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「論座」(朝日新聞社)97年12月号:ミロシェビッチ伝

セルビアの最高実力者ミロシェビッチ王朝の興亡

千田 善

 セルビア共和国のミロシェビッチ大統領が今年七月、新ユーゴスラビア大統領(注)に転出した。これを受けて、後任のセルビア大統領選挙が十月五日に実施された。九月下旬の第一回投票で過半数を獲得した者がなく、上位二候補の決戦投票にもつれ込んだが、リベラル派の野党のボイコットの呼びかけで投票率が五割に満たずに不成立となり、初めからやり直しという前代未聞の結果になった。

 しかも開票途中まで、過激な右翼民族主義の急進党党首シェシェリが、ミロシェビッチの推すリリッチ(この七月まで新ユーゴ大統領)をおさえ僅差でリードしていた。選挙が成立していたら、ファシストの大統領が誕生という、異常事態になるところだった。

 (注)新ユーゴスラビアは九二年四月建国のセルビアとモンテネグロ両共和国の連邦国家。チトー大統領(一八九二ー一九八〇)がひきいた自主管理、非同盟の連邦国家(六共和国。現在は新ユーゴを含めて五つに分裂)と区別するため、一般に「新ユーゴ」「旧ユーゴ」と呼んでいる。(注終)

 大統領選と同時に実施されたセルビア共和国議会選挙でも、ミロシェビッチの与党は過半数を獲得できず、政権基盤はきわめて不安定な状況になった。

 セルビア共和国大統領選は直接選挙で、カリスマ性で扇動すれば優位に立てるが、新ユーゴ大統領は連邦議会の議員投票による間接選挙だ。連邦議会の任期はまだ三年近く残っているが、何かのはずみで連立与党が分裂したり、連邦議会が解散・総選挙となって、今回と同じように過半数割れになれば、ミロシェビッチの失脚(不信任)もありうる。

 ミロシェビッチがセルビアの最高実力者になって今年でまる十年になるが、これほどの影響力低下はなかった。ボスニア和平にも大きな影響があるミロシェビッチは、かつてない試練の時代を迎えた。

 ボスニア戦争の初期、西側のマスコミはミロシェビッチに「バルカンのサダム(フセイン・イラク大統領)」というあだ名をつけた。しかし、本物のサダムと異なるのは、一時的にせよアメリカの仲介を受け入れ、ボスニア戦争の終結(停戦)に同意したことだ。

 九五年秋、ミロシェビッチは「ボスニアのセルビア人勢力の代理人」として和平交渉に参加した。十二月の正式調印式では、パリのエリゼ宮で、シラク大統領らに「和平の立役者」であるかのような扱いさえ受けた。

 バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる。その「火薬庫」の命運を握るのがミロシェビッチである。日本ではあまり報道されてこなかったミロシェビッチという人物の実像に迫ってみよう。

          ◇

 九二年まで在ベオグラード米国大使をつとめたウォレン・ツィンマーマンは「ミロシェビッチには二つの顔がある」と語っている。

 第一は、強硬、傲慢で、目的のためには武力行使も辞さない男の顔。セルビア語で一方的にしゃべりまくり、動乱の時代を力で乗り切る民族主義指導者の顔だ。

 第二の顔は、正直で協力的、合理的な解決策を追求する男の顔。流暢な英語で、国際金融が専門の銀行マン(政界入りする前はベオグラード銀行頭取だった)として、かつて訪れたニューヨークの思い出話を語るのが好きな、物静かな男なのだという。

 こんな、エピソードもある。

 九五年十一月、米オハイオ州デイトン市近郊ライト・パターソン米空軍基地内のホテル「ホープ」(希望)の一室。ボスニア戦争当事者の三者が、軍事境界線の線引きをめぐり、最後のツメの交渉を続けていた。

