おとこはとつぜんやってきた。
あまりに突然だったので、店内が一瞬静まりかえったほどだった。
トレンチコート。
サングラス。
目深にかぶったソフト帽。
――完璧だ。
カウンターの端に座っていた岡部丸夫(三八、仮名)は、思わず内心つぶやいた。
しかし戸口に立つその姿は、テレビの中で甲子園中継のアナウンサーががなっているあぶらぎった真夏のラーメン屋ではおそろしく場違いなだけだった。
ゆっくりと、店の中を検分するように男は首を動かした。
店内にざわめきが戻った。しかしひそひそささやくような調子からして、その大半が男のことを話題にしていることはまちがいなかった。
そんな雰囲気を気にした様子は毛ほども見せずに、男は店に足を一歩踏みいれた。うしろ手に引き戸を閉めてカウンター席へと歩く。その何気ない態度に何もおかしなところがなかったせいか、ほとんどの客は男に関心を寄せるのをやめたようだった。
一人岡部丸夫(三八、仮名)だけが、近づいてくる男を注視していた。
きびきびとした歩きかたで店の奥まで来ると、男は丸夫以外に客のいないカウンターの反対側の端に腰をおろした。両肘をカウンターに乗せ、手を顔の前で組む。そして、サングラスに隠れた瞳をメニューに向けるために顔をあげた。
その一挙手一投足を男にそれとわからぬよう観察しながら、岡部丸夫(三八、仮名)はもう一度心の中でつぶやいた。
――完璧だ。
男を一目見た瞬間に受けとった直感は、いまや確信に変わっていた。男は、自分と同じ種類の人間だった。
世の中には二種類の男しかいない。ハードボイルドな男と、そうじゃない男だ――学生時代にチャンドラーを読み狂った果てに、丸夫はそう確信するに至った。だがハードボイルトな男の数はごく限られている、しかも常に自覚的でいなければ普通の男に成りさがってしまうのは容易だ――そう考えた丸夫は、卒業を待たずに大手の興信所に就職した。一生をハードボイルドな男として過ごそうという固い決意の表われであった。
ところが興信所の仕事ほどハードボイルドから縁遠いものはなかった。自分に回される浮気調査や家出人捜索の仕事にそんなものが入りこむ余地はほとんどなかったのである。自分の考えが甘かったことを悟った丸夫は、自由に仕事を選ぶためにほどなく辞めて独立した。
またもや丸夫はまちがっていた。タフでハードボイルドな仕事だけを待っていたら食っていけないのだ。かといってこれ以上自分のスタイルを変える気にもなれなかった。ほんのときたま、それらしくないわけでもない期待させる依頼がないわけでもなかったからだ。もっともタフでハードボイルドな仕事には実際には一度も出会っていないのだが。
結局、以後十数年を丸夫はそのままずるずると過ごしてきてしまった。ハードボイルドな魂もずいぶんすりきれてしまった、丸夫も最近は我ながらそう感じないわけにはいかなかった。
だがら男が姿をあらわしたとき、丸夫は真の衝撃を後頭部に感じずにはいられなかった。
男のハードボイルドな姿には一分の隙もなかった。しかもそのスタイルを崩そうとする気配は微塵もなかった。いつかラーメン屋で昼食をとることに馴れきっていたことを丸夫は深く反省した。
――だが、問題はこれからだ。
口の端をわずかに歪めてそれとわからぬようににやりと笑うと、丸夫は歯に刺していたつまようじを抜いて男の次の動作を待った。
男の顔が厨房に向いた。
「タンメン」
男のつぶやきに、丸夫はまたもや後頭部に激しい一撃をくらった。
信じられないことに、今度もまた、男は完璧だった。しぐさにもタイミングにも声の調子にもほころびはまったくあらわれなかった。丸夫は試してみようと考えたことさえなかったというのに。
体中の血が熱くなるのを丸夫は感じた。こんなことはほんとうにひさしぶりだった。まるであのころの感じが戻ってきたような気さえした。
――負けられねえ。
サングラスの奥が想像通りだとしたら、男はまだ二十代のはずだった。ここは一発、若造に年期の違いを見せつけてやる必要がある。
視線を厨房に向けると、丸夫は数年に一度しか見せないことにしているとっておきの顔で決めてから口を開いた。
「ニラレバ」
あんたまだ食うの?という目で店の主人は丸夫を見た。
先に丼が出されたのは男のほうだった。おもむろに箸を割ってコショウをふりかけると、男は黙々とタンメンを食べはじめた。今度も隙はまったくなかったが、丸夫はもう驚かなかった。(ここで正直に告白すると、ハードボイルドなタンメンの食べかたなるものが筆者にはまったく想像できない。どなたか思いあたった方はぜひご一報ください)
ほどなくしてニラレバの皿も丸夫の前に置かれた。横目で男をうかがってから、丸夫は自分がハードボイルドだと信じるやりかたでニラレバを食いはじめた。(これまた筆者には想像できない。以下同文)
しかしさすがにこの歳になって二皿連続はきつかった。そもそも満腹という状態自体がすでにハードボイルドではなかった。いったん箸を置き、ちょっとだけ気を抜いて息をつくと丸夫はちらっと横に目を向けた。
男はれんげでスープをすすっていた。丸夫を意識している様子はかけらもなかった。
ほとんど意味なく、丸夫はむかっときた。
――ロートルだと思ってなめやがって。
決意もあらたに箸をつかむと、丸夫は残りのニラレバをあらためてかたづけにかかった。
最後の一口を口の中にほうりこむころには当初の目的をすっかり忘れていた。若干の勝利感を胸に、しばし男のことを忘れて丸夫はコップに手を伸ばした。
そして、トレンチコートの男の背後に人影が二つ増えていることに気づいた。
二人とも、同じ姿をしていた。黒いサングラス、黒いスーツ、黒いネクタイ、そして白いシャツ。背格好まであつらえたようにそっくりだった。
ただ一点を除いて。
一人がプラチナブロンドの白人なのに対し、もう一人は服の色と見分けがつかないほどの黒い肌をしていた。どちらもトレンチコートの男と同じくらいラーメン屋に似あわない点では一致していた。
――いつの間に!?
