◆ テロにも報復戦争にも反対!!(2001/10/09)
◆ 「新しい戦争」の創始者、カラジッチは5年以上も捕まらない (2001/10/09記)
◆ アルカイダのボスニア・コソボでの活動 (2001/09/25記)
◆ ミロシェビッチ、ついに逮捕(2001/04/02記)
◆ ミロシェビッチ政権崩壊についての感想 (2000/10/08記)
◆ *新政権の課題 (2000/10/08記)
◆ どうなる?! ユーゴスラビア大統領選挙 (2000/9/21記)
◆ コソボに行ってきました (お久しぶりです)(2000/8/20記)
◆ 『サラエボ展』講演会、北海道大学スラブ研究センター講演会のお礼(2000/5/26記)
◆ 引っ越しました (2000/5/8記)
◆ ごぶさたしています (2000/4/21記)

テロにも報復戦争にも反対!!(2001/10/09)

 ついに、アメリカの「報復攻撃」がはじまりました。

 実は、9月11日の当日は、夜10時にたまたまNHKにチャンネルを合わせたら、「ビルが燃えている」と生中継をやっていて、そのまま見ていたら、2機目が突っ込んできた。文字どおり「リアルタイム」でテロ攻撃を目撃し、背筋が寒くなりました。「これは大変だ」と、子どもを寝かしつけていた妻を呼びに行ったのですが、なぜか、ペルーの日本大使館「トゥパック・アマル」占拠事件での武力突入を思い出しました。

 画面を見ながら、なぜか、死者は数千人、つまり、阪神大震災に匹敵する犠牲者が出るだろう、と直感。続いて、アメリカに対するそれだけの被害を与えた「テロ攻撃」の威力は「戦争に匹敵する」と、結構、冷静に、妻に話しかけていました。

 「これは、アメリカは報復するだろう」とすぐわかりました。クリントン前政権も、モニカ・ルインスキーのスキャンダルを消す目的もあって、西アフリカのアメリカ大使館爆破に対し(同じオサマ・ビン・ラーデンが「容疑者」)、あとで無関係とわかったスーダンの製薬工場を含めて、アフガンのオサマの拠点などを空爆した「実績」があるからです。

 しかし、ブッシュ・ジュニアが「戦争に匹敵する」ではなくて、「これは戦争行為だ」と断言したのにも驚かされました。

 テロは犯罪行為であり、戦争とは違います。戦争並みにひどいテロであっても、戦争そのものではありません。報復の空爆をおこなっても、根本的な解決にはなりません。テロを根絶するには「テロ対戦争」つまり「暴力対暴力」ではなく、テロリストの「言い分」を一つひとつ論破し、粉砕し、実行犯たちの「後継者」になりたがる者が出ないように、世の中を変えていかなければなりません。

 テロにはもちろん、絶対反対ですが、報復戦争にも反対です。

 今回の空爆そのものは、3〜4週間程度で、オサマが捕まるか、それより可能性が高いのはどこかの洞窟で死ぬことですが、それでおさまるような気がします(たんなる勘です)。でも、そのあとが、大変。アフガンは11月から零下20度に下がるし、世界中でテロの危険が高まるし、そう言う意味で「違う世界」になることになるのかも知れません。

 それで、タリバンが自己崩壊するか、パキスタンでクーデタが起こって原理主義の政府ができるか、の、時間の競争になるかも知れません。狂ったパキスタン新政府が、脈絡なく、インドに核兵器を3発、というようなことにならなければいいが、と、本当に心配しています。

 パキスタン軍将校の多数派(原理主義)に取って、タリバンは、
1)ヘロイン密輸の収入源
2)トルクメニスタンなど中央アジアの石油や天然ガスをインド洋に運ぶ、未来のパイプラインの庇護者、
3)カシミールでの戦闘の「鉄砲玉」
など、大事な大事な「子分」なので、アメリカも相当大きなアメとムチを持ってこないと抑えられないかも知れません。

 「空爆後」の方がかなり問題だと思います。

 蛇足ですが、今回のテロについて、アメリカのマスコミや政府当局者は「真珠湾以来の奇襲攻撃」と表現しました。映画「パール・ハーバー」公開直後、という事情もあるのかも知れませんが、やれやれ、という気持ち。ともあれ、「自爆攻撃」も「飛行機を使っての特攻」も、もとはといえば「日本の発明品」であることも事実。

 「特攻隊」が好きな首相なら、テロリストの心情も少しは理解できるはず。「国際貢献」をいうなら、アメリカの後押しばかりでなく、日本でなければできない独自の平和的貢献策を打ち出したらどうでしょう。日本は、イスラム教諸国に偏見を(まだ)持たれていない、などの有利な立場があり、アフガン和平についても、何度か仲介の労を執ろうとした実績もあるではないですか。


「新しい戦争」の創始者、カラジッチは5年以上も捕まらない (2001/10/09記)

