少年老い易く学成り難し
この言葉の前に「少年老い易く学成り難し」(少年はいつの間にか老いてしまい、学問が成就することはむずかしい)という言葉がある。とくに若者に対してわずかな時間でも惜しんで勉学に励むようにと戒めた言葉だ。
このあとに次の句がつづく。「未だ覚めず池塘春草の夢。階前の梧葉已に秋声」。この意味は、池の塘に春の若草の萌えるような楽しい夢がまだ覚めきらぬうちに、階(きざはし)の梧葉に秋風が吹いてきた。少年時代を楽しんでいるうち、はや老境が迫ってくる――というもの。
じつはこの有名な詩句は宋代の大学者朱子(朱熹、1130〜1200)の作品と言われてきたが、1995年4月に刊行された『成語大辞苑』(主婦と生活社)によると、「この詩は朱子の『朱子全集』には見えず、最近の研究によれば、わが国で室町時代末期から江戸時代初期にかけての禅林僧侶の詩文集『滑稽詩文』に『少年易老学難成、一寸光陰不可軽」と、まったくの同文が見える」とのことで、どうも朱熹作というのは不確かなことのようだ。ただ、朱熹が若者に対し「若いうちに勉学に励め」と説きつづけたことは事実で、それは次の詩句にも示されている。
「謂う勿かれ、今日学ばずとも来日有りと。謂う勿かれ、今年学ばずとも来年有りと」。今日は勉強しなくても明日があるからといって怠けてはならない。今年学問しなくても来年があるからといって空しく過ごしてはならない――という意味である(鎌田正・米山寅太郎著『漢詩名句辞典』、大修館書店、1980年)。
このあとに次の句がつづく。「日月(じつげつ)逝けり歳我と延びず嗚呼老いたり是れ誰の愆(あやま)ちぞや」。一日一年をおろそかにせずつねに勉強しなければならない、若い時をむだに過ごすと、結局は年老いた後に嘆くことになる――まさにいまの私自身のことを言われているのようである。若いときにもっと一生懸命に勉強しておくべきだったとつくづく思う。まさに「後悔先に立たず」。
歴史は繰り返す?!
幼少年期の頃、私も、父母、姉、教師、先輩から、この言葉を使って、「若いうちに勉強しないと歳をとってから後悔することになる」と言われた。ただ、それはほんの一、二度のことである。しかし、そのときにはこの言葉の重みを十分理解できなかった。老年になったいま感ずるような切実さを、若いときは感ずることはできなかった。
私には家庭をもって独立している二人の息子がいるが、彼らが少年の頃、それぞれに「若いときに一生懸命勉強しないとあとで後悔するよ」と言ったことがある。私はくどいのは嫌いだから、ほんの一度か二度のことだ。しかし、私の場合と同じように私のこの気持ちは十分には通じなかったようだ。歴史は繰り返されていくのである。
こういうことが次々と繰り返されているのがこの世というものかもしれないが、歳とともに朱熹の詩句に触れたときの気持ちが変わってきた。高齢になるにしたがい気を引き締める度合いが強くなっている。これまた凡人の悲しさかもしれない。
1950年代の青年期に私は左翼革命運動に身を投じ、一時はプロの活動家にもなった。このために専門の工学の勉強を犠牲にしてしまった。このことには悔いはない。左翼革命運動に身を投じたことがよかったというのではない。悔いがないというのは、もしも学生時代にこの運動に入ることを避けたとすれば、逆により大きな悔いが残ったのではないかという気持ちがあるからだ。悔いなき人生のためのやむを得ざるコストだったと思っている。
しかし、別の意味での悔いはある。それは、ほんの一時期とはいえ、「まだ明日がある」という気持ちで今日なすべきことを怠ったり先送りしたりしたことだ。また、友人の気持ちを傷つけたくないだけのためにはっきりと断ることを回避したりしたことだ。過度のやさしさ、思いやりは気の弱さからくるもので、身を滅ぼす。最大の反省点は青年期に自分自身に対し手厳しさが不足していた点にある。
ヘンリー、ジード、ダ・ビンチの箴言