 ミロシェビッチは「ブルチコ回廊の幅を二〇キロに広げろ」との要求に固執していた。

 ブルチコは、東西二つにわかれているセルビア人勢力支配地域(セルビア人共和国)をつなぐ要衝で、文字通りの生命線だ。どうしても譲れない、といいはる彼を、ホルブルック米国務次官補(当時)が別室のコンピューター・ルームに案内した。

 モニターには、ブルチコ周辺の地形が表示されている。ボスニア上空に出動する米軍パイロットが、模擬飛行訓練をするために使う三次元グラフィックだ。

 「さあ、自分で操作してみたまえ」

 ホルブルックにうながされ、ミロシェビッチはモニターに向かう。ところが、何度やっても、ブルチコの南二〇キロを低空飛行すると、山に衝突してしまう。

 「何度もいったろう。ブルチコのすぐ南には山がある。回廊の幅を広げてもむだなことが、君にもわかっただろう」

 ホルブルックが声をかけると、ミロシェビッチは晴れ晴れとした顔で、ブルチコ回廊の幅を五キロにする案に同意した。

 いったん納得すれば、自説をただちに撤回するいさぎよい性格のあらわれか。口の悪いものは、時流を見るに機敏な風見鶏と評するかもしれない。

 あるいは、ボスニアの地形をこれほど正確に把握している米軍の水準に驚嘆し、交渉が決裂してピンポイント空爆でもやられてはかなわない、と背筋に冷たいものが走ったのかもしれない。ポーカーフェイスで、そんなことはおくびにも出さなかっただろうけれど。

 スロボダン・ミロシェビッチは一九四一年八月二十日、セルビア東部のポジャレバツという地方都市に生まれた。団塊の世代より少し上の五十六歳。今年七月、「ユーゴ連邦共和国」(新ユーゴ)大統領に就任した。

 名前の「スロボダン」は「自由」という意味だが、西欧的民主主義の伝統が薄いバルカン半島では、言論・集会・結社などの市民的自由より、「外国や異民族支配からの自由」「民族解放」というニュアンスが強い。

 数百年間、オスマン帝国(トルコ)とハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー)の支配を受たため、「自由」という言葉の使われ方も日本人が考えるのとは違う。強権支配で市民的自由を抑圧する一方、「セルビア民族の自由のため」ボスニアに介入した指導者にはふさわしい名前かもしれない。

 東欧の旧社会主義諸国の政治家では例外的な「生き残り」の一人である。生き残りの秘訣はイデオロギーにこだわらず、わかりやすいスローガンで大衆を説得すること。多民族国家の旧ユーゴでは「禁じ手」だった民族主義をあおり、経済危機や社会停滞に不満をもつ人びとの心をとらえた。

 しかし、自分が民族主義者だとは一度も認めたことはない。彼にとっては民族主義もまた、権力維持の手段にすぎない。

 大の記者会見嫌いで、人前で話すことはめったにないが、演説はうまい。

 八〇年代後半、彼が街頭デモを動員して既製指導部の譲歩や退陣を要求していた当時、ベオグラードの集会では二十時間近くも群衆を待たせ、じらしたあげくにに登壇し、熱狂的な歓迎を受けた。人心をとらえる計算・技術も一級品である。

 筆者はベオグラードに住んでいたのだが、それまでの指導者より若いこと、怒れる群衆と直接対話する政治スタイルなど、強い印象を受けた。初めは、旧ソ連のゴルバチョフのような改革派なのかと期待した。期待した分だけ失望も大きかった。

 後になって、群衆との直接対話は、あらかじめ現場住民リーダーとしめし合わせた「やらせ」だったことが暴露された。実際、ミロシェビッチの「直接対話」は八七年四月のコソボ自治州での集会一度きりで(筆者はこれでだまされた)、二度と群衆の中に歩み入ることはなく、壇上から民族主義を鼓舞するだけの偶像になった。

 ともあれ、彼が権力を奪取し、維持するための絶妙のバランス感覚と権謀術策能力をそなえていることはよく分かった。動乱期に咲いた「あだ花」にしても、ミロシェビッチは一流の策士、または一種の天才である。

