ボランティアとエセボランティア
これは、大学内のネットワークニュースの管理に関連して露呈したある教員からの暴言に対処していった過程で作成した文章でした。ニュースの管理を、学内のコンセンサスもつくらずになしくずし的に行ってきてしまったが故に生じた問題をどう解決するか、というところへ、「それまでの苦労を無視するのか」といった態度でその教員は登場し、あげくの果てに無関係な中傷発言に至りました。ここでは、その教員の社会的な立場を勘案した結果、特定個人を判別できる部分については修正をほどこしてあります。正直なことをいえば、その教員とのやりとりのすべてを公開するほうが東京都の職員の現実の一つを日の下にあきらかにするという意味では社会的な価値は高いのかもしれませんが、そういうゴミ処理はボランティア論の本質ではありませんので。
最初に、「ボランティア」という語の意味から確認しましょう。これは、慈善事業でなければ、慈善行為でもなく、滅私奉公でもありません。これは、「よいこと」や「崇高な事」という枠の中にあるものではなく、犠牲や忍従を伴うものでもありません。それは、自発的な行為であり、志願する行為であり、絶対的に「自分がそれをなしたいからなす」のであり、その行為については外部、あるいは他者のあらゆる評価の介在を必要としないものであり、かつ、必要とするはずのないものです。「みんなのためになるよいこと」をするのがボランティアなのではありません。自発的自立的に、自分が必要だと考えることを自らの行為と責任の上でなすことがボランティアなのです。したがって、本来のボランティアは、通常の労働体系の枠の中にある行為よりも一般的に高い責任感と遂行意識を持ちます。ほめられたい、感謝されたい、おかねがほしい、名誉がほしい、といった観念の対極に位置するものなのです。ボランティアをなす者は、(それが本当の意味で「ボランティア」だったのであれば)、自らの行為に対してよせられる「感謝」や「お礼」を積極的、明示的に拒絶し、「そんなことをいう暇があるのなら、問題点や批判すべき点、改善すべき点を指摘してくれ」というでしょう。なぜならば、本当にボランティアであるならば、つまり、ボランティアを隠れ蓑とした私利私欲に溺れたクズでなければ、その行為に対する対価とは、まさしく行為と結果そのものであり、その喜びとは、批判を受け、改善していく事でさらに良なるものをつくりあげることにあるからです。仕事の報酬は、仕事それ自体。これが、本質です。
ボランティアという概念は、個と社会とのかかわりの中にあって異色なものです。それは、個としての労働の対価をいわゆる通常の労働評価の体系に求めず、自らのボランタリズムをもって自律しようというものだからです。労働評価の体系に依存しない、ということは、表からみた場合は「自らの求める事を自らをもって任ずる」ことであるわけですが、邪悪な裏面から強引に垣間見るならば、「正当な評価をあえて求めない」ことによって、一種の崇高さをかみしめる喜びをもって自らへの報酬とする場合もでてきてしまいます。
前者は、行為自体が目的ですから、自分が何をどれだけ過去になしとげたかなどには一顧だにせず、つくりあげたものが結果として改善され、問題が解決するならばいかなる批判をも吸収し、自らの判断をもって反映させ、さらなる完成を求めるでしょう。あきらかな敵対者からの批判でさえ、いや、それこそまさにしたたかなる批判でしょうからそのような批判をこそ、よろこんで求める、とすらいえます。
後者の場合は、行為自体ではなく、「通常の労働評価体系に依存せずにあえて」はたらいている、はたらいてきた、という過程のみが大切であり、また、「もちだしでがんばってくれるすてきな方」という周囲の視線がはげみですから、なしとげたことではなく、過去になにをどれくらい我慢してきたのか、結果はともかくとりあえずどれくらいがんばってきたのか、に徒に執着し、あまつさえ感謝を周囲に対して明に暗に要求する、という破廉恥なことまでぬけぬけとやってのけます。この極端に異なる二者がともに「ボランティア」であるということがありうるのでしょうか。そもそも、「ボランティア」とはなんなのでしょう。