 国ではないものを相手にした戦争を「新しい戦争」というのなら、その兆候はすでに、ボスニアやコソボにあった。
 いずれも、旧ユーゴ連邦という国が崩壊する過程で生まれた不正規軍・民兵組織が主体で、最近の国際政治学や軍事理論用語では「ノン・ステート・アクター」(非国家的関与者)と分類されるものだ。
 今回の標的になったニューヨークの世界貿易センターが93年に爆破された際、ボスニアのセルビア人勢力指導者カラジッチ「大統領」は「アメリカの自業自得」という声明を発表し、「さては、セルビア人勢力の犯行か」と世界中を驚かせた。
 結果的にビンラディン派の犯行と断定されたが、同勢力ムラディッチ司令官はその後も、NATO軍の空爆に対して「ニューヨークやロンドンを爆破してやる」などという物騒な「報復予告」をした。
 もしボスニアやコソボで停戦が実現せず、アフガニスタンのような武力紛争が現在も続いていたら、NATO諸国に対するテロ攻撃の可能性があったことは否定できない。
 特徴は「国家」ではないため、伝統的な平和維持活動(PKO)など、国と国の紛争を調停することを前提にしてきた国連の仕組みがそのままでは適用できないことだった。マフィアなどの犯罪組織との境界が曖昧で、戦闘行為と犯罪との両方を「正業」にしていることも共通している。
 今後予想されるアメリカのビンラディンにたいする「報復攻撃」を考える際にも、参考になることが多い。
 一つは、「容疑者の逮捕」が非常に難しいということだ。
 カラジッチ、ムラディッチらは国連の旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷から指名手配されている。しかし、停戦後5年以上、起訴から考えると7年以上も捕まっていない。ボスニアには、NATO軍(正式にはSFOR=平和安定化軍)が2万人以上駐留しているが、その監視網をかいくぐり、ボスニアの各地に建設した地下基地などを転々としているとされる。
 何度か潜伏場所を突き止め、特殊部隊による逮捕作戦を検討したが、NATO側にもかなりの犠牲者がでることが確実と予想されたり、襲撃情報が事前に漏れたりという事情が重なり、カラジッチ氏らは今まで生き延びてきた。
 これに加えて、アフガニスタンは面積でボスニアの13倍以上、日本と比較しても2倍近い。地形は山岳が多い点でボスニアと共通してはいるが、ボスニアは高くても2000メートル弱のなだらかな地形であるのに対し、4〜7000メートル級の山脈が中央部を貫くアフガニスタンははるかに急峻で、潜伏場所にも事欠かないだろう。
 次に、コソボ紛争での「教訓」は、アメリカが誇るハイテク兵器による空爆も、意外に精度が低いということだ。
 99年のNATOのユーゴ空爆では、湾岸戦争よりもはるかに多いハイテク爆弾が使用され、精密誘導兵器の割合が1割から6割へと増大した。このうち、カーナビにも使われるGPSを採用した、固定目標を標的にしたミサイルは精度も向上(99.8%)したが、戦車や装甲車など移動目標へのレーザー誘導弾の命中率は、驚くほど低かった。
 NATO司令部は99年6月の空爆終了直後、セルビア治安部隊の戦車を120両破壊したと発表したが、実際は14両にすぎないことが、その後の調査で判明した(米国防総省2000年春公表)。装甲車も220両破壊という当初発表に対し、実数は18両。火砲にいたっては450門という発表にたいし、破壊が確認されたのはわずか20門だった。
 こうした命中精度の低さは、撃墜されることを恐れたNATO側戦闘・爆撃機が通常よりも高い高度から爆弾を投下したことが主な原因と見られるが、米製スティンガー・ミサイルなどを備えるといわれるタリバン軍を相手にしても、事情は同じだろう。
 結局、確実にビンラディンの拠点を破壊するためには固定目標攻撃用の誘導ミサイルを使用することになり、その際に決定的なのは、ビンラディン氏がどこに潜伏しているのかという場所を特定するための情報、ということになる。
 もう一つ、心配なのは、武力行使の場合に大量に発生する難民・避難民の手当だ。
 コソボをめぐる空爆は78日間という短期間、しかも春から夏にかけてのものだった。ボスニアの紛争は3年半続いたが、停戦が守られない中でも国連保護軍が命がけでサラエボなど孤立地帯に人道援助物資を運び、餓死者や凍死者がでるのを防いだ。これに対し、アフガニスタンでは20年以上も戦争が続いている上、ここ3年は大干ばつで、現在でも400万人が人道援助なしでは生活できず、100万人が飢餓線上にあるとされる。すでにアメリカの「報復」予告を受けて国連をはじめ、国際的援助組織は軒並みアフガニスタンから「撤退」し、援助活動はストップしている。零下20度にもなる厳冬期を前に、テロ事件とは直接関係ない数百万人が死に直面するもうひとつ別の「人道的大災害」が引き起こされる危険が現実のものになりつつある。


アルカイダのボスニア・コソボでの活動 (2001/09/25記)