 ミロシェビッチの権力は、妻のミリャナ(五四)の存在抜きに考えることはできない。

 大統領の妻といえば、クリントン大統領のヒラリー夫人の影響力が有名だが、セルビアでは大統領夫妻が政権をコントロールする。いわば「夫婦支配」をしいているのだ。

 ミロシェビッチは与党セルビア社会党の党首、妻は別の政党の党首である。旧共産主義者同盟(共産党)の再建を目指す政党を母体にした「ユーゴ左翼連合(JUL)」の代表で、社会党と連立政権を組んでいる。

 夫がマスコミ嫌い(正確には、マスコミに登場するのは嫌いだが、マスコミをコントロールするのは大好き)なのに、妻は雑誌にコラムを連載し、インタビューにも応じる。

 ときには妻が、夫の政策に批判的な記事を書くこともある。その場合は、二、三カ月後に夫(大統領)の方が政策を変更するのがこれまでの例だ。妻の尻にしかれているわけではなく、世論の反応を知るために妻の記事を観測気球にしているのだ。そのせいで、ミリャナは大統領夫人という以上に、国内外の注目を集めている。

 ミリャナの本業はベオグラード大学数理学部教授(社会学)。セルビアの文化・知識人と夫ミロシェビッチのパイプ役でもある。

 ミリャナはかつて、ベオグラード大学内の党組織で人事問題を担当していたという。そのため、科学芸術アカデミー会員などに影響力がある。ミロシェビッチは妻の紹介で、作家などの文化人から知恵を借り、強力な支援を取り付けることができた。

 ミロシェビッチの「虎の巻」は、セルビア科学芸術アカデミーの「メモランダム(覚書)」という文書である。後に新ユーゴ初代大統領になる作家のチョーシッチらが起草したもので、チトー政権下でセルビアが低い地位におかれてきたと分析し、「セルビアの復興」を当面の目標に掲げる、セルビア民族主義の「政治綱領」である。

 ミロシェビッチとミリャナは、故郷の中等学校(日本の高校に相当)時代に知り合った。彼女が十七歳、彼が十八歳の冬、学校の新年パーティ実行委員会で会ったのだという。その後ミロシェビッチはベオグラード大学法学部、ミリャナは哲学部にすすんだ。

 子どもは二人いて、元カーレーサーの息子マルコ(二三)は旧ユーゴ最大のディスコ「マドンナ」の経営者で、政治とはかかわりはなさそうだが、姉のマリヤ(三〇)は左翼連合の放送局「ラジオ・コシャバ(北風)」の編集局長として、父親を擁護するコメントを電波に乗せている。

 ところで、ミリャナはミロシェビッチとの結婚後も旧姓を名乗っている。旧ユーゴでは仕事をもつ女性も、結婚後は夫の姓を名乗るのが普通で、旧姓を使い続ける際も夫の姓とあわせて二重姓にするのが一般的だ。

 通例に従えば「ミリャナ・マルコビッチ=ミロシェビッチ」なのだが、ミリャナは「ミラ・マルコビッチ」という名で通す。「マルコビッチ」の家系が、旧ユーゴでは名門だったためだ。

 ミリャナの父モーマ・マルコビッチは第二次大戦で活躍した「人民英雄」。その弟(叔父)のドラゴスラブ・マルコビッチは八〇年代にユーゴ共産主義者同盟党首をつとめた。

 大幹部の家庭に育ったわけだが、ミリャナの生い立ちは暗い影に包まれている。

 ミリャナはマスコミに露出するとき、名前は「ミラ」を使う。ミリャナの愛称だが、死んだ母のペンネームでもある。

 ミリャナの母親(通称ミラ。本名はベラ・ミレティッチ)はパルチザン(対ドイツ抵抗運動)の活動家だった。ミリャナは一九四二年七月十日、セルビア中部のパルティザンの野営地で生まれたのだが、生まれた翌日、母親から引き離された。