丸夫は内心動揺した。いつどんな危険が身に迫るかわからない以上、背中に常に気を配るのはハードボイルドな男の身だしなみというものだ。なのに、気づかぬあいだに二人は丸夫の背後をよこぎってトレンチコートの男のうしろに立っている……
――ただ者じゃない。
丸夫は水のかわりに生唾を飲みこんだ。単にニラレバを食うのに夢中になっていただけだとは絶対に考えたくなかった。
カキーン、と小気味いい音を響かせて高校球児が大きいのを一発放った。
同時に、引き戸ががらがらと音をたてて開かれた。
今度も、店内は一瞬静まりかえった。
ブルネット。
真っ赤なチャイナドレス。
狐のマフラー。
今度は、静けさは長く続いた。客の大部分、つまり男たちは女の美貌から目を離せなかった――ただし、その厚くて濃いサングラスの下が想像通りだとしたらの話だが。
丸夫も例外ではなかった。
――一度でいいから、こんな美人から依頼を受けてみたかった。
ハードボイルドな魂はどこへやら、口をだらしなく開くにまかせたまま丸夫は女が店の奥に入ってくるのをただ見つめた。
我にかえったのは、女が黒づくめの男のあいだに立ったときだった。
いまの一連の出来事をまったく意に介したそぶりさえ見せずに、トレンチコートの男はただ黙々とタンメンを食べていた。うしろに立つ三人を気にする気配さえ感じさせなかった。
と、女は妖艶に微笑んだ。
「さあ、とうとう追いつめたわよ、ジョージ」
ジョージと呼ばれた男は何の反応も示さなかった。両手で丼を持ち、その端に口をつけてスープを飲みはじめる。ハードボイルドなスタイルはいまだに守られていた。さすがに丸夫も感嘆せざるを得なかった。
そんなジョージにかまわずに、女は言葉を続けた。
「あなたらしくないミスをしたものね。こんなところなら私たちの目も届かないとでも思ったのかしら。だとしたら、私たちもずいぶん見くびられたものだわ。どう? 結果はこの通り。
いくらあなたでも、もう逃げられないわ。おとなしく例の物を渡すことね」
女の最後の言葉は、姿に似あわない鋭さを含んでいた。横で聞いていた丸夫は知らないうちに拳を強く握りしめていた。
――もしかしたら、俺はいま国際的なスケールの陰謀の現場に居あわせているのかもしれない!