 ビンラディンとその組織は、ボスニア、コソボに根拠地を持ち、アルバニアにも浸透しようとしていた。
 アメリカ捜査当局の発表でも、ビンラディンの組織「アル・カイダ」は、ヨーロッパではドイツ、イギリスとともに、ボスニア、コソボで活動している。
 ボスニア、コソボとも、NATO軍の中心としてアメリカ軍が駐留している。ビンラディンはその目と鼻の先で拠点作りに励んでいたことになる。
 ボスニアでは紛争当時、少なくとも数百人の「ムジャヘディン(おもにアフガン戦争を経験したイスラム戦士)」が政府軍側に参戦した。「外国人兵力の撤退」が定められた和平協定(95年)以降、420人の「アラブまたはトルコ出身」の元兵士にパスポートが発給され、現在も、ボスニア国籍を取得した約70人の「ムジャヘディン」が住んでいる。ビンラディン本人も93年にボスニアのパスポート発給を受けたと報じられている。
 紛争当時のボスニア政府(イスラム教徒中心)内部では、一時は、アメリカなど西側派と、イスラム諸国からの援助を重視する派閥との間で激しい権力争いがおこなわれた。結果的に、イスラム諸国との関係を絶つことを条件に軍事援助を継続するとのアメリカの圧力に屈する形で、イスラム派が排除された経緯がある。それでも「兄弟諸国から来た義勇兵」に国籍や軍人年金を支給することは、特別の問題にはならなかった。これが今では、セルビア人やクロアチア人勢力の絶好の攻撃材料になっている。
 98年の東アフリカの米大使館爆破事件を前後して、アメリカ、カナダ、トルコで拘束された容疑者たちは、ボスニアを経由するように北米と中東を往復していた。
 今年7月にはサラエボ近郊で、ビンラディンの組織メンバー3人が逮捕された。このうち、2人がボスニアのパスポートを所持していた。
 ボスニア政府はビンラディンへのパスポート発給を含め、テロ組織との関係否定に躍起になっているが、ボスニアが彼らのヨーロッパでの重要な活動拠点になっていることは間違いない。
 アルバニアには、94年にビンラディン本人が「サウジのビジネスマン」として入国し、当時のベリシャ大統領と接触し、人道援助機関を隠れ蓑にしながらアルバニア国内での活動のほか、隣接するコソボの武装勢力(後のコソボ解放軍=KLA)への軍事援助をおこなった。
 アルバニアでの活動は、東アフリカの米大使館爆破事件直前、アルバニア当局と米CIAの共同作戦で幹部5人が逮捕されたことで挫折したが、アル・カイダはすでに、前年のアルバニア内乱に乗じて、数万丁の武器(おもに自動小銃)、10万冊の白紙のパスポートなどを入手していた。
 ビンラディン派は隣接するコソボに拠点を移し、次はコソボ解放軍(KLA)内への影響力拡大を狙った。少なくとも数十人の「ムジャヘディン」が急造のKLA兵士たちに軍事訓練を施した。アメリカ情報機関はKLAにたいし、ムジャヘディンとの協力を中止するよう「アドバイス」を与えたが、資金面での関係は続いたと見られる。
 アルバニア人勢力と敵対するセルビア共和国の治安当局は昨年4月、ビンラディン本人がコソボに潜入した、と発表した。NATOは調査を約束したが(確認できなかった)、セルビア側は少なくとも2個所にビンラディンの拠点があるとしている。
 KLAの幹部たちはビンラディンとの関係を否定しているが、ビンラディンが潜伏していると見られるアフガニスタンとKLAの関係は伝統的なものですらある。KLAの資金源の大半は西ヨーロッパでの麻薬売買で得たもので、とくに、スイスとドイツで出回ったヘロインの7割はコソボのアルバニア人マフィアが扱っていたという。ヘロインの原料であるアヘンはアフガニスタンやイラン、トルコなどから陸路密輸され、コソボ内の秘密工場で精製され、地中海をわたってイタリア経由などで「市場」に運ばれた。
 ビンラディンとしては、イスラム教徒の多いボスニアや、コソボのアルバニア系住民の中で影響力を拡大しようと、武器や資金援助を続けたものの、浸透工作がうまくいったとはいえない。いずれも、アメリカがそれに待ったをかけた形で、ビンラディンの「ヨーロッパでの拠点建設」が挫折した結果だ。このことも、ビンラディンの「アメリカ憎し」の感情の火に油を注いでいるのかも知れない。


ミロシェビッチ、ついに逮捕(2001/04/02記)