 ベラには、かつてドイツ軍に捕まったことがあり、その時に組織の秘密を漏らしたと疑いがかけられていた。生まれたばかりのミリャナと引き離されたのは、査問がおこなわれることになったためだ。その後のベラの足取りははっきりしない。パルチザン側に処刑されたともいうが、ドイツ軍による銃殺説(四四年九月七日)が有力である。

 ミリャナは継母に育てられた。大幹部だった父親はベオグラードでの仕事が忙しく、あまりポジャレバツには帰ってこない。いつのころからか、ミリャナは黒い服を好んで身につけるようになった。黒は喪服である。ミリャナの中では、記憶のない生母ベラにたいする思いが大きくなっていった。

 ミロシェビッチが高校時代にミリャナに接近したのは、出世のために有力者のコネを利用する目的だったといわれるが、ミロシェビッチ自身の生い立ちも平凡ではない。

 ある伝記作家は、ミロシェビッチの家系が中世セルビア王国の首都があったコソボの出身であり、一三八九年のコソボの合戦(オスマン帝国に中世セルビア王国の軍勢が敗北した伝説で非常に名高い)まで逆上る名門だということを「発見」した。

 これが茶坊主のおべっか、たわごとだと判断する十分な材料を筆者はもっていない。

 ミロシェビッチの生い立ちを考えるうえで重要なのは、「両親の自殺」説である。

 父親のスベトザールはセルビアの隣のモンテネグロ人。母親のスタニスラワはセルビア人だ。セルビア人とモンテネグロ人は別の民族だが、言葉、宗教(セルビア正教)と文字(ロシア文字に似たキリル文字)も同じである。(ちなみにセルビア人とクロアチア人、ムスリム人は、歴史的背景のほかに宗教と文字が異なるが、言葉は同じ。)

 「セルビア民族の偉大な指導者」ミロシェビッチはセルビア人である。ところが、元外交官の兄ボーラは、父親の民族籍と同じモンテネグロ人を名乗っている。

 兄弟で民族が違うのは、民族籍の登録が自己申告制によるためだ。旧ユーゴスラビア時代、連邦政府は各民族出身者に平等に役職を割り振っていた。兄は、外務省のポスト配分にありつける確率が高いので、人口の少ないモンテネグロ人を名乗ったのだという。

 ミロシェビッチには父親の記憶がほとんどない。

 父スベトザールはセルビア正教(ロシア正教やギリシャ正教と同じだが、互いに独立している)の司祭で、中等学校でロシア語を教えていた。ところが第二次大戦後間もなく、幼い兄弟を残したままポジャレバツの家を出て、故郷のモンテネグロに引きこもった。ミロシェビッチが四歳のことである。別居の理由は明らかではないが、大戦中に母親が熱心な共産党の活動家(つまり無神論者)になったためと思われる。

 父親は一九六二年、ピストル自殺を遂げる。これも理由は明らかにされていない。ミロシェビッチがベオグラード大学在学中のことだ。

 母スタニスラワが亡くなったのは、その十年後。これも自殺といわれている。マスコミで、ミロシェビッチの「自殺の血統」が云々されるのはこのためだ。

 ミロシェビッチの娘マリヤについても、一時、自殺未遂説が流れた。いわく、恋人がボスニア出身の外交官で、東京勤務にも同行したが、戦争がはじまり、ムスリム人(イスラム教徒)とセルビア人の彼女の恋は破れ・・と聞いたが、これも噂話である。

 しかし、どうもミロシェビッチの母親の死は、自殺ではないらしい。

 ミロシェビッチ本人はこのことについて公式には一切、発言していないが、妻のミリャナは雑誌のインタビューで、「自殺説」を否定したことがある。

 驚いたことには、ある作家が「ミロシェビッチをイメージダウンさせることを意図して書いた」と告白しているのだ。

 それによると、母親自殺説を初めて書いたのは八〇年代後半、ミロシェビッチがセルビアの実力者として台頭してきた当時で、セルビア民族主義に批判的なスロベニアのマリボール大学の大学新聞だったという。