西洋にも同じ意味の格言・金言がある。ヘンリーの次の言葉である。
「人生は、私たちが人生とは何かを知る前にもう半分過ぎている」
現代は人生80年時代だが、私はいまなお人生75年説をモットーにして生きている。七五歳を過ぎたらできる限り早く人生の幕を引きたいと考えてきたし、いまもそう考えている。これはもちろん天が決めることだが……。
また、私は人間の一生は15年周期で動くと考えてきた。
第一期は0歳から15歳までの養成期。常識と道義を学ぶ時期である。
第二期が16歳から30歳。この時期を「養成」を重点にして生きるか「自己主張」を中心にして生きるかは重要な問題である。ここで人生が分かれる。私自身は「自己主張」を中心にした生き方をしたが、「養成」にもう少し重点をおいた方がよかった、と反省している。
第三期(30歳〜45歳)は全力で仕事をする時期――挑戦し闘う時期。
第四期(46歳〜60歳)は仕事を完成させる時期。
そして第五期(61歳〜75歳)は人生のまとめの時期である。
2000年10月に私は68歳になった。人生の締め括りの時期である。やっと「人生とは何か」が私なりに少しだけわかりかけてきたところだが、しかし残りの時間は少ない。
「病んで後初めて健康の価値を知る」という警句があるが、これと似ている。残りの時間が少なくなって生命の価値、人生の価値を知るのである。
ヘンリー(ウィリアム・アーネスト、1849〜1903)はイギリスの詩人で、劇作家、批評家、編集者としても活躍した。子供のころ結核で足が不自由になり、20代で2年ほど病院で過ごし足を切断。そこで「詩の本」を書き、詩人、批評家、編集者の人生に踏み出した。 ヘンリーのこの言葉は『昭文世界金言名言事典』からの引用である。
青春期の人々にとってあとの人生は未知の世界。人生とは何かを知るのは、多くの場合、老境に入ったときだろう。しかし老年になればなるほど人生の残り時間は少なくなる。やり直すことはできないときになって初めて人生とは何かが見えてくるのかもしれない。悔いなき人生を送るためには、そのときどきを精一杯生きることが必要だ。だが、このことも残り時間が少なくなって初めてわかることである。
アンドレ・ジード(1869〜1951、フランスの小説家、劇作家、文芸批評家)も次のような言葉を残している。
「ああ!青春!――人生は一生にひと時しかそれを所有しない。その残りの年月はただ思い出すだけだ」。
レオナルド・ダ・ビンチ(1452−1519、イタリアの画家、建築家)もまた次のように言った。
「老年の欠乏を補うに足るものを、青年時代に身につけておけ」。
青年期は人生において大切な時期なのだが、これか本当に理解できるのは老年になってから後のことだ。
老境期の生き方についての二つの箴言
老年期の生き方についていくつかの箴言がある。
イギリスの経験論哲学の創始者フランシスコ・ベーコン(1561〜1626)の「若い時は一日は短く一年は長い。年をとると一年は短く一日は長い」という言葉はとくに有名だ。
モンテーニュ(1533〜1592、フランスの思想家)も著名な言葉を残している。「老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む」。(以上の四つの言葉は『成語林』別冊「故事ことわざ慣用句」、旺文社、1992年からの引用)
人生とは何かがわかりかけたとき、人生は終焉に近づく。この状況に耐え抜くのが人間の宿命なのだ。
もっとも、「人生とは何か」を明快に説明することはきわめてむずかしい。大天才であればともかく、普通の人にとっては他人に説明することはほとんど困難だ。私自身、以前より「真理」に近づいている感じはあるものの、それを言葉として表現することはできない。「人生とは何か」がわかりかけているように思うが、いまだ、漠然としている。人生とは不条理で不可解だということがやっとわかってきたと言えるかもしれない。