今から約35年前、個人用コンピューターが売り出されました。それまではビル1個分の大きさのコンピューターが、一部の研究機関で使われていた状況でした。

 初めはNECPC6001、数年後にPC8001が売り出され、私も8001を買いました。そのころのコンピュータはメモリーも18キロバイト、増量しても36キロバイトで、今と比べると一億分の一以下の容量しかありませんでした。ソフトも乏しくほとんどが手作り、それをテープレコーダーに保存するという代物でした。その後、MSDOS、ウィンドウズ98と画期的な進歩をとげ、今ではなくてはならないものとなっています。

ウインドウズ98とは1998年番ということです。PC6001から1998年までの約20年間の進歩は想像を絶するもので、それに加えインターネットの発達で世の中は一変しました。

 35年前には全く想像できなかった技術の発達と、それによる社会の変貌は驚くべきものです。今後の30年、何が発明され、社会がどう変わるのか、誰にも予測できません。恐らくより快適で、便利な社会になっているでしょう。

 今、想像できるのは、太陽光、風力、などの自然エネルギー、事故の起こらない自動車や電車、電線のいらない送電、ロボット、医療の発達などですが、SF小説に出てくる瞬間移動やタイムマシーンなども出てくるかもしれません。

 「やあ、久しぶり、どうだい景気は?」
 「まあまあだけど、このごろタイムマシーンの売れ行きがいまいちでな。タイム犯罪が  増えたんで、買う人の身元調べなんかもあって、前よりやっかいなんだ。」
  「うちの旅行業界も、格安宇宙船会社の参入で、競争が厳しくなってきたよ。」

君たちがおっさんになったころ、こんな会話をしているかもしれません。今の大人たちのぼやきなんか聞いていないで、夢を持ちましょう。

 将来何になりたいですか?宇宙飛行士?宇宙旅行のガイドさん?ロボットエンジニア?介護ロボットに指示を出す看護婦さん?体験ゲームのソフト開発者?・・・技術と社会の発展によって、今はまだない職業がどんどん出てきます。いろんな未来を想像してください。そしてどんなことをしたいのか自分に問いかけてみてください。きっと楽しい未来が開けてきますよ。

数学なんて役にたたない???
30年後の世界は?

「数学なんて役に立たない」「受験英語は意味がない。」「国語なんてやってもやらなくても変わらない。」よく耳にする台詞です。でも、本当にそうでしょうか。先ず、順に数学から考えて見ましょう。

確かに数学者は私たちの生活をよりよくするために数学の研究をしているわけではありません。難問を解いたときの、充実感、満足感、爽快感のために研究しているといっても過言ではないでしょう。例えば100年前に出された宇宙の形についての命題=ポアンカレ予想。幾多の超天才がこれに挑み続けて解けなかったこの命題を、2003年ロシアの数学者ペレリマンがようやく証明しました。ペレリマンは7年間、ほとんど外部との接触を断ち、研究室に閉じこもって解明しました。この100年間、多くの数学者が同じように研究室に閉じこもり、解けぬまま死んでいきました。一般人から見れば、趣味、自己満足以外の何物でもないと言えるでしょう。

 日本にも江戸時代にニュートン数学に負けない超高度な数学がありました。でも、それは全くの趣味、娯楽でした。和算自慢の人が神社に扁額をかけ、出題します。「どうだ、これを解ける者がいるか。」というわけです。和算本も多く出版され、本の最後にやはり出題があります。個々の趣味、和算塾の誇りを掛け出題し、他者の出題を説いていったのです。このように確かに最先端の数学は数学者の自己満足の上に成り立っています。

 でも、こうして発展した数学はあらゆる分野で応用され私たちの生活をよりよいものにしています。積分がなかったらダムにどれだけ水がたまるかも計算できませんし、橋もビルも建ちません。確率統計がなければ、選挙速報の当選確実も打てませんし、二進法がなければコンピュータも動きません。江戸時代の和算も、効率のよい水車の作成などにも応用されていました。

数学は私たちのありとあらゆる日常生活に入り込み、私たちの日常生活を支えているのです。数学がわかる人、数学を応用できる人、数学を使いこなせる人が多ければ多いほど社会も経済も発展し、私たちの生活を便利にしていくのです。

次に、受験英語は本当に役に立たないのでしょうか。6000から10000語を暗記し、難解な論文も読みこなせる文法力を身につける受験英語。これが役に立たないはずはありません。確かに会話力はないかもしれませんが、半年も英語圏で生活すれば、日常生活は勿論、商談も、打ち合わせも、パーティーでの会話も十分こなせるようになります。

一方、受験英語が不十分な人は、圧倒的な単語不足、文法力不足で、言いたいことが言えず、相手の言っている単語の意味もわからず、2年留学してもほとんど英語力がつかずに帰ってくるケースが多いようです。結論から言うと受験英語は日本で英語を学ぶ上で、最強の実用英語の基礎力を養うものだと言う事です。

さて、国語はどうでしょう。不思議なことに国語をしっかり勉強したという日本人は少ないのではないでしょうか。私は町内新聞の編集長をしているのですが原稿依頼をするとしぶしぶ引き受けてはくれますが、なかなか書いてくれませんどうもまとまった文章を書くことが苦手な人が圧倒的に多いようです。文章を書くということは自分の考えをまとめるのに多いに役立ちます。欧米の高校、大学では毎日大量の宿題が出されます。そのほとんどがエッセイです。この場合のエッセイとは随筆ではなく、テーマにあった作文のことです。本を読み、調べ、エッセイを書く。これが欧米の勉強の、かなりのウエートを占めています。一方日本では暗記重視の勉強で、作文を書くことはあまりありません。慶応女子高校では100枚の卒業論文が課され、半年から1年かけ、かなり本格的な論文指導がなされていますが、日本の高校では例外と言えましょう。

日本人は表現力が乏しいとよく言われます。「出る杭は打たれる。」「沈黙は金」といった文化があるからだとかいいますが、ひょっとしたら自分の意見がないから=表現する中身がないから表現できないのではないでしょうか。日頃から文章を書く習慣があれば、書く内容を意識します。ものを良く見なければ書けません。日頃の出来事、身の回りのものに対するものの見方が変わります。よく見れば「何故そうなのだろう。」と問題意識が生まれます。それを起点として何が間違っているのか、どうすれば解決できるのか考えるようになります。

国語の勉強とは作文することです。漢字や文学史、文法などは国語のほんの一部です。いや、むしろ作文のために本を読み調べ、読解力が身に着き、書くために漢字が必要で、読んでいる内に正しい文法も身についてくるのです。作文を習慣にし、ものの見方を変え、自分の考えをまとめ、表現力をつける。これが出来る人が、これから求められる人なのです。

インターネット、メール、ツイッター、フェイスブックなどのソーシャルネットワーク。情報が多すぎて、流されて余計なものを買ってしまったり、ネット詐欺にひっかかったりしてしまうかも知れません。そうならないために、常識力、判断力を養い、自分の考えをはっきり持たなければならないでしょう。

このごろの社会の変貌は日に日に速く、想像のつかないものになっています。地域社会の結びつきが強ければ、しがらみは多くなりますが、ある程度個人を守ってくれます。でも今、しがらみが少なく自由ですが社会は個人を守ってくれなくなっています。ネットの世界ではなおさらです。実態が全く見えないからです。だからこそ自分を自分で守る社会的能力が必要なのです。数学で論理的思考習慣を身につけ、英語で世界に通じる表現力を身につけ、国語でものの見方を養い自分の意見をまとめる。これが自分で自分を守る方法です。守るだけではなく、社会に打って出る能力でもあるのです

諸君へ

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