 昨年秋の「民衆革命」で退陣に追い込まれたミロシェビッチ前ユーゴ大統領(59)が、ついに逮捕されました。現地時間4月1日午前4時すぎ。ジンジッチ・セルビア共和国首相の命令を受けた同共和国警察が逮捕行動に踏み切った3月30日深夜から30時間あまり、いったんは「逮捕は失敗か」と思われた後に、ミロシェビッチは説得に応じ、抵抗をやめて「降伏」しました。
 一時はミロシェビッチの支持者4〜500人が大統領官邸前(大統領をやめた後も居座っていた)に集まり、内部には約75人の「ボディガード」が立てこもり、数十人の連邦軍部隊が警察の逮捕行動を妨害し、銃撃戦も起こるなど、30時間あまりの緊迫した状況が続きました。警察側の説得の際、ミロシェビッチは妻のミリャナ・マルコビッチ(58)とともに、「生きて逮捕されることはない」と語り、手にはピストルを持っていたということです。逮捕間際に、娘のマリア・ミロシェビッチ(35)が警察幹部に対して発砲(誰もけがせず)しました。ミロシェビッチは、ベオグラード市内の拘置所に収監され、さっそくミリャナは「面会」に行ってきたそうです。
 逮捕は当然。むしろ遅すぎたほど。しかし、逮捕にいたる経過から、現在のセルビア(ユーゴ)の問題点も浮かび上がってきました。
 第一は、ミロシェビッチ政権崩壊後に与党となったコシュトゥニツァ新大統領の陣営内部の足並みの乱れが深刻だということ。逮捕作戦の時、コシュトゥニツァはスイス訪問中で、事前にジンジッチ・セルビア首相から逮捕の連絡を受けていなかった。ジンジッチは「コシュトゥニツァはずし」を試みているようで、昨年末の共和国議会選挙の時にも、コシュトゥニツァを呼ばずに「祝杯」をあげた。共和国政府の組閣人事をめぐっても対立した。
 第二に、依然として連邦軍の立場が灰色であること。現在の参謀総長パウコビッチ将軍はミロシェビッチ時代からの継続で、ミロシェビッチ政権崩壊の直前まで、忠誠を誓っていた。大統領官邸の警備のために連邦軍部隊が駐留していたが、「文書での命令がなかった」(パウコビッチ)という理由で、逮捕作戦を事実上妨害した。連邦軍はジンジッチの共和国政府ではなく、コシュトゥニツァの連邦政府の管轄下にあるが、コシュトゥニツァがきちんと軍部を掌握しているのか。パウコビッチが「昔の主人の復活」を夢想したりしなかったかどうか。
 第三に、ミロシェビッチの容疑について。ミロシェビッチはコソボのアルバニア系住民弾圧をめぐり、オランダ・ハーグにある国連の戦争犯罪国際法廷(ICTY)から起訴されており、アメリカ政府はICTYへの協力を条件にユーゴへの経済援助を実施するとしてきた。その期限が3月いっぱいだった。ミロシェビッチの逮捕作戦が、そうした「外圧」からのものだった過去とが明白なのに、容疑は戦争犯罪ではなく、約1億ドルの横領というものだった(それにしても、アメリカの緊急援助は5000億ドルで、ミロシェビッチの横領推定額の半分というのは大したものだ)。
 これまで、ミロシェビッチの側近が横領などの汚職、政敵の暗殺などの容疑で逮捕されている。ミロシェビッチを国内問題で裁くのは、セルビア内部での新政権の基盤固めに役には立つだろうが、それだけでは不十分だ。セルビアの人々がこれから将来、胸をはって国際社会の一員として進んでいくために一番重要なのは、コソボやボスニアなどでの戦争犯罪問題だ。
 といっても、筆者は「外圧」に従えといっているのではない。ユーゴの憲法(刑法)が国際手配容疑者の国外引き渡しを禁じているなど手続き上の問題はあるが、最大の問題は、コシュトゥニツァ(真性の民族主義)、ジンジッチ(元無政府主義で今は便宜上の民族主義)ともに、ミロシェビッチのこれらの戦争犯罪に真剣に向き合おうとしていないことだ(新政府ではスビラノビッチ連邦外相あたりしか、市民レベルでの民主主義者はいない)。
 コソボだけでなく、将来はボスニアなどの戦争にかんしても、ミロシェビッチ時代の責任が問われることになるだろう。セルビア(ユーゴ)が孤立を脱却するためには、近隣諸国とその住民との和解が欠かせない。ミロシェビッチ時代の犯罪がきちんと裁かれること、新政権はそれに協力ないしはみずから積極的に断罪することで「民族主義」を総括し、教訓を引き出す。これなしには、コソボやマケドニア、それからまた雲行きが怪しくなってきたボスニアなどでの恒久的平和はあり得ない。


 ミロシェビッチの側近だったマルコビッチ秘密警察長官が逮捕されました。野党指導者ドラシュコビッチの暗殺未遂(乗っている乗用車にトラックで体当たりするという荒っぽい方法)の容疑で、暗殺の指示をした疑いなどで3月初めにもミロシェビッチ本人の逮捕・取り調べがはじまる可能性があります。これに関連して、今年1月に「アエラ」に掲載された記事(
ミロシェビッチ夫妻の往生際)をアップロードしました。(2001年2月28日)
 ミロシェビッチ政権崩壊についての感想 (2000/10/08記)

 彼がセルビア共和国の最高実力者になったのが13年前。当時、ベオグラードに住んでいて、それを間近に目撃し、その後も、ボスニアやコソボなどの戦争を追いかけてきたものとして、一言ではいえない感慨がある。87年に彼が権力の座についたのは、何万人もの大衆集会で旧幹部をつるし上げ、辞任に追い込むというやり方だったが、それと同じようなやり方で、逆に大統領の座から追放されるとは歴史の皮肉だ。

