言ってた……」
「あそこ〜? 駄目だ、駄目。俺の車じゃあ、あの途中の坂で止まっちまうよ」
「確かにあのボロ車じゃ仕方ないわね……。いい加減買い換えなさいよ」
「買い換えるだけの金と契約があったら、お前がこんなトコで出稼ぎしてるは
ずないだろ」
「それもそうね……って、嫌な事思い出させるんじゃないわよっ!」
パシコ〜ンとまた景気よくハリセンが飛んだ。
「いやぁ……漫才見てるより面白い」
そう言ったアヤの隣でレイがこくこくとうなづく。優美の顔が赤く染まった。
「分かった分かった。ひとり心当たりがあるから、頼んでみるよ」
そう言うと青年は店の公衆電話からどこかへ電話を掛けた。
「なぁ、そこをなんとか頼むよ……」
彼の話しぶりからして、相手は少々渋っているようである。優美がマスター
に呼ばれて店の奥に消えたのを見計らって、青年は小声でこう言った。
「……優美のお願いなんだけどなぁ……」
その言葉でようやく話はまとまったらしい……。
「おっ、もう来たか……」
青年が扉の外を見てひとりごとのようにつぶやく。レイとアヤには何も聞こ
えない。しばらくして、けたたましいエンジンの音が聞こえてきて、それがピ
タリと店の前で止まった。
「ほら、行こうか」
青年に促されてレイ達が外に出ると、ヘルメットを脇に抱えた、黒のライダ
ースーツの青年が、巨大な黒塗りのバイクの傍らに立っていた。
彼は青年を見て、ぐっと親指を立てる。
「よっ、真人間強化週間はまだ続いてるのか?」
バイクの男に向かって、おしぼり屋の青年は言った。
「もちろんさ……。そのせいで最近忙しくってね。……で、荷物ってのは?」
「女の子をひとり、温泉地までな」
「お易い御用さ。ところで、優美ちゃんは?」
バイクの男は首を伸ばして店内を覗き込む仕草を見せた。
「今店の中にいる。心配するな、ちゃんと優美には宣伝しておくから」
「頼むぜ……じゃ、行くとしますか。ほら、ここに乗って」
青年はバイクに跨ると、レイを後ろのシートに促した。
レイはこわごわとバイクに近づくと、アヤの助けを借りて、ちょこんと腰を
降ろす。バイクに乗っているというより、乗られているという感じだ。
「しっかり捕まっててくれよなっ。かなり揺れるからさ」
青年がヘルメット越しに言うと、レイは青年のライダースーツ越しに回した
腕にぎゅううっと力をこめた。
「痛い、痛いっ……そんなに力入れなくても、もう少し緩めても大丈夫だよ」
「ご、ごめんなさい……」
レイが手の力を緩めるとほぼ同時に、バイクのエンジンが回り始める。
「じゃ、確かに預かったぜ。そんじゃ!」
おしぼり屋の青年に軽く手で合図をすると、バイクは唸りを上げて、走り去
って行った。それとほぼ同時に普段着に着替えた優美が店から出てくる。
「あれ? もうレイちゃん行っちゃったんだ? 誰が連れていってくれたの?」
優美が青年に尋ねると、青年は自分の車の方に足を向けながら、ぶっきらぼ
うにこう答えた。
「通りすがりの親切なバイク好きの男さ」
アヤは思わず噴き出す。青年はそれを横目で見て、少しぎこちない仕草で運
転席に乗り込んだ。
「で、お前はどうするんだ? 帰るのか?」
「ついでだから、乗って帰ってあげるわよ。その代わり、一度でもエンストし
たら、遠慮なくハリセンお見舞するからねっ!」
「だったら乗らなきゃいいだろうが!」
「あんたがとっとと車を買い換えればいいでしょ!」
「ったく、さっさと乗れよ!」
「乗ってあげるわよっ! じゃあね、アヤちゃん」
アヤは意固地なふたりの言動に笑いをこらえながら、手を上げて答えた。
アヤの目の前を今にも壊れそうな音を響かせながら、青年のワゴン車が走り
去る。そのテールランプを、アヤはじっと見つめていたが、やがてクスッと微
笑むと、店の外の傘立てに立てかけてあった青い傘を取って弾むように歩き始
めた……。
空には一番星らしき星がきらきらと瞬いている。
ふと誰かに会いたくなった……。
○『SCENE8 〜NITE&DAY〜』
「へえ……マイクロバスを改造して診療所にしてるの? 珍しいわね……」
「い、いやあ……そんな事は……」
浴衣姿でうつぶせになったリツコの背中を、タオル越しにマッサージしてい
た作務服姿の眼鏡を掛けたマッサージ師は照れくさそうに笑った。
「へえ、そういえば何度か前を通った事があるわねぇ……。何だろうと思って
たけど、マッサージ屋さんだったんだぁ」
缶ビールを美味しそうに飲み干しながらミサトが言う。リツコより一足先に
マッサージしてもらってスッキリしたのか、とても上機嫌だ。
「それにしても、チョーシに乗って、アスカ達とテニスなんてするんじゃなか
ったわ〜」
アスカとシンジのペアと張り合えたのも最初の数分。最後はバタバタの有様
でもはやテニスと呼べるものではなかったらしい。
「さすがのミサトもアスカの若さにはついていけないか」
柱にもたれて窓から部屋の外を見ていた加持が笑った。
「……何か言った!?」
「いや、別に……」
ミサトの鋭い視線から逃げながら、加持はひょいと肩をすくめる。
そんな二人を見て、クスッと笑いながらも、マッサージ師は決して手を緩め