ここでのキーワードは「労働に対する評価」です。これを、必然的に求める事すらおもいつかないのが前者の「ボランティア」であり、これを「あえて」否定するところに初めて価値を見出したところから意識が出発するのが(手は意識よりも先に動いている事はありましょう。それが部分屋や人足であればなおさら)後者の「ボランティア」にほかなりません。ボランティア行為に対する対価は、常に行為それ自身でしかありません。そこに、物質的であれ、精神的であれ、なんらかの他の見返りを「つい要求してしまう」(「感謝」とか「過去の意味」、「やってきたおかげ」等ですね)のは、その人が、動機の不純なエセボランティアだからです。ある行為の評価は、社会の構成員への利害と個の尊重のバランスできめられます。ある目的や意志の評価も同様です。評価、つまり対価は行為者と被行為者との利害得失のバランスをとるものです。対価をともなわなければ「施し」という社会的な立場の勾配が生じ、対価をともなうことでそれぞれの立場を対等にすることができる、これが基本の理念です。対価とは、金子であったり、ポジションであったり、名声であったりしますが、ここで冒頭の問題にからんでくるのは、この「対価」そのものに対する認識と社会の位置関係なのです。ナイチンゲールの著書をひもとくと、いわゆる「社会の底辺」にある人達への援助のあり方について悩む人々のはなしがでてきます。話し相手になるなどというのは、金持ちの無駄話につきあうのとどうちがうのか。金品を恵み与える事はいいこととはいえないではないか。そして、相手の「底辺」の人達は援助の人々がくる日は普段かたづいている部屋を「わざとちらかしておく」ことで、彼らに仕事があるようにしている、というくだりが。このような問題は、対価というバランスがとれていない際に、誠意のある人はどう悩むか、という事例となっています。「自分の財布がふくらめば、それが汚い金であってもウレシイ」というような品性には理解できないでしょうけれど。
たとえば、アメリカのように学生が友人の手伝いをする時も時給で計算したバイト料を求めたり、家庭内の手伝いでも親子の間で賃金交渉を行ったり("Done!"といって手をうちあわせるシーンを映画などでご覧になった方もいるでしょう)、という社会では、「後者のボランティア」というものは構造的に発生しません。これは、「対価」というものが労働ときちんとバランスして認識されるからです。もっというならば、アメリカやヨーロッパの社会というものは、裸の「個」のすぐとなりに存在し、個は社会と素肌をぴったりとあわせているために、自らの行為の目的と対価は遊離できないのです。ボランティアという概念が日本では多重化してしまったのもまたここに原因があります。日本は風土的に自然の恵みが多く、いわゆる「戦う」生活よりも集団としての生活・共生・共同体のウェイトが大きいということがあります。日本では、世間という概念が成立し、個と社会の間にはさまってさまざまな価値観の代替となったり、おきかえをおこなったりしてきました。世間とは、癒着した個のつながりによるクラスであり、社会に対しては総体としての個として、個に対しては密着した社会としてふるまうという奇態な性質をもっています。それは、個が必ずしも自分のすべての面倒をみなくても、社会との間に位置する世間が補ってくれる、ということでもあります。アメリカのサラリーマンは税金を自分で申告し、日本のサラリーマンは会社がかたがわりしている、という構図とも似ています。結果として、本来の対価であったものが世間に吸収され、対象としての認識か薄くなります。「金をかせぐのはみっともない行為」という風潮もここからつながってうまれてきます。結局、個と個の関係のバランスであったはずの対価から、バランスの機能が失われ、バランス自体は世間の中の位置関係によって充当される、という甘えた構図ができあがるのです。「よくしてくれたから」、「あれだけがんばったから」というごまかしの言葉がここから容易にわきだします。「過去にがんばったこと」をそれとして評価することは、「現在の問題を見逃す」こととは違うのですが、それがここで積極的に混同され、「現在の問題」の責任から逃れ去る口実につかわれるのです。
「対価をともなわない」ことは、ボランティアの結果にすぎなかったはずなのに、この「後者のボランティア」においては、積極的な動機に変化しています。対価それ自体のバランスとしての価値がゆがんでしまったため、今度は「対価をもとめない」ことに一種の美学としての「価値」が生じてしまうのです。障害者のケアをしている人が、「こんなにステキなワタクシ」という自覚をもちたいという動機によっていた、という事例は現実問題として枚挙に暇がありません。それでもケアされているならばとりあえずはいい、のでしょうか。否、これは断じて否なのです。そういう不純な動機から「ケアしてあげる」人達は、相手を一個の人間として認識する能力がなく、「ケアしてあげなければならないかわいそうな弱者」という差別的認識でしか接する事ができないからです。障害者の人権などあったものではない、ということになります。これは、社会そのものがもつ構造としての差別をふやしこそすれなくすことにはなりません。ケアの人間がいなくても生活できる町づくり、建物作り、システムづくりを積極的に妨害する唾棄すべき認識なのです。
対価を求めない、というのは、行為そのもの、結果そのものが対価であるボランティアであればこそ当然のことなのですが、そこに妙な意味付けをしたがる人がでてくる、ということですね。それは、個としての人間の品格、そして責任感にかかわるものです。