 その記事が転載、再転載される形で、「ミロシェビッチの自殺の血統」伝説が、世界中に広まったというわけらしい。

 この作家は「そんなことでも書かなければ、ミロシェビッチに対抗する手段はなかった」と、絶対権力者との闘争のためには虚偽の記事を書いても当然だと主張している。

 真偽はともかく、母子家庭で育ったミロシェビッチと、継母に育てられたミリャナは、お互いに何かしら引かれる、あるいは理解しあえるところを見つけたのかもしれない。

 ミロシェビッチが権力の頂点にのぼってゆく出発点は、学生時代に逆上る。

 法学部の学生だったミロシェビッチは一九六二年、第二次大戦で活躍した「人民英雄」のペータル・スタンボリッチの甥のイワン・スタンボリッチと出会う。

 スタンボリッチ家は、ミロシェビッチの妻ミリャナの実家とならぶ名門、大幹部の家系である。これもミロシェビッチが出世のコネを求めて接近したものと思われるが、二人は「義兄弟」の契りを結び、親友以上の深いつながりをもつようになる。

 「義兄弟」というのは筆者の仮訳(意訳)で、直訳すれば「名付け親(ゴッドファーザー。セルビア語でクーム)」。自分の名前を付けてくれた者ばかりではなく、結婚式の立ち会い人も、子どもの名付け親も、みな「クーム」(女性はクーマ)と呼ぶ。世話をした側もされた側もお互いを「クーム」と呼びあい、そのきずなは親兄弟よりも固い。

 スタンボリッチは大学入学前に工場で働いていためミロシェビッチより五歳ほど年長だが、二人はこの「クーム」の関係になった。二十五年後、ミロシェビッチはこの「兄貴分」を裏切り、追い落とすことになる。

 ベオグラード大学では、ミロシェビッチは優秀な活動家だったらしい。

 六五年の憲法改定に向けて、ベオグラード大学で討論がおこなわれた。党最高幹部も出席しているもとで、学生委員のミロシェビッチは国名変更について、原案の「連邦社会主義共和国(FSRJ)」ではなく「社会主義をもっと重視し、社会主義連邦共和国(SFRJ)にすべきだ」と発言した。語順を逆にするだけだが、この意見が採用され、ミロシェビッチは結果的に、旧ユーゴ(社会主義連邦共和国)の「名付け親」になった。

 そのミロシェビッチが旧ユーゴを崩壊させた、あるいは、少なくとも崩壊するきっかけを作ったのは歴史の皮肉である。

 イワンは大学卒業後、セルビア北部ボイボディナ自治州の「ナフタガス」というガス会社の幹部になる。ミロシェビッチも同じ会社に迎えられ、二人三脚で経営にあたった。

 政界入りしたのはイワンが早かったが、同じ時期、ミロシェビッチは三〇代の若さでベオグラード銀行頭取に就任した。

 続いてイワンは、セルビア共産主義者同盟(共産党)議長に就任する。このとき、自分の後任の党ベオグラード市委員会議長にミロシェビッチを推した。

 四年後、イワンはセルビア共和国幹部会議長に就任する。このときも、自分の後任にミロシェビッチを推した。「義兄弟」のちぎりばかりでなく、自分がセルビア共和国の最高責任者になった後も、「弟分」のミロシェビッチをつうじて党組織をコントロールしておきたいと考えたからにほかならない。

 しかし、翌年春にはイワンとミロシェビッチの対立がはじまる。きっかけは、セルビア南部のコソボ自治州のセルビア系住民が「多数派のアルバニア系住民に迫害されているので助けてほしい」とベオグラードまで直訴にきたことだった。

 イワンは、民族問題がからむ微妙なテーマでもあり、経済的てこ入れを中心に長期的な解決策を提案した。これにたいしミロシェビッチは、警察力による早期解決をとなえ、秘密裏に多数派工作をおこない、イワンら既製指導部批判を決議した。この結果、イワンは八七年十二月に正式に辞任、輸出入銀行総裁という閑職に追いやられた。