ようとはしない。仕事に妥協はしないのが彼のポリシーなのだ。まあ、その反
動か私生活では多少ズボラな面もみられるようだが……。そんな所はミサトと
似ているのかもしれない。
「それにしてもこんな所まで呼ばれるってことは、すごく腕がいいのね……」
気持ちよさそうに目を細めてリツコが言う。瞬間、マッサージ師は嬉しそう
な表情と複雑な笑みを同時に浮かべた。
「違うんです。向こうで仕事がないから、わざわざこんな片田舎の温泉地にま
で来たんだよね、おと〜さん」
少し甲高く、輪郭のはっきりとした少女の声。リツコとミサト、そして加持
が驚いて振り返ると、一人の少女が微笑みを浮かべて立っていた。
透き通るような白い肌に抜群のプロポーション。アスカがいたならば、おそ
らく対抗心をメラメラと燃やした事だろう……。けれどもそれ以上にミサト達
の目を引いたのは、その紅い瞳だった。
「あ、私、池波サキっていいます。おとさんの助手っていうか、お手伝いして
ます。今後ともウチの指圧屋をよろしくお願いしますねっ」
驚くミサト達に向かって、サキはペコリと深く丁寧に頭を下げた。ポニーテ
ールにした黒い髪がふわりと揺れる。
「あ、うん……よろしくね……」
ミサトはそう答えると、ちょっと太目のマッサージ師を見た。その若いマッ
サージ師は3人の視線に気付くと、照れくさそうに頬を掻いた。
「僕みたいな若いマッサージ師はなかなか認めてもらえなくて……」
人の良さそうなその青年は人なつっこい笑みを見せる。リツコは正面の鏡越
しにその顔を見つめていたが、やがてやわらかに微笑んだ。
「結構……いい腕してると思うけど?」
「ホントにそう思いますぅ?」
青年より先に少女が身を乗り出して、リツコの顔を覗き込みながら尋ねてき
た。リツコはやさしく微笑んでから、しっかりと縦にうなづく。
「ええ、思うわ」
リツコがそう言うと、サキは顔一面に笑みを浮かべた。
「ねえ、おと〜さん、いい腕してるだって、よかったね」
グイグイと青年の袖を引くサキ。
「繰り返さんでも聞こえたって……」
迷惑そうにサキに答えながらも、青年の顔は嬉しそうである。
「今度、ウチの職場の人間にも紹介しておくわ」
こんなふたりをなんとかしてやりたいと思ったのか、リツコは不意にそんな
提案を口にした。
「確かにリツコの一声は効くかもねぇ」
缶ビールを片手に、加持を足蹴にしながらミサトが言った。
「こういう仕事していると、意外と肩や腰に負担がかかってくるものなのよ。
きっとみんな喜んでくれると思うわ。若い人は若い人に診てもらった方がい
いでしょうしね」
「どうもありがとうございます!」
青年は鏡越しにリツコに頭を下げた。ミサトと加持がそれを見て微笑む。
「でも、おと〜さん……」
サキがくいくいとマッサージ師の袖を引いた。
「なんだ?」
「いそがしくなると、大好きなロボットアニメ見てる暇がなくなっちゃうね」
悪戯っぽい口調でサキは笑った。リツコが思わずプッと吹き出す。マッサー
ジ師は恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めた。
「お、お前は〜っ!」
サキが悪戯っぽく笑ってタタッとどこかへ駆け出す。青年はリツコの背から
手を離してサキの後を追った。サキは人の動きとは思えないくらいに軽やかに
身を翻して部屋を出てゆく。
そんなふたりの姿を見て微笑むリツコとミサト。
「妹さん?」
ぜいぜいと息を切らせながら帰ってきた青年にリツコが聞いた。
「い、いえ……違いますけど……」
「じゃ、よっぽど好かれているのね」
「まさか……?!」
「私にはそう見えるけど?」
そう言ってリツコは楽しそうに微笑った。ポニーテールの少女の横顔に、同
居人である蒼銀の髪の少女の姿を重ねているのだろう……。
そんな友の横顔を見ながら、ミサトはいい顔で笑うようになったものだ、と
嬉しく思うと同時に、徐々に綺麗になってゆく金髪の彼女に少し嫉妬した。
「ほ〜ら、行くわよっ!」
「うわっ! こんなの取れないよ〜アスカぁ〜」
「男なら簡単に泣き言言うもんじゃないわよっ! だらしない」
ここは旅館の一階にある娯楽室。温泉旅館には付き物の卓球台を前に、湯上
がりらしい浴衣姿のシンジとアスカがラケットを手に一戦交えている所であっ
た。
「ほ〜ら、次行くわよっ!」
卓球台を睨むようにグッと体勢を低くするアスカ。その拍子に浴衣の胸元か
らちらりと豊かな谷間がのぞき見える。思わずそっちに目が行ってしまうシン
ジ。まぁ、男ならば仕方ないであろう。
『バカっ! 何やってんのよっ!』
アスカの声が聞こえてシンジが我に返ると、目の前に白球が迫ってきていた。
「あうっ……!」
避けきれずにピンポン玉がシンジの顔面に命中する。シンジはパタリと仰向
けに倒れた。……自業自得である……。
「ちょ、ちょっとしっかりしなさいよねっ!」
ゆさゆさと上半身を揺すられて目を開けたシンジの目に飛び込んできたのは、
またもやアスカの胸元。しかも、身体を揺すられる度に頬にやわらかな感触。
「……もう死んでもいい……」
シンジがそう思ったかどうかは定かではない……。
「……うらやましいよな」