不純な動機は、しかし、それが不純であるが故に、当人にとっては決して「不純ではない」のです。当人は、「いいことをしている」という意識でいます(だからこそ「動機が不純」なのですが)。そういう人達は、「自分はいいことをしている」のだから、いっさいの批判に耐えられません。批判は、行為とその結果を改善する提言ではなく、「自分の善意の否定」に腹の底ですりかえられるからです。そういう人達は、それまでのものごとを変化させるすべての提言に対して、なにひとつ建設的な提案もしないまま、やみくもに文句をいい、妨害し、相手をいかなる卑怯、かつ姑息な言動を労してでも揶揄し、ひきずりおろそうとします。「それまでのものごと」は、自分の「いいこと」の最大の根拠であり、それを変化させられてしまうと、「感謝を他人に要求する口実」がなくなってしまうからです。彼ら動機が不純な人間のクズどもは判で押したように、「批判はなにもうみださない」といいはります。そういう文言を吐かせる遺伝子があるのではないかと思えるほど、これは典型的な反応です。端的な例として、ナイチンゲールが現在どのように大衆に理解されているかを考えればすみます。「クリミアの天使」ですものね。馬鹿馬鹿しい。ナイチンゲールこそは、それまでの医療看護のシステムの問題をその飽く事のない辛辣な舌でもって生涯徹底的に批判し続け、それまでの医療従事者と戦い続けた闘士でした。クリミア戦争は、そのほんのささいな断片にすぎません。しかもナイチンゲールをこころよくおもわぬ従来の医療システムの意味を重視したい連中の妨害にあって、物資の補給をとめられたり、というまさしく患者の命にかかわるトラブルまでおまけとしてついた戦争でした。そういう戦う人間を「天使」にまつりあげるのは、批判を頭からおそれ、旧来のシステムでうまい汁をすっていた連中と、また、そいつらと共通する品性をもった人間達です。ナイチンゲールにつけられたあだ名は「飽く事を知らず、怒れる魔女」でした。ナイチンゲールの著書をひもとけばたちどころに、えげつないエセボランティア、くだらない「社会派」はいつの時代にも必ず批判あるところにはわいて出るものなのだ、ということが理解できます。ナイチンゲールがかえようしたのは「社会」であり、「個」の認識、特にマジョリティとしての個の認識でした。これは、時代や分野に囚われない普遍的な問題なのです。
ヒトという生き物は、群体のようなものをつくって相互にひとつとなって生きることができず、産まれてから、死ぬまで絶対的な個をさけられません。社会とは、そのような個同士のぶつかりあう場であり、補いあう場でもあります。そもそも、個であるということは、自らを純粋に尊重する限りにおいて必然的に、不可避に他者を損なう側面をもつということでもあります。また、そのような場でなおかつ個を尊重するには他者とのバランスのとれた距離の維持が大切である事もまた確かな事です。このバランスは、常識やマナーと称されることもありますが、その性質上、「尊重されたい」個のバイアスが常にかかりうるものであり、したがって、常にバランス自体は決して定量も客体としての観察もかなわない抽象的で、主観的な概念であることを忘れてはなりません。結果として、人間は二つのグループに大別されてしまうのです。ひとつは、自らの意志と責任に基づいて、自己規範的に行為をなすもの、もうひとつは、他者の顔色をうかがい、他者との相対的な評価体系の内容によって外部規範的に生きていくものです。いうまでもなく、「本当のボランティア」は前者にしかできませんし、後者のタイプの人間は「動機が不純なエセボランティア」しかできません。
ある行為、あるボランティアとしての行為がどちらであるのか、ということは、その当事者が自らの行為に言及する際に端的に、残酷なまでに端的にあらわれてしまうものです。そして、さらに残酷なのは、後者のタイプの人間は、翻ってその日常的な生活、業務をひとつひとつみなおして見たときに、同質のいわくいいがたい問題がひそやかに山積されていることに後から気付かれてしまう、ということです。それは、その人の人間としての品性、品格にかかわる以上、当人の責任である以外に誰の罪でもないのですが、たまたまそういう人がなんらかの責任ある地位についてしまっていた際の実害たるや、目をおおわしむるものがある、というのは何度もボランティアに関連して直面してしまう哀しい現実です。
エセボランティアは、箱の中の腐ったリンゴです。じわじわとその周囲が目にみえないところから侵されていくのです。違法コピーソフトといっしょで、個に対するひとつひとつの個別の指摘と批判を明示的におこなう以外に対策はありません。ひらかれた言論だけが闇に沈潜する「善意のエセボランティア」に対する駆虫剤なのです。
1996.11.13