 「宮廷革命」に成功したミロシェビッチは翌八八年、権力基盤の強化のため、地方指導部の入れ替えに着手した。といっても、市町村議会で不信任案を出すなどの通常の方法ではない。セルビア民族主義をテコにした大衆行動を上から組織したのだ。

 ミロシェビッチは、「コソボ問題の早期解決に消極的な勢力は官僚主義だ」との論陣を張り、既製指導部を攻撃した。コソボのセルビア系住民支援と称して、数万、数十万単位の大集会を各地で開き、市長など幹部が総辞職するまでつるし上げを続ける実力行使を繰り広げた。

 のべ三百ー四百万人が参加したデモや集会は「反官僚主義革命」と呼ばれ、会場にはミロシェビッチの肖像とともに、それまで禁止されていたセルビア民族主義の旗やスローガンが林立した。

 その後の経過は省略するが、ミロシェビッチの「出世」と並行して、旧ユーゴは戦争への道を進んでいった。セルビアではじまった民族主義は、ほかの民族主義(独立運動)の反発を引き起こした。結局、民族主義の激化で旧ユーゴの連邦機能はマヒし、ついで武力衝突から解体・消滅への道をたどることになる。詳しくは、拙著『ユーゴ紛争』(講談社現代新書)を参照してもらいたい。

 「義兄弟」のミロシェビッチに裏切られたイワン・スタンボリッチは後に、インタビューでこう語っている。

 「わたしはもう、そんな男のことは知らない。あの男の名前を口にしても、何十年も協力しあったあの人物ではなく、だれか別の男のことではないかと思えてしまう。それこそが、あの男の偽りの二面性だった」

 イワンの回想録「荒れ野への道」によると、一九八六年、ミロシェビッチがセルビア共産主義者同盟議長に推薦されたとき、セルビア文化相で作家のヨビチッチらがイワンに手紙を書き、ミロシェビッチが「出世主義者、権力亡者である」と警告したという。

 ミロシェビッチの義理の叔父にあたるドラゴスラブ・マルコビッチ(通称ドラジャ)までもが、ミロシェビッチは党首にふさわしい男ではないと、頑強に反対したという。

 「おそらくドラジャは、ミロシェビッチという男には、わたしが知っているのとは別の面があることを知っていたのだろう」と、イワンは回想している。

 「議長選挙の直後、ドラジャはわたしにこういった。歴史は(ミロシェビッチの党首)選出を絶対に許さないだろう。ミロシェビッチを応援したお前のことを、セルビア民族は許さないだろう。ミロシェビッチはすべてを破壊してしまうだろう」

 マルコビッチの予言が正しかったことはいうまでもないが、イワンは現在も、ミロシェビッチの選出そのものは、幹部若返りの必要性などもあり、決して間違いではなかった、と正当化している。

 「最大の失敗は、ドゥシャン・チクレビッチ(連邦軍の退役将軍)の政界入りを許したことだ」とイワンはいう。

 チクレビッチは、ミロシェビッチのセルビア党首就任と同時期に、連邦党幹部会のセルビア代表(幹部会員)に選出された。年齢は一回り上だが、事実上のミロシェビッチ側近である。チクレビッチの人脈を生かし、ミロシェビッチは連邦軍幹部との人脈を築く。あるいは軍部の支持を取り付けたうえで、イワン更迭に踏み切ったのかもしれない。

 ミロシェビッチはこのように、最初は妻の実家のコネをあてにし、続いてイワンのコネを頼って出世した。同時に、妻を通じて懇意になった文化人からは知恵を、軍部からは力を借りながら、動乱の十年間を乗り越えて来たのである。

 ミロシェビッチが現在、深刻な岐路にあることは冒頭に書いたが、いくつもの人脈を使い分け、数々の策略で難局を乗り切ってきた男が、このままジリ貧に終わるとは思えない。「生き残り」のために、今度はいったいどんな手を打ってくるのだろうか。
(終わり)


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