*コシュトゥニツァはどんな人物

 野党の中では第三か第四の小政党の党首で、これまであまり脚光が当たらなかった。有力な野党指導者が「内輪もめ」などでイメージダウンする中、消去法で統一候補に祭り上げられた。ほかの野党指導者と対照的に、権力の座につきたいという野心よりは、「筋を通す」ことを優先する傾向があり、これまで小政党の党首に甘んじてきた。当選が事実上決まった後でのインタビューでも、本人みずから、自分の大統領の任期は短期間だと語っている。
 元もとはベオグラード大学の法学部教授で、セルビア民族主義的傾向を理由に首になった。憲法学者の立場から民主主義についての理解はあるが、むしろ、民族主義者として考えた方がいい。今回も、NATOの空爆はもちろん、ミロシェビッチが署名したボスニア和平協定などにも批判的で、とくにアメリカに対する反発は強い。とりわけ、この間の旧ユーゴ紛争中の戦争犯罪を裁くために国連が設置した国際法廷(オランダ・ハーグ)はアメリカ主導の片寄った機関であるから、ミロシェビッチを含め、起訴・国際手配されているセルビア人の容疑者を引き渡すことは拒否すると強調している。
 一方で、国際的な経済制裁解除には大きく期待しており、国際的な孤立を解消する政策など、民族主義とは矛盾する二面性がある。むしろ、西側にとっては、自分の権力を維持できることを条件にかなりの妥協・譲歩を重ねてきたミロシェビッチよりも、扱いにくい面があるかも知れない。

*大統領選挙から政権崩壊までの経緯

 まず、ミロシェビッチ自身が、国民の不満の大きさを過小評価していたことがある。コソボをめぐるNATO空爆でかえって人気が高まったと判断したミロシェビッチは、早い方が有利だと、来年夏の任期満了を待たずに、10カ月繰り上げて大統領選挙を実施することを決めた。しかも、憲法では再選を禁じているのに、2期まで可能とするように、強引に改憲し、沖縄サミットなど国際的な非難も気にせず、勝利を確信していた。
 ところが、コシュトゥニツァが候補になると、急速に支持が広がり、事前の世論調査でも50%対30%程度でミロシェビッチが不利との結果が出ていた。そこで、ミロシェビッチは得票操作をおこなうことになるのだが、おそらくあまりにコシュトゥニツァ票が大きく、9月24日に実施された第一回目の投票でミロシェビッチ勝利を宣言できず、決選投票を実施することにした。
 これに対し、野党連合は第一回投票でコシュトゥニツァの勝ちだとして、決選投票を拒否し、10月2日からはゼネストに踏み切った。2日から連日、野党側は集会を開いていたが、ついに5日の全国集会で、国会突入や国営テレビ局占拠などの実力行使にいたり、一挙に政権が崩壊した。

 ミロシェビッチ側は、こうした世論の盛り上がりを前に、10月8日の決選投票強行を断念し、第一回投票の無効と大統領選挙のやり直しを宣言(憲法裁判所裁定)したが、かえってこれが「ミロシェビッチのパワーが弱まっている」という印象を強め、野党側の追い風になった。

 このような盛り上がりにいたる前に、野党側の集会やストを武力弾圧するという手段で政権維持をはかる手段も可能だったと思うが、もしそういう強硬手段を実際に取れば、セルビアとともにユーゴ連邦を構成しているモンテネグロが連邦離脱・独立の方向を強めるのが必至で、そうなれば連邦そのものが崩壊し、連邦大統領のポストも意味がなくなってしまう。このため、ミロシェビッチ側の武力発動は催涙ガス程度で終わり、実弾発射は命令されなかった。野党支持者が2人死亡しているが、1人は女子学生が野党のブルドーザーにひかれて死んだもの、もう1人は心臓発作で死亡と、治安部隊側の弾圧によるものではない。
 当初からミロシェビッチは、軍をあまり信用しておらず、警察に治安維持をまかせた。警察は8万とも9万人ともいわれ、日本の人口に当てはめると100万人に相当する以上に肥大したものだった。したがって、軍の「中立」宣言はあまり驚かなかったが、警察治安部隊の中から大量の離反者が出るという事態は、そこまで国民がミロシェビッチを見放したことの反映なのだろうと感じた。

*ミロシェビッチの今後

 ミロシェビッチは野党の大集会の後、約2日間、所在不明とされ、みずからも沈黙を守っていた。ロシアのイワノフ外相の「助け船」に乗る形でテレビ演説による退陣表明をおこなえたことで、ひとまずルーマニアのチャウシェスクのような末路は回避された。この演説の中で、少し休んで、孫と遊んで、それから旧与党(社会党)の党首として、野党政治家としての活動を続けることを表明したが、情勢を見るとそう簡単ではない。
 コシュトゥニツァ新大統領は野党としてのミロシェビッチを認める方向にようだが、もっと広範な国民世論がミロシェビッチの政治活動を容認するかどうか、単にこれまでのボスニアやコソボなどをめぐる政策上のの問題だけではなく、噂される不正蓄財の問題などもある。社会党本部や国会登院などの際にテロ襲撃などが起こるようだと、政治生命どころか肉体的な生命の危険もある。アメリカなど西側政府も、政治活動の継続は認められないと強く反発している。
 亡命などが噂されるが、戦争犯罪容疑で国際手配されるミロシェビッチが国外に出れば、即時逮捕され、ハーグに引き渡されることになっている。ちまたでは、ロシアやベラルーシ、中国などが亡命候補にあげられているが、いずれも現実的とは思えない。コシュトゥニツァが国際法廷への引き渡しを拒否している以上、軟禁の形か、あるいは監獄か、テロの危険はあっても、とにかく国内にいる方が「安全」かも知れない。
 しかし、今回の同時選挙で連邦議会では旧与党が多数派を占めたため、ミロシェビッチ派が結束して連邦政府首相などのポストを得るようだと、ミロシェビッチの復権の余地はある。