これこそ丸夫の求めてやまないものだった。スピード! スリル! サスペンス! こうした言葉に彩られた非日常的な冒険の数々が一瞬のうちに脳裡にきらめいた。そう考えると街のラーメン屋に場違いでくそ暑そうな服を着た人間が四人もいることさえ取るに足らないことに思えた。(もちろんそれは丸夫の頭にもあつっくるしい連中の服と同じくらい血がのぼっていたからなのだが、まあいいじゃないですか、本人が気にならないならそれはそれで)
ジョージは長いあいだスープを飲み続けた。
「いいかげんにあきらめたらどう? 時間をかせごうと思っても無駄よ」
じれたような女の言葉に、ジョージは丼から口を離した。
そして、丼を後方に投げつけた。
女と二人の男はすばやく身をかわした。丼はスープをまきちらしながら壁にぶつかり、きれいに二つに割れて床に落ちる。
「お客さん、ちゃんと弁償してよ」
間髪入れずに聞こえてきた店の主人の言葉は、なぜか妙に間がぬけて感じられた。
そのときにはジョージはすでに立ちあがって三人に向きあっていた。
壁際の女を守るように二人の黒服は立った。その手に、いつのまにか黒光りするものが握られていた。目にした瞬間、丸夫はそれが何であるかわかっていた(これも日頃の修練のたまものといえよう)。
――ガバメントか、陳腐だな。
そんなふうに頭の片隅で考えながら、しかしさすがに丸夫も事態がかなり異常だということに気がつきはじめていた。
――まさかモデルガンってことはねえよな。
そう思った瞬間威嚇するように銃口がつきだされ、思わず丸夫は身をすくめた。
「そう、あくまで抵抗するつもりなのね。残念だわ、手荒なことはしたくなかったのだけど。しかたがないわね。力ずくで奪わせてもらうわよ」
モデルのようにしなを作って女は言った。どうやらカメラを意識しているらしかった。
黒服がそろって右足を一歩前に踏みだした。
すっ、とジョージがその場にしゃがみこんだ。
「危ない、気をつけて!」
女のけわしい言葉が発せられるより早く、ジョージはタイル張りの床に手をついた。
人一人が隠れられそうなほどの大きさの長方形がめくれあがった。
続いて同じ大きさの長方形がジョージを囲むように何枚もめくれた。店内にもうもうと埃がわきたつ。
――なんてこった。
咳きこみながら、どういうわけか何が起きたのか丸夫は理解していた。たたみ返しだ。
銃声が二発連続して響いた。絶叫と歓声が同時にわきおこった。
「逆転です! 明光学院、勝ち越しの一点をあげました!」
アナウンサーの声がいちばんでかかった。
起こされたたたみの下敷きになって、丸夫は床にうつぶせに倒れた。埃にむせながら両手を床について体を起こす。
顔をあげたすぐ前に、ジョージが立っていた。
一瞬、サングラスの下の瞳と視線が交わったような気がした。その瞳は、丸夫のことを仲間と認めてくれているように丸夫には感じられた。
はっきりと、丸夫はさとった。
――負けた。
店の騒ぎにも男は平然とハードボイルドにたたずんでいた。そんな男に仲間と認められるほど自分が立派ではないことを、いま丸夫は骨身にしみて思い知らされていた。
次の瞬間、ジョージは店の外へと駆けだした。見事な足の速さだった。
「追え! いいか、絶対に逃がすんじゃないよ!」
女の絶叫とともに黒服たちは外へ飛びだした。ヒールを高く打ち鳴らしながら女はその後に続く。と、戸口のすぐ外にゴージャスなリムジンが横づけされた。女が後席に乗りこむとリムジンはものすごいエンジン音を響かせて走り去った。
後に残された丸夫は、埃の舞う中ただ茫然と戸口をながめた。店内にいた人々は皆似たような状態だった。
ただ一人を除いて。
「お客さん、お勘定!」
店の主人の声はテレビの歓声を完全にかき消した。
五つ目の角を曲がったところでジョージは足を止めた。そっと息をつき、背後の気配を探る。二つ目の角を曲がったときには追手を完全に巻いていたはずだった。それでも、確かめずにはいられない。常に背中に気を配っていなければならない者の習性だった。
追手の気配は感じられなかった。いまのところは、というべきか。もたもたしていればまたすぐにやつらに見つかるだろう。急がなければ。
そんな自分の思考とは裏腹に、ジョージは壁に背中を寄りかからせていた。
――危ないところだった。
心底、そう思った。まさかあんな場所にまでやつらの監視の目が光っているとは考えていなかった。この調子ではドーナッツ屋やアイスクリーム屋でも、いや、そういう問題じゃなくて、とにかく一瞬の油断によって命を落としかねないわが身の立場をいまジョージはあらためて強く意識していた。
そっと、ジョージは胸に手をあてた。コートの内ポケットの封筒はかわらずにそこにあった。
そう、この封筒がすべてのはじまりだった。事務所を出たジョージの前にどこからともなくあらわれた瀕死の少女に、死ぬ間際に託された封筒。
「お願い、これを届けて……」
最後の瞬間、少女は信じられないほどはっきりした声で(おそらくマイクが拾わないことを恐れたのだろう)そう言った。
同時に、やつらが襲いかかってきた。
その場からどうやって逃げだしたのか、ジョージは覚えていない。確かなことはただ二つ、逃げだしたあとで我に返ったとき手に強く握りしめていた封筒と、今日まで続くやつらの追撃だ。
ジョージはやつらの正体を知らなかった。それをいうなら、封筒を届ける相手さえわからなかった。ジョージは思いつく限りのありとあらゆる手段を試した。厳冬のシベリアから灼熱のシリア砂漠まで尋ね歩いた。しかし手がかりとなるようなものはまったく得られなかった。やつらが何者であるのかさえも杳としてつかめなかった。残っているのはやつらとの争いの日々だけだ。最近では、ときどきあきらめに似た感覚が胸をよぎることもある。
しかしジョージは途中で投げだすつもりはなかった。いままで依頼を放りだしたことは一度もない。今度も、ジョージは最後までやりとげるつもりだった。
ふと我に返り、ジョージはわずかに頬を歪めた。どうやらすこしばかり感傷的になりすぎたようだった。そんな余裕はない。いつまたやつらの魔の手が伸びてくるかわからないのだ。
トレンチコートの襟を立てると、真夏の太陽の下へとジョージは歩きだした。
ジョージはまだ知らない。彼の果てしなき旅の終わる日が、遥か彼方にあることを。