「ああ……」
とは、やはり浴衣姿でその光景を見ていた青葉と日向の声である。
「ねえ、ふたりで何を見てるの〜?」
湯上がりらしい浴衣姿のマヤが頬を上気させて、ふたりの間に割り込んだ。
けれども気付いた素振りのないふたりの様子に、マヤはふたりの視線を目で追
った。その行き先は、もちろんシンジの頬に擦り寄せられているアスカの胸、
である。
「……フケツ……」
ぼそりと呟いてその場を立ち去ろうとするマヤに、ようやく日向が気付く。
「あ、い、伊吹さんっ?」
「え、マヤちゃんいたのか?」
そんな二人の声にマヤはクルリと振り返った。
「どうせ私はアスカより胸がないですよ〜だ!」
べーっと大きく舌を出すマヤ。その仕草がなんともかわいらしい。
「ちょ、ちょっとマヤちゃん、待ってくれよ!」
「い、伊吹さんっ!」
頬をぷぅ〜っと膨らませてずかずかと歩いていくマヤの背中を追うふたりの
男。このふたりに明日はあるのか……?(笑)
さて、アスカの胸の感触でようやく我に返ったシンジであるが、ゆらゆらと
立ち上がりながら、ふと真紅の瞳の彼女の事を思い出したらしい……。
「そういえば、綾波大丈夫なのかな……?」
ボーッと壁の時計をシンジは見上げた。リツコにこっそり教えてもらった到
着するはずの時間は既に1時間以上過ぎてしまっている。
「シンジ……何ボーッとしてんのよ! あ……またファーストの事考えてたで
しょ!」
ギロリとアスカがシンジを睨む。
‥ どうして女の子はこんなに鋭いのだろう…… ‥
思わず感心するシンジだったりする。
「今日と明日は、私の言う事聞く約束なんだからね、分かってる?!」
アスカは強気な口調でそう言って、頬をほんの少しピンク色に染めた。
「分かってるよ!」
どうやら、車の中で4回以上アスカの肌に触れてしまったらしい……。
「じゃ、サーブ打つからね。しっかり取りなさいよ〜」
「僕、一回もサーブ打ってないんだけど……」
「アンタにサーブ権なんてないの。私のサーブを受けていればそれでいいのよ」
‥ だって、そうしていれば私が止めない限りは 終わる事ができないもの‥
心の中でアスカはクスッと意地悪に微笑った。
「ほら、やるんなら早く打ってよ!」
アスカはシンジの声で我に返った。正面の少年の顔を見据え、シャープにラ
ケットを降り抜くと、乾いた音と共にピンポン玉が卓球台を跳ねてゆく。
栗色の髪の少女が愛して止まない……少年のハートへと向かって……。
『かぽ〜〜〜ん』
ここの旅館名物の露天風呂の湯気の中に妖しげなふたつの人影。
「やっぱりこれに限るな……碇」
お湯の上に浮かせたお盆からお猪口を取り上げてクイッと一杯やる冬月。
「ああ……全くだ……」
そう言ってゲンドウも同様にお猪口を傾ける。風呂に入るときくらい、眼鏡
を外せばいいと思うのだが、冬月は何も言わなかった。
それにしても、あからさまに親父趣味な光景である。
「それにしても碇……ぬるいな……」
「ああ……」
遠くに映える山の緑に目をやりながら、しみじみとゲンドウは言った。
「クワ〜ッツ!」
突然、水面からペンペンが飛び出してくる。けれどふたりは驚かない。
バタバタと足をバタつかせて嬉しそうに泳いぐペンペンをバックに酒を酌み
交わすゲンドウと冬月。なかなかお似合いな3ショットかもしれない……。
それぞれがそれぞれの時間を有意義に過ごしていた頃、ようやく車酔いから
回復したらしい大和は旅館の周りをてくてくと散歩していた……。
夜もとっぷりと更け、旅館から漏れてくる明かりの他には光らしい光は見あ
たらない。けれども空気の美味しさは格別で、大和はそのおかげで回復したよ
うなものだった。てくてくと歩く大和の視線の先に鋭い光が差し込んでくる。
車のヘッドライトかと思ったが、一個しかない所を見るとどうやらバイクのよ
うだ。
手を目の前にかざして光を避ける大和の真横で、そのバイクが止まった。
「あの、仙水館っていう旅館はここでいいんですか?」
ヘルメットを脱ぎながら、歯切れの良い口振りでそのライダーが言った。若
く浅黒い肌の色が印象的な青年だった。
「ええ、玄関はこの少し先ですよ……」
そう言ってバイクの後部シートへ目を移した大和は驚いた。
「あ、綾波さん……?!」
青年の背にもたれて、目を閉じたレイの姿が目に入ったからだ。
「あ、知り合いの方ですか? 途中で意識失っちゃったらしくて……。でもね」
苦笑いしながら青年は自分の腰の辺りを指さした。
「この通り、腕だけはこうやってしっかり繋いだまま、離してくれないんです
よ」
青年の言ったとおり、青年の腰に回された手はしっかりとレイの身体を支え
ていたのだった。大和は青年と目を合わせて、そして笑った……。
「……リツコさん……」
レイが寝言のようにつぶやく。
残念ながら、彼女が望んだ金髪の彼女は彼女を出迎えてはくれなかったけれ
ど満天の星たちがレイの到着を祝ってくれていた……。
○『SCENE9 〜Small Island〜』
時は進んで夜の10時を回った頃。旅館『仙水館』の客間で、レイがゆっく
りとその目を開けた……。
まず飛び込んできたのは、レイを覗き込むリツコの心配そうな顔。