*新政権の課題

 経済的には去年のNATO空爆でめちゃめちゃになり、欧州最貧困国のアルバニア並みの水準まで落ち込んだ経済の復興が第一。ミロシェビッチ退陣で経済制裁が解除されることで、ある期間は国際的な援助を当てにできるだろう。しかし、社会インフラがかなり破壊され、しかも、元もとの社会主義的なシステムから市場経済的なシステムへの移行が必要で、これにはかなりの時間がかかる。
 短期間でかなりの前進がないと、独立を準備しているモンテネグロ共和国の分離を阻止できない。経済的なメリットと、文句の付け用のない民主主義的な制度改革などの実績を明らかにしていかないと、コシュトゥニツァの任期中にユーゴ連邦そのものがなくなりかねない。
 そこで、国際関係の修復が一層重要になるが、前にも述べたとおり、コシュトゥニツァは西側にとって、一筋縄では行かない人物だ。コシュトゥニツァはアメリカには批判的な反面、とりわけフランスなどの西ヨーロッパには親近感を抱いているようにも煮える。いずれにしろ、外交政策も経済も、コシュトゥニツァじしんには実績も技量もなく、どれだけ優れたブレーンを集められるかがカギだ。
 最大の問題になるのは、モンテネグロの独立問題とともに、空爆のきっかけになったコソボ問題だ。
 コソボのアルバニア人たちは、ミロシェビッチ政権下ではやっていけないから独立するしかないと主張してきたが、コシュトゥニツァ政権の発足で、逆に独立が難しくなる。それとともに、コシュトゥニツァがミロシェビッチ以上の民族主義ではないかとの懸念がアルバニア人指導部の中に生まれている。コシュトゥニツァの側では、アルバニアの参加だけで選挙を実施しようとしている国連の現在のやり方に批判的で、もし、コソボに長く住んできたセルビア人難民がコソボに戻れなければ、NATOや国連との関係そのものを見直す、という態度だ。可能性は高くないが、場合によっては、コソボのNATO軍と新しいユーゴ治安部隊が小ぜりあいを起こすことにもなりかねない。
 したがって、ミロシェビッチは去ったとしても、かなりの難題を「置きみやげ」として、後任のコシュトゥニツァとユーゴ国民に残して行くことになる。ミロシェビッチ時代13年間のマイナスを取り戻すためには、まだ長い道のりが先に横たわっている。

 どうなる?! ユーゴスラビア大統領選挙 (2000/9/21記)

 いよいよ、ユーゴスラビア大統領選挙。連邦議会などとの同日投票で、トリプル選挙になりますが、焦点はミロシェビッチ退陣なるかどうか。世論調査では野党連合のコシュトゥーニツァ候補が大きくリード。この「世論調査」なるものが、「民主主義」の経験が少ないユーゴではあまりなじみがないため、どこまで信頼できるかわからないけれど(たとえば、調査対象が、野党側の勢力が強い都市部中心ではないか、どれだけ多くのサンプルを集めているのか、など調査方法そのものがあいまい)、「かぶれといわれたらミロシェビッチのはいたパンツもかぶる男」といわれたリリッチ前連邦大統領が与党を離れたり、陣営内部の矛盾も露呈してきた。どうも、与党側も秘密裏に「調査」した結果、ミロシェビッチ不利という認識に達したらしく、さまざまな不正工作の噂が‥‥
 1)有権者があいまいなコソボから、アルバニア人を含めた数十万人が「投票」し、ミロシェビッチが第一回投票で過半数を「獲得」して当選を宣言、というシナリオ。(つまり、純粋な票操作のみで勝利宣言)
 2)同様の不正操作でミロシェビッチが第一回投票でリードし、二週間後の決選投票までの間に、「緊急事態」が発生し、選挙を中止し、選管が一方的にミロシェビッチ当選を宣言。この場合、独立を指向するモンテネグロへの軍事介入(口実は何とでもでっち上げられる)という実力行使がともなう、というシナリオ。(この場合、モンテネグロの出方次第では、またまたNATOの介入もありうる)
 3)96年末の地方選挙同様、与党の不正が発覚し、野党側が激しい抗議デモをおこなうなど、大混乱し、警察が介入、結局、わけがわからないままに、ミロシェビッチが政権にとどまる。(EUなどが厳しい制裁を課すことが確実)
 4)ミロシェビッチはいさぎよく、敗北を認めるが、連邦議会では与党連合(夫の社会党と妻の左翼連合)が多数を占め、ミロシェビッチは連邦政府首相に就任し、憲法上の権限が大きくない大統領を「空洞化」する。あるいは、自分の「子分」を首相にし、「院政」をしく。(というのは、連邦大統領はドイツのように、シンボリックな権限が中心で、実権は首相にある。これまで、子分のブラトビッチ連邦首相および、警察を統括する内相を通じて、自分に都合のいい政治を続けてきた。ただし、このシナリオにとっては、今年になっての憲法改定で大統領権限を強化した防衛評議会の条項などが反証になる。やはり、ミロシェビッチは大統領をやめるつもりは最初からないのかも知れない。)
 3)と4)の場合、現状では、野党側の団結力が弱く、96年〜97年の100日抗議デモの当時と同様に、しばらくするとドラシュコビッチとジンジッチが仲違いし、空中分裂、実質的にはミロシェビッチ政権が続く。
 いずれにせよ、大統領選挙は重要だけれど、ミロシェビッチの政治生命が完全に絶たれるのでなければ、あまり大きな変化はないかも知れないなあ、と、少し悲観的になっている今日この頃。CIAがミロシェビッチにたいして、退陣すれば国外亡命を認めるといったとかいう噂もあるけれど(行き先はロシア? シベリア送りってわけ)、何が起きるかわからない。まあ、何かが起きるとすれば、いつも、この国では「土曜日」に大事件が起きますので、要注意。