そして身体を起こしてクルリと見回すと、シンジとアスカの心配そうな顔が
見えた。他にも見知った顔がいくつもある……。
ホッとしたような表情のユイとゲンドウ。喜びのあまり(少し大げさだが)
思わず涙をこぼすマヤの背中をよしよしとさする日向と青葉。早速お祝いの缶
ビールを開けようとして加持に止められているミサト。
逢いたかった顔ばかりだ……。
「よお〜っし……メンツも揃った事だし、いっちょ派手にやるわよ!」
「葛城さん……くれぐれもほどほどにね」
『やるな』と言わないあたりがネルフ司令・碇ユイたる所だろうか。
「任せておいてください。この葛城ミサト、宴会には命掛けてますから」
「仕事にもそれくらいの情熱を持って取り組んで欲しいものだな」
ユイの隣で腕組みしていたゲンドウがポツリとつぶやく。
「あっら〜ぁ? 碇司令、そんなに飲みたいんですかぁ? それならそうと早
くおっしゃってくれればよかったのにぃ〜」
ミサトはそう言って飲みかけの缶ビールを缶ごとゲンドウの口に押し込んだ。
「こ、くぁっか……きゃわつるわぎきゅん……」
何を言っているのかさっぱり分からない。ユイはそんな夫を見て、クスクス
と楽しそうに微笑っている。
「じゃ、みんな〜っ、宴会場に行くわよ〜!」
「お〜っ!」
真っ先に手を突き上げたのはマヤである。その隣で青葉と日向は頭を抱えて
いた……。
「また、始まるのか……」
「始まるんだろうな……」
「わ〜っ、イヤだ〜っ!」
「オレだって!」
こそこそと小声で話すふたりの目をじっと見てマヤが笑う。
「ほ〜ら、青葉君に日向君。宴会場に行こ」
この顔をされてはイヤとは言えないのが、男という生き物なのかもしれない。
ふたりは妙に乗り気なマヤに促されて部屋を出ていった。
そんな風に、突然活気づいた部屋の雰囲気に呆気に取られていたレイであっ
たが、誰かに肩を叩かれて、ふと我に返った。
「綾波……大丈夫?」
シンジであった。レイは思わず頬を赤く染めて、こくりと小さくうなづいた。
「そうか……良かった……」
シンジは安堵の表情を浮かべた。その顔を見ていると嬉しくなった。そして、
レイの胸の鼓動は一段と早くなった。
「バイクで来たんだって? どうだった?」
「……途中から気を失っていたから、あまり覚えてないの……」
申し訳なさそうに、恥ずかしそうにレイが言う。
「あ、そ、そうだったね……」
お互いに真っ赤な顔のまま、ふたりの間を沈黙が流れる。
『ゴホン……』
白々しい咳払いを聞いて、レイがそっちの方を見るとアスカが柱にもたれて
面白くなさそうな顔をしているのが見えた。アスカはレイと目が合うと、バツ
が悪そうにプイと顔を背けた。
「……そ、そうそう、一緒に宴会場に行こうよ。話したい事もたくさんあるし」
レイは頬を真っ赤に染めたまま、こくりとうなづいた。布団から抜け出して、
立ち上がる……けれど、まだ完全に身体の感覚が戻っていないのか、レイはふ
らりとよろめいてしまった。
「キャッ……!」
「あ、危ないっ!」
シンジが慌ててレイを支える。
そしてふたりは向かい合わせで見つめ逢うような体勢になってしまった……。
そうダンスを繰り広げるカップルのように……。突然の出来事に固まるふた
りは、まるで人形のようである。
『ゴホン……!』
その戒めを解いたのは、またしても栗色の髪の彼女の咳払いであった。
「ご、ごめん……!」
「……えっ……あ、ありがとう……」
どっちからともなく離れるふたり。顔はもう真っ赤である。
「い、行こうか……」
照れくさいのを隠すかのようにシンジが動き始める。レイは一度アスカの方
を見たが、アスカはレイと目を合わせるなり、顔を背けてしまった……。
レイはクスッと微笑む。なぜなら、そんなアスカの行動は女の子の自然な行
為である事を知っているから……。レイだって、シンジとベッタリなアスカに
意地悪してやりたいと思う時があるのだ。
レイは少し考えてから、シンジの右腕にすがるように飛びついた。
「あ、綾波っ? どうしたの、急に?」
戸惑うシンジに向かって、レイはただニッコリと微笑むだけ。
そして当然、痺れを切らした彼女がやってくる。
『ファーストっ! な〜にやってんのよっ!』
‥ ほらね…… ‥
レイは自分の中のもうひとりの自分に囁いて、そして微笑った……。
ちなみにこの夜の宴は、日が変わっても続き、終わったのは明け方前だった
という……。最後まで残っていたのは、言わずと知れたお祭り隊長と、飲んで
も飲んでも顔色一つ変えないネルフ司令官だけであった事を付け加えておこう
……。
『母は強し』という事だろうか……。
○『SCENE10 〜彼女にはかなわない〜』
翌日。研修会は昼過ぎで終了し、現地解散となった。とはいっても、ほとん
どの連中が二日酔いで使いものにならなかったらしい。女性陣はほぼ全員がケ
ロリとしていたのだけれど……。
さて、ここはレイの短大のある街の駅である。
「大丈夫? 大和君?」
リツコが心配そうな顔で大和の顔を覗き込む。また車酔いらしい。
「家まで送ってあげられればいいんだけど、急用で本部に帰らなくちゃいけな
くてね……申し訳ないんだけど」
「……ここからなら歩いても近いですし、歩いていれば直りますから……」
大和は元気なく笑った。笑顔が弱々しい。
レイは心配そうに大和とリツコを見ていたが、少し考えてからこう言った。
「私が途中まで送って行くわ……」
リツコが驚いたようにレイを見る。
「……昨日、お世話になったお礼……」
それを聞いて、大和は微笑んだ。彼もリツコからレイの過去を聞かされてい
たので、彼女のそんな言葉がどんなに貴重で素晴らしいものなのか知っている
からだ……。
「じゃあ、途中までお願いしようかな。赤木博士、早く行かないと間に合わな
くなりますよ」
それに同意するようにレイもリツコを見る。リツコは後ろ髪を引かれる思い
で車に乗り込んだ。
「じゃ、レイ……あとはお願いね」
微笑みながらも、一瞬心配そうな表情を浮かべる。
リツコが心配だったのは、レイに見送りが出来るかという心配だったのか、
それとも大和がレイと一緒に帰るという事なのか、それは今のところ定かでは
ない……。
「へえ……明日学園祭があるのか……。行きたいけれど、仕事があるしな……」
そう言って大和が苦笑いする。そういえば、リツコに学園祭の話をした時も、
かなり残念そうな顔で『仕事があるから……多分無理ね……ごめんなさい』と
謝ったのだった。確かに残念だったが、仕方がない。残念なのは、おそらくリ
ツコも同じなのだから……。
「う〜ん、それにしてもいい天気だな。梅雨だなんて嘘みたいだ」
大和がぐんと背伸びする。レイは真っ青な空を見上げてから、こくりとうな
づいた。時折会話を交わしながら歩くにつれ、大和の顔色も次第に良くなった
ようで、短大の前にたどり着いた頃にはすっかり元気になっていた。
「いつ見ても綺麗な学校だなぁ……。そういえば、みんな元気かい?」
「……は、はい……」
ふとレイはアヤの事を思い出す。ミオと仲直りしたあの晩、リツコを背負っ
た大和の横顔をじっと見つめていたアヤの瞳。あの目が今でも脳裏にしっかり
と焼きついている。
と、同時に向こうの角から見慣れた人影が現れた。
「よう、レイじゃないか? 今、帰ってきたのか?」
パーカーにジーンズ姿のアヤであった。スーパーの袋を提げているところを
みると、また買い出しの帰りらしい。あまりのタイミングの良さに言葉を失う
レイに対し、アヤの顔色は変わった。視線の先はレイの隣へと向けられている。
「やあ、こんにちは」
アヤに大和が軽く手を挙げて答える。するとアヤは少し照れくさそうに、視
線を足下に落とした。
「お、おう……久しぶり……」
レイはそんなアヤを見て、いつもと違うと直感した。そして、何かしてあげ
られないかと頭を働かせる。運良く、レイの頭に一つの計画がひらめいた。
「これから時間……ありますか……?」
レイは大和を見上げて尋ねた。
「あ、うん……暇だけど……」
「……明日、文化祭で喫茶店するんです……。でも、初めてだからどうすれば
いいか分からなくて……。だから、練習したいんですけど……」
「練習用に、お客になってくれって事?」
大和がそう言うと、レイはこくりとうなづいた。
「いいよ……女子大の中っていうのも興味あるしね……」
大和は笑ってから、アヤの方を見た。けれどアヤはすぐに顔を背けてしまう。
「……で、アヤさんと一緒に入ってきて欲しいんですけど……」
「えっ?!」
「お、おいっ! レイっ! お前何言って……!」
ほとんどふたり同時に声を上げる。
レイはまるでそれが聞こえなかったかのように一度ニッコリと微笑んでから、
校舎の方へと駆け出した。
「ちょ、ちょっと待てよ、レイっ! オレはそんなハナシ聞いてないぞ〜っ!」
その声にレイは走りながらクルリと振り返る。
「教室の場所はアヤさんに聞いて下さいっ……」
そう言ってから、レイはまた校舎の方へと駆けていった。そのあまりにも嬉
しそうな顔にアヤは何も言えなくなる。
ふと背中に視線を感じて振り返るアヤ。
大和がアヤの方を見ながら、微笑んでいた……。
「仕方ない奴だな……ホントに」
捨てるように言いながら、赤く染まった頬を見られないように、大和に背を
向けたアヤは、つかつかと歩き出した。
「ほら、行くぞ……」
それがアヤの精いっぱいだった……。
大和はクスッと笑ってから、彼女の後を着いてゆく……。
走っていたレイははたと立ち止まって、後ろを振り返った。
遠くにアヤが大和と並木道を歩いてくるのが見える。
レイはそれを見ると、嬉しそうに微笑んだ。
『やっほ〜っ! レイちゃ〜ん!』
『綾波さ〜ん! おかえり〜っ!』
上の方から駆けられた声に、レイが校舎を見上げると、3階の教室の窓から
うららとミオが身を乗り出して大きく手を振っているのが見えた。
ニッコリと微笑んでから、小さく手を振り返して、再び教室の方へと駆け出
すレイ。初夏の風が彼女の蒼銀の髪を小さく揺らす。
レイは自分の家に帰ってきたかのような錯覚をその小さなカラダいっぱいに
感じていた……。
○『SCENE11 〜カフェ・パラダイス〜』
そして学園祭の日がやってきた……。
「やっぱり私ってお邪魔虫だったかしらね〜」
仲良く並んで歩くふたりの背中を見つめて、洞木ヒカリがひとりごとのよう
に呟く。その彼女の視線の先にはシンジの背中と、気合いを入れておめかしし
たアスカの背中。
「そんな事ないって!」
「そんな事ないって言ってるでしょ、ヒカリっ!」
見事にシンクロして答えるシンジとアスカ。どちらからともなく頬が真っ赤
になる。そんなふたりを見てヒカリは楽しそうに微笑んだ。
「ごちそうさま……」
ヒカリは自分も誰か連れてくれば、良かったと後悔した。
まあ、誰か……とは言っても相手は決まっているのだけれど……。
「いらっしゃいませ……あら、碇君……。洞木さんと惣流さんもいらっしゃい」
扉を開けて店内に入って来たシンジ達を迎えたのはミオだった。赤を下地に
したワンピースに、真っ白なフリルの付いた白いエプロンをしている。他にも
こんな格好の女の子が店内にいる所をみると、これが制服らしいという事がシ
ンジにも分かった。
「……ちょっと待っててね……。綾波さ〜ん」
ミオがカウンターの方に向かって大きな声で言う。
「なぁに、七瀬さん……あっ!」
すぐにカウンターから出てきたレイがシンジの姿を見て声を上げた。
「こ、こんにちは……約束どおり来てみたんだけど……トウジ達はまだ来てな
いの……?」
「え、ええ……まだ見てないわ……」
「……その服……とても似合ってるよ……」
「そ、そうかしら……?」
自分の姿を見ながら、レイは照れくさそうに笑った。ふたりとも顔が真っ赤
だ。
「……こら、ファースト! いつまで立たせておくつもりよっ!」
レイはハッとしたようにアスカ達の方を見た。
「あ、ご、ごめんなさいっ……!」
ぷうっと面白くなさそうに頬を膨らませたアスカの後ろで、ヒカリがおかし
そうに笑った。
「それにしてもえらい広いガッコやなぁ……」
レイがシンジ達を席に案内していると、聞き慣れた二人組の声がミオの耳に
入ってきた。いても立ってもいられなくて、ミオは窓から廊下を覗き見た。
「それに、さすが噂通りかわいいコが多いね。おっ、かわいいウェイトレスさ
んだ。一枚っと」
カメラを構えたケンスケの後ろ頭をトウジがひっぱたく。
「ちょっとは自制せんかいっ!」
「だって仕方ないだろ……いい被写体がいるとシャッターを切りたくなる性分
なんだから……」
「そういうのを節操がない、っちゅうんや! えらいすんません……」
そう言いかけて振り返ったトウジは、ケンスケが撮ろうとした被写体がよう
やくミオである事に気付いた。少し驚いた顔をしてから、照れくさそうに手を
挙げて挨拶する。
「よう……お邪魔させてもろとるで」
「いらっしゃい、鈴原君」
ミオは、それはそれは嬉しそうに満面の笑みを浮かべたのだった。
それから一時間程経ち、お昼を少し過ぎると、喫茶店に出入りする客足も少
し落ち着いてきた。
「さすがに疲れたわね……」
こくりとレイがうなづく。客が客を呼んで、かなりの盛況ぶりになってしま
い休む暇もなかったのだ。レイは初めて『嬉しい悲鳴』というのがどういうも
のかを実感したらしい。
「お〜い、レイ、ミオ。ちょっとこっちにきてくれ」
似合わないと、嫌がりながらもせっかく作ってくれたという事もあって、渋
々身につけたウェイトレスの制服を気にしながら、アヤがレイ達を呼んだ。
「これから2時間休憩な。せっかくだからいろいろ見て回ってこいよ。一時間
経ったらオレも休憩に入るから、いつもの場所で待っててくれ」
「うん……じゃあ、お言葉に甘えて……」
ミオがエプロンを外して椅子の上に置くと、レイもこくりと頷いてエプロン
を外した。
「じゃ、私も……」
こっそりと裏口から抜け出そうとしたうららの首根っこをアヤが掴む。
「お前はあと一時間働くの!」
「え〜ん……レイちゃん達と遊びたいのにぃ〜」
「後で遊ばせてやるから働け! ほらお客さんだぞ」
「ひ〜ん……アヤちゃんの鬼っ! 悪魔っ!」
そう言い捨てて、うららはお客の方へと駆けていった。
その背中を見送りながら、3人は顔を見合わせて楽しそうに笑った。
レイとミオが喫茶店を抜けて廊下を歩いていると、向こうから見慣れた人影
がやってくるのに気付いた。
「ほらっ、あんまり近づくんじゃないわよっ! 勘違いされたら困るでしょ!」
「勘違いする奴なんかいないって、俺とお前じゃな」
「あ、そうですかそうですか」
おしぼり屋の青年と、『ろまねすく』のウェイトレス・優美であった。
「あ、レイちゃん……お邪魔させてもらってるわよ」
「こんにちは。私の所の喫茶店、寄っていって下さいね」
「うん、今から行くトコロなの……こいつと一緒っていうのはちょっと気が乗
らないんだけどね」
そう言って優美が隣を見ると、そこにいるはずの青年の姿がなぜかなかった。
「ねえ、名前は何ていうの?」
「……えっ……七瀬……ミオですけど……な、何か……?」
顔を覗き込む青年に戸惑いながら、小さな声で答えるミオ。
「へえ、ミオちゃんっていうのか……いい名前だね」
「そ、そうですか……?」
照れくさそうにうつむくミオの顔を、微笑みながら見つめるおしぼり屋。
「……って、アンタは何やってんのよっ!」
パシコ〜ンと今日も過激に優美のハリセンが飛んだ。
おしぼり屋の青年は一撃のもとにのされてしまう。
「じゃあね、また今度お店に寄ってちょうだい。ミオちゃん、こいつの事はさ
っぱり忘れちゃっていいからね」
「は、はあ……?」
ずるずると青年を引きずりながら喫茶店の方へ消えてゆく優美の背中を見送
ったふたりは顔を見合わせて首を傾げた。
「……さてと……綾波さんは何処に行きたい?」
廊下にひっきりなしに張られた看板を見ながらミオが言う。
「そうね……決めてないけど、全部回ってみたいわ……」
「私と同じね」
ミオはレイの方を見て嬉しそうに微笑んだ。
「じゃ、あっちから行きましょう」
レイの手を引くミオの細い腕。そしてそのしなやかな白い指先。
その透き通るような白い肌を見つめながら、レイは嬉しそうに……幸せそう
に笑った……。
レイの大学生活初めての学園祭は、レイの生まれて初めての学園祭。
素敵な友と素敵な人達に囲まれて、レイはじっくりとその幸せを噛みしめる。
お祭りに終わりがないことを願いながら……。
休憩時間も終わりが近くなったので、レイとミオが喫茶店に戻ってくると、
教室を飛び出してきたアヤとばったり出くわした。何も言わず、レイの手を引
くアヤに促されて中に入ると、数人のお客に混じってリツコがテーブルに着い
ているのが目に入った。
レイは一瞬驚いたが、リツコがレイの方に気付いて優しく微笑んだのを見て、
ゆっくりとリツコに近づく。
「ミサトに仕事場を追い出されちゃってね」
レイの顔を見て、リツコはペロリと舌を出した。驚いて何も言えないレイの
目の前に、アヤがそっとレイのエプロンを差し出す。
「ほら、レイっ……仕事仕事」
戸惑いながらそれを受け取るレイの姿に、リツコはクスッと笑った。
「……あの……ご注文は……?」
エプロンを身にまといながらレイがリツコに尋ねる。
「……そうね……」
リツコはクスッと微笑んでから、壁に貼ってあるメニューに視線を移した。
「……ケーキセットをもらおうかしら……もちろん飲み物はコーヒーでね」
「は、はい……かしこまりました」
いそいそと早足で厨房へ消えて行くレイの背中を見つめていたリツコはクス
ッと微笑んだ。カウンターから頭を覗かせて様子を伺っていたアヤとミオが顔
を見合わせてニコッと笑う。その間に突然、顔を突っ込んでくるうらら。
「ねえねえ、なんかあったの?」
アヤとミオの顔を交互に見る。
「うわ〜っ!?」
「きゃ〜っ!」
「なによぉ〜……お化けじゃあるまいし〜。ねえねえなんかあったの?」
「なんでもねえよ!」
「あ〜っ!またうららだけ仲間外れにして〜っ! アヤちゃんなんてキライっ
!」
うららはプゥ〜っと頬を膨らませる。
ミオはクスッと微笑んでからリツコの席の方へ目をやった。ちょうどレイが、
自分で煎れたコーヒーをリツコの所へ持ってゆく所だった。
「ちょっとだけ座らない?」
リツコが言った。少し考えてから、こくりとうなづいてレイはリツコの向か
いに腰を下ろす。だけどまともに前を見る事が出来なくて、レイはうつむいて
いた。
「結構、サマになってるじゃない」
リツコがそう言うと、レイはポッと頬を赤く染めてリツコの方を見た。
「案外、レイってこういう仕事が向いているのかもね」
そう言ってからコーヒーを一口すすって、リツコは嬉しそうに微笑った。
「うん……合格。美味しいわ……。これからも毎日レイに煎れてもらおうかし
らね……」
その言葉にレイは嬉しそうに微笑む。
‥ 働くって楽しい…… ‥
そう思った。
カウンターの陰から、ミオがふたりを嬉しそうな顔で見つめていた……。
その頃、渚カヲルは高校の桜の木の上で今にも泣き出しそうな表情を浮かべ
たまま、枝にすがって何やらひとりごとのようにつぶやいていた。
「シンジ君に会いに行きたいけど……行きたいけど……(泣)」
ふと脳裏にうららの無邪気な笑顔が浮かんだ……。
「あの学校にはどうしても行けないんだぁ〜っ!」(号泣)
おいおいと木の枝にすがって泣くカヲル。
全くもって、損な体質だね……カヲル君。(笑)
○『エピローグ』
さて、時は進んで、その4日後の金曜日のお昼前である。
今日は朝からいい天気だった。梅雨の合間の束の間の晴れ間なのだろうか。
それとももうじき梅雨が明けるのだろうか……。
気温は30度を上回ると朝のニュースで言っていた……夏も近い。
照りつける日差しの中、滅多に見せないジーンズ姿のレイが大きく深呼吸して
からその店の少し重い木製の扉を押した。
チリンチリンと軽やかにベルが鳴る。
映画かなにかのインストゥルメンタルが微かに流れる日当たりの良い店内で、
ご機嫌な様子で歌を口ずさみながら楽しそうにカップを磨いていたエプロン姿の
女は今日初めての来客に嬉しげな表情を浮かべると、磨きかけのカップをテーブ
ルに置いて、いつもの元気な声を扉の方へと向けた。
「いらっしゃませ……あら、今日はレイちゃんひとりなの? 珍しいわね」
おしぼり屋の青年に売り飛ばされた可哀想な優美さんである。
ということは、ここはジャンボパフェで有名な『喫茶ろまねすく』なのだ。
「……こんにちは」
ちらりと優美の方を見てから小さな声で言ったものの、レイはそのまま固まっ
たかのように立ち止まってしまった。
「どうしたの……何かあったの……?」
いつもと違う彼女の様子に優美はカウンターから出ると、レイの目の前に立っ
て彼女の顔を覗き込んだ。その拍子にレイもバッと顔を上げたので、優美は思わ
ず驚いた。
「……私を……私をここで働かせてください……」
決して大きくはなかったけれど、彼女は確かにそう言った。
「えっ……?」
そのしっかりとした意思の感じられる言葉に、日頃の彼女をよく知る優美は一
瞬驚いたようだったが、やがてやわらかな微笑みを顔一面に浮かべた。
「……分かった……。マスターに聞いてみるからちょっと待っててね」
マスターがいる奥の調理場へ向かおうと優美が振り返ると、突然低い男の声が
店の奥から聞こえてきた。
「構わないさ。で、いつから来れるんだい?」
声はすれども姿は見えず。レイは思わず辺りをキョロキョロと見回してしまっ
た。けれども、姿は見えない。だけど、その声にはそこはかとない優しさが感じ
られて、レイは少し安心した。
「今日からでも……いいですか……?」
レイがせいいっぱいの大きな声で調理場の方へそう言うと、やがてがっしりと
した体つきの着古したジーンズにブルーのデニムシャツといったラフな格好の青
年が姿を表わした。何度もこの店には来ていたけれど、マスターの姿を見るのは
レイはこれが初めてだった。
「……やる気があっていいね。そういうコを待ってたんだよ」
「あらマスター……まるで私にやる気がないみたいな言い方ね」
ジロリとマスターを睨んで優美が言う。
「そ、そうは言ってないさ」
マスターは少し困ったように優美から視線を反らした。
「そうかしら?」
「だって僕だって優美ちゃんのファンなんだから」
「いい加減、そのファンっていうのやめて下さいよね。なんだか照れくさくって」
ちょっと頬を赤く染めた優美をやさしげな瞳で見てから、マスターは自分を見上
げるレイの方へと視線をやった。
「というわけで、今日から働いてくれるっていうなら大歓迎さ。うちは忙しいか
らねぇ」
「……時間が集中するけどね」
その言葉に人の良さそうなマスターは苦笑いする。確かに店が混雑するのは、お
昼のランチタイムと、女学生達がやってくる夕暮れ前のひとときくらいのものであ
る。ゆえにお昼前の今の時間はとっても空いているのだ。ちなみに午前中は、たま
におしぼり屋の青年が誰かさんの顔を見に、コーヒーをすすりにくるくらいのもの
らしい。(笑)
「まぁ、それはそうなんだけどさ……。というわけで、よろしく頼むよ」
マスターは少し背を屈めて、レイの真紅の瞳を見つめながら言った。
「はいっ!」
レイがありったけの元気な声で返事をすると、マスターは嬉しそうに微笑んでか
ら、店の奥へと足を向ける。その背中をレイがじーっと見つめていると、そっと優
美が耳元に囁いてきた。
「あのマスターね、実は人前に出るのが苦手でカウンターに出てこれないのよ。だ
から、私がここに来れない時はこのお店閉まっちゃっうの」
レイは思わず吹き出してしまった。時々、店が閉まっているのと、あまり有名に
ならないのにはそんなワケがあったのかと初めて知る。
「だから私も休み辛くてね〜。でも、レイちゃんが来てくれたら、お店を閉めなき
ゃいけない日数も減りそうだし、仕事も楽になりそうだから嬉しいわ」
そう言って優美は笑う。
「でも、みんなと一緒にいる時間が減っちゃうかもしれないけど、本当にいいの?」
少し心配そうに優美が言う。
「……いいんです……学校でたくさん逢えますから……」
「うららちゃんに毎日たかられちゃうかもね」
間髪入れずに悪戯っぽく優美が言うと、レイは少し困ったような嬉しいような、
なんとも複雑な表情を浮かべた。
「まあ、大丈夫よ。彼女はあれで、いろいろ考えてるコだから……。そうそう、あ
のマスターね、趣味で小説書いてるらしいんだけど、私が読ませてって言っても
読ませてくれないのよねぇ。今度、ふたりでおねだりしてみよっか?」
レイは思わず頬を緩ませて、優美の方を見上げる。
「あのマスター、レイちゃんには甘そうだから、もしかしたら、読ませてくれるか
もしれないしね」
優美が悪戯っぽい口調で言ったので、レイは思わず笑みを浮かべてしまった。
「……そうですね」
そう答えながら、レイはこのお店で働く事を決めて、本当に良かったと思った。
いつも自分たちが座る窓側の席を見る。
みんなと一緒に来る機会は減るかもしれないけれど、あの友人達を迎える自分の
姿を想像すると、自然と笑みが浮かんできた。
「……レイちゃん……どうかしたの?」
気が付くと、優美が心配そうにレイの顔を覗き込んでいた。
「な、なんでもないです……」
「そう……? それじゃ、さっそく手伝ってもらっちゃおうかな。もうじきランチ
タイムだから忙しくなるわよ」
「は、はいっ」
「エプロンは私の予備のがあるからそれを使うといいわ。更衣室はこっちね」
なんだか嬉しそうな優美の後を着いて行きながら、レイは思った。
『いつかリツコさんも来てくれるかしら……』
と。
……まあ、それは遠くない将来でありそうな気がするけれども……。
季節は初夏……。もうじき、とびきり暑く素敵な夏がやってくる……。
『カフェ・パラダイス』(了)