 コソボに行ってきました (お久しぶりです)(2000/8/20記)

 7月初めにコソボに行ってきました。古い話になりますが、偶然にも、バルカン半島地方は歴史的な熱波に襲われていて、プリシュティナの最高気温は何と43度!! クルマのエアコンが壊れていると運転手さんに苦情を言い続けていたのですが、気候の方が異常なのでした。
 コソボのある村で、面白い体験をしました。有権者登録のおこなわれている小学校で、わたしたち「ピースボート」の一行を歓迎するために、登録所のケニア人の所長さんとともに、村長さんと校長先生をはじめとする村の主だった人たちが集まってくれたのですが、いざ、村長さんが村の近況について説明をしようとしたところ、教室の端にたっていたポロシャツ姿の男が突然、演説をはじめたのです。村長さんは困った顔をしながらも、文句も言えないようで、校長先生とともに黙ってしまいました。いったい、村長や校長よりも「偉い」この男は誰だ??
 聞けば、学校の美術教師で、村の経済計画の副責任者だというのですが、それなら、村長や校長の方が偉いはず。しかし、この男は、20分以上も演説を続け、村長や校長が挨拶する余裕も与えずに、ミーティングを打ち切ってしまった。ウーム。これが、解体したはずのKLAの「陰の政府」に違いない。男はきっと、KLAの政治将校か何かで、村長や校長に対して、命令する立場にある、村長や校長を任命したのもKLAである。男は間違いなく、この村で「一番、偉い」。しかし、うっかり、そんな「暗黙の了解事項」を理解しない外国人の前で、日頃の「威厳」を発揮してしまった‥‥。
 コソボは現在、国連コソボ暫定行政支援団(UNMIK)の統治下にあり、事実上、国連の保護領のような地位にあります。昨年の空爆後、セルビア側治安部隊撤退にともない、セルビア当局系の行政機構が崩壊したままで、国連は、各地にに組織されている市町村「臨時政府」を自由選挙が実施されるまでの間、「暫定的」に正当なものとして、援助物資の受け入れの窓口として、あるいは日常的な必要最低限の地方行政活動の主体として公認しました。が、「臨時政府」とは何のことはない、KLAの組織した(まあ、実行支配しているのは確かですが)もの。
 さあ、そのコソボで、いよいよ、選挙日程が固まりました。10月28日、即日開票の予定。ただし、地方選挙だけで、州議会選挙は延期。KLAの支配する「臨時政府」を国連がいつまでも「暫定的」に承認し続けたくないという意図から、予定通りに秋の選挙ということになったと思われます。はたして、KLA系地方行政機構が、そのまま選挙による「お墨付き」を得ることになるのか、あるいは穏健派ルゴバ派の巻き返しがなるのか。重大な問題は、セルビア系住民が有権者登録をボイコットしたままでの見切り発車ということ。しかし、セルビア系を待ってばかりでは、永久に選挙ができないだろうということも、容易に予想がつく。ウーム。難しい問題です。
 セルビア(新ユーゴ)では、野党の足並みが乱れたままの状況につけ込み、ミロシェビッチは大統領選挙を9月24日に繰り上げ実施を決定。憲法と選挙法を改定して、みずからの再選(再立候補)を可能にするという強引な手法がどこまで通用するのか。ユーゴからの独立を指向するモンテネグロ共和国は、どう出るか。一触即発。また、政局が混迷するスロベニアでも、10月15日に総選挙がおこなわれることになりました。旧ユーゴは、秋も熱い(暑い?)!!


 『サラエボ展』講演会、北海道大学スラブ研究センター講演会のお礼(2000/5/26記)

 5月20日に福岡で開かれた『サラエボ展』では、わたしはパネルディスカッションの一参加者の予定でしたが、ボスニアからのゲスト、アイーダさんを東京から現地にエスコートし、会場での通訳も急遽つとめまして、ちょっとくたびれました。予定を大幅に上回る方々が来場され、盛会となりました。主催者の「国際問題を考える会」の秋山さんをはじめ、みなさん、ありがとうございました。(井原さん、ごちそうさまでした。今度は長浜の屋台につれて行って下さい。)
 質問では、結局ジャーナリストとして無力感を感じないか、などと鋭く追求されたりしましたが、わたし個人はジャーナリズムに活動分野を限定しているつもりはないものの、ジャーナリズムの任務というものについていえば、事実を正確に記録し、戦争や惨害にたいする責任がだれにあるのかを、あくまでねばり強く明らかにしていくことだと信じています。
 続いて5月22日には、今度は札幌の北海道大学スラブ研究センターの公開講座でお話をさせていただく機会をいただきました。こちらも、平日にもかかわらず、教室がいっぱいになり、ありがとうございました。話が横道にそれてばかりで、準備したものの半分ちょっとしかお話しできませんでしたが、旧ユーゴの現状の一端や、コソボをめぐるNATOの空爆問題の深刻さなどについて、少しは整理できたものと思います。
 こちらでは、さすがスラブ研、最近ではボシュニャック人と自称することの多いボスニアの「ムスリム人(ムスリム民族)」と、「神に帰依している人」という意味での「ムスリム(イスラム教徒)」の関係についてなど、結構専門的な質問をいただきました。まあ、話せば長くなりますが、ボスニアのムスリム人は宗教に大いに関係はしているが、信者集団ではなく、無神論者も出自と本人の意思によって「ムスリム人」となることができる。一方、同じ旧ユーゴのイスラム教徒でも、アルバニア人やトルコ人のムスリムを「ムスリム人」とは呼ばない。「ムスリム人(ボシュニャック人)」は、「セルビア・クロアチア語(ボスニア語)を母語とし、イスラム教の伝統にしたがった生活・文化的習慣を共有する集団」とでも定義づけられましょうか。ただ、こうした「民族」は旧ユーゴ独特のもので、同じような集団であるブルガリアの「ポマック(複数形ポマツィ)」は民族としては認められていません。ちなみに、ボシュニャックとは、フランス語の「ボスニア人」がなまったもの。セルビア人やクロアチア人などを含む「ボスニア人(ボスニア出身者)」は「ボサーナツ(複数形ボサンツィ)」という別の表現がありますが、「ボシュニャック」は事実上、「ムスリム人」の代替表現として使用されています。これが「脱イスラム教」の方向でのムスリム民族の非宗教的定義に行くのか、それとも遠い将来、セルビア人やクロアチア人をも含めた「ボスニア民族」の創成を意図しているのか、よくわかりませんが、次の本で「ボシュニャック人」という項目をたてて何か書こうと思います。


 引っ越しました (2000/5/8記)

 いや〜、実は、今月初め、北海道から東京に引っ越しました。正確にいうと、中央線沿線の、以前住んでいた近くに戻ったわけです。今度は駅から歩いていけるところです。乳飲み子をかかえた身で、3〜4月のボスニア出張やら、5月下旬に白水社から2冊出す翻訳(クセジュ文庫の「スロヴェニア」と「クロアチア」)の仕上げと校正と、いっぱい仕事が重なって、大変でした。あまりの本の重さに、引っ越し屋のアルバイトの学生が一人、作業中に倒れてしまいました。まだ、部屋には段ボール箱が山積みになったままですが、とりあえず、荷物は移動し終わりました。長女の転校の手続きも無事に済み、家族一同も元気です(家内は疲れています)。札幌在住の際にお世話になった方々、また、遠く離れていたためにご不便をおかけした東京近辺のマスコミ・出版関係の皆様、今後とも、よろしくお願いします。


 ごぶさたしています (2000/4/21記)

 しばらく、忙しくて、ホームページの更新ができませんでした。このかん、5月に翻訳を2冊出すための仕事と、ボスニアの選挙監視の出張とで、メールのお返事もなかなか差し上げられず、ごめんなさい。
 というわけで、4月8日投票のボスニア地方選挙に行って帰ってきました。今回は一人で8個所も投票所を担当(他の人は4〜5個所なのに)する羽目になり、結構タフでしたが、その甲斐ありました。サラエボなどで野党の非民族主義政党が圧勝し、新しい風を吹かせました。といっても、不在者投票などの開票はまだ全部すんでおらず、確定していないのですが、まあ、もう少しご辛抱下さい。サラエボなどに新しい市長(区長)が誕生します。躍進したのは社会民主党で、旧共産党(共産主義者同盟)の流れをくむ政党ですが、幹部は一新され、とくに党首のラグムジヤ氏が格好いい、奥さんも美人、なのはともかく、アメリカの大学でも教えたことのある経済学者で、なかなかの人気です。与党のイスラム教徒系の民主行動党は、イゼトベゴビッチの後継者争いなどで精彩がありませんでした。といっても、セルビア人共和国やクロアチア人地域(旧ヘルツェグボスナ)では相変わらずの結果で、非民族主義政党が勝ったのはサラエボなど、ムスリム人地域の、それも大都市のみ。まあ、3分の1歩前進、というところでしょうか。
 で、また、というわけで、5月下旬に、白水社という出版社の文庫クセジュシリーズから「スロヴェニア」と「クロアチア」の2冊が一挙、同時発売の予定です。何と、ちゃんと習ったことのないフランス語から翻訳してしまいました!! 大学ではドイツご選択だったこの私が、どういう因果か、フランス語の呪縛に捕らわれ続けて、そのうち寝言もフランス語でいう始末(嘘)。「スロヴェニア」はまあまあ、一人で訳しましたが、あまりに苦労し、時間もかかったので(斎藤さん、お世話になりました)、「クロアチア」の方は湧口さんという、研究者の方との共訳です。原著にはサッカーの話はまったく書いていなかったので、訳者あとがきにちょこっとだけ書き足しておきました。こうご期待。みんな買ってね。


 千田あての電子メールはここをクリックしてください。

zenchida@yahoo